帰郷と山道
夜闇に紛れるようにして苗木城を出て、実兄・織田信長の本拠である小牧山城へ向かった琴の一行は、街道に沿って南下した。
途中、元夫である遠山直廉の実兄・遠山景任の居城である岩村城、そして、同じ遠山一族である遠山民部景行が治める明知城の近辺を通ったものの、特に立ち寄る事も無く素通りした。
琴は既に直廉と離縁している事に加え、織田家を袂を分かって武田方についた岩村・明知の両遠山家の面々と顔を合わせる事を琴が嫌がった事が理由である。
もっとも――それは、遠山景任と遠山景行も同じだった。
武田家に弓を引いた咎で直廉から離縁され、遠山家と繋がりの無くなった“織田家の女”である琴と下手に接触して、武田方に疑心を抱かれるような事になってはたまらない。
そう判断した両家は、十数騎の護衛のみを伴って急ぎ足で去っていく琴の輿を無視する事を選んだのだった。
――唯一の例外は、一足早く苗木城から岩村城へ戻っていた景任の妻・つやだった。
彼女は、直接会う事こそしなかったものの、“琴の叔母”として使いを送り、尾張へ帰る姪への見舞品を届けさせた。
だが――琴は、「お気持ちだけ頂きます」というよそよそしい言葉だけで、送られた見舞品を決して受け取ろうとはしなかったのだった……。
――それから数日後。
明知城を過ぎて西に進路を変えた琴たち一行は、美濃と尾張の国境に聳える三国山 (現在の岐阜県土岐市)の山間に差し掛かっていた。
山間を這うように続く山道は、馬が二頭並んで通る事も難しい程に狭く、前日降った雨のせいでひどくぬかるんでいる。
その為、琴たち一行の馬列は縦に伸びた形になり、ゆっくり慎重に進まざるを得ず、そろそろ日が西の空に沈もうという時分にもかかわらず、遅々として捗らなかった。
「……琴様、お加減は如何でしょうか?」
一行の中心にあたる輿の傍らに付き従って歩いていた初老の侍女が、心配げな顔をして、輿の中に向けて声をかけた。
それに対し、輿の中で座っていた琴は、眉間に皺を寄せながら険しい声で返す。
「……如何も何も、良いはずが無いでしょう。分かり切った事を聞くでない」
「そ、それは……失礼いたしました……」
輿の四方を覆う簾越しにも不機嫌がありありと伝わる声に、侍女は怯えた表情を見せながら頭を下げた。
そんな彼女に、今度は琴の方が問いかける。
「……尾張までは、まだかかるのか?」
「あ……はい」
琴の声色に先ほどのような鋭さが無い事に、侍女は安堵しながら頷いた。
「この三国山を越えれば尾張国内に入ります。もう少しの辛抱かと……」
「そうか……」
『もう少し』という侍女の答えに、琴もホッとした表情を浮かべる。
――が、それも束の間だった。
「……みつ」
「は、はい! 何でございましょう、琴様?」
自分の名を呼んだ声に不穏なものを感じた侍女――みつは、顔を強張らせながら返事をする。
緊張する彼女に、輿の中の琴は訝しげな声で尋ねる。
「本当に……この道で正しいのか? 私が苗木の城に嫁いだ時には、このような険しい山道を通ったりはしなかったように思うのだけれど」
「あぁ、それは……」
みつは、琴からかけられたのが叱責ではなかった事にホッとしながら、彼女の問いに答えた。
「どうやら、最近街道筋には質の良くない山賊が出るらしいとの事で、急遽通る道を変えたとの事です」
「山賊……?」
琴は、みつの言葉に眉を顰める。
「山賊が出るのか? この道は平気なのか?」
「ええ、そのようです」
みつは、琴の問いかけに頷きながら、馬列の先頭の方に目を凝らした。
「どうやら、ここは地元の杣人の中でも一部の者しか知らない裏道で、山賊が襲ってくる事も無いとの事です。ほら……列の先に立って先導しているのが、その杣人です」
「ああ……あのみすぼらしい形の者たち」
みつの言葉に促されて目を眇めた琴も、その姿を視止めて頷く。
「……解った」
そして、諦め混じりの溜息を吐いて言うと、疲れた顔で傍らに置いてあった脇息にもたれかかった。
「ふぅ……」
不安定に揺れる輿の中、脚を崩して脇息に身体を預けた琴は、再び溜息を吐く。
そして、道脇の鬱蒼とした木々を簾越しに眺めながら、紅を差した唇を噛んだ。
(おかしい……)
彼女は、苗木城を出てから何百回と考えた疑問を、再び思い浮かべる。
(本当なら、こんな事になるはずが無かった。あの密書によれば、兄上の送った援軍が、既に国境を越えて東濃のそこかしこに潜んでいるはずだったのに……)
――そう。そういう話だった。
なのに――。
(苗木を出てここに到るまで……既に国境を越えているはずの織田軍が、影も形も見えない……)
この山を越えれば、尾張の国境はすぐだという。……それなのに、各所に身を潜ませているはずの織田家の兵たちが、織田家の息女である自分を迎えに現れるような気配が全く無い。
これは一体、どういう事だ……?
(……まさか)
琴の脳裏に、ひとつの信じたくない考えが浮かぶ。
(あの密書……全てが偽りだった……? 来もしない援軍が来ると私を騙して、武田に反旗を翻させる決意を促す為に……?)
サーッと顔から血の気が引いていくのを感じた。
(まさか、兄上が私を……いや、そんなはずはない……)
一瞬実兄を疑いかけた琴だったが、すぐに首を横に振って、その考えを打ち消した。
そして、ある男の顔が、確信を伴って脳裏に浮かぶ。
(あの男……! 兄上の使者として、書状の中に隠した密書を届けに来た……)
その男の、まるで老獪な猿のような面相を思い返しながら、小者と侮ってうろ覚えだった彼の名を思い返した。
(確か……木下……木下藤き――)
――だが、彼女の思考は、そこで唐突に遮られる。
列の先頭の方で、穏やかならぬ叫び声が上がったからだ。
「――何事か!」
琴は、嫌な予感に苛まれながら簾を上げ、険しい声で供廻りに向けて尋ねた。
横を見ると、不安げな表情を浮かべたみつと顔が合う。
「琴様……」
「何があったのですかっ?」
「よ……良く分かりません。ただ……先導していた杣人が、急に走り去ってしまったようで、それで……」
「……!」
みつの要領を得ない説明を聞くや、琴の顔が青ざめた。
慌てて周囲を見回すと、いつの間に自分たちが崖間の狭い道に差し掛かっていた事に気付く。
道の左右は、まるで空堀の底に居るかのような、傾斜の急な山肌で遮られていた。
「こ、ここは……?」
それを見た琴は、一瞬で身の危険を悟る。
こんな場所で、件の山賊の襲撃を受けたりしたら――!
ゾッとする想像をしながら、琴は上を見上げた。
――と、その時、
崖の上で鬱蒼と茂った草の中に、何かが光るのが見えた。
「――っ! う、上!」
それが何なのかを一瞬で悟った琴が、護衛の兵たちに向け上ずった声で叫ぶ。
「上に……上に曲者が――!」
次の瞬間――、
彼女の声が終わらぬうちに、左右の崖の上から放たれた無数の矢が、甲高い風切音を上げながら琴たち一行に降りかかった――!




