髭面と猿面
武田信繁率いる武田軍が、苗木城下を発って木曾街道を西へ向かってから、遅れる事三日の後。
左腕を負傷して甲斐へ戻る諏訪四郎勝頼が、岩村城主遠山景任夫人のつやと、苗木城主遠山直廉の息女・龍を伴って岩村城へと向かった。
岩村城までつやを送った後は、中山道を辿って信濃と美濃の国境を越え、甲斐に向かう予定である。
勝頼は、輿に乗った龍姫と、彼女の世話をする為に甲斐府中まで同行する侍女たちを護衛するように、その周囲を数十騎の武田兵で囲い、昼過ぎ頃に苗木城を発ったのだった。
――それから数刻後、日が落ちた後に、人目を避けるようにひっそりと一基の輿が苗木城を出た。輿の周りには、苗木城の兵が十数名付き従う。
その輿に乗っているのは、実家の尾張織田家の為に苗木城を乗っ取り、西美濃へ向かう武田軍の背後を衝いて信繁を討とうと画策したものの、策を見破られて敗北し、その咎によって夫の遠山直廉から離縁された彼の妻・琴であった。
苗木城を出た彼女は、苗木兵に護衛――否、監視されながら、尾張国主であり、自身の兄である織田信長の居城である小牧山城 (現在の愛知県小牧市)を目指すのだった――。
◆ ◆ ◆ ◆
ここは――苗木城から南西に三里ほど離れた森の中。
鬱蒼と草木が茂る小山の頂上に、ひとつの小さな砦があった。
元々は南北朝時代頃に築かれたものだが、人里からも主要な街道から離れていた事もあって戦略上の重要な拠点には成り得ず、いつしか守る者も居なくなり、今から百年ほど前に打ち棄てられた廃砦である。
百年近くもの間、訪れる者もおらず、人の気配が絶えて久しかったこの地だが――、今はそうではなかった。
かつて本丸だった僅かな平地には、まだ充分に乾き切っていない真新しい木材で急造された掘っ立て小屋が数棟建ち、その内外には粗末な胴丸を着崩した野卑な顔立ちの男たちが屯している。
と――、
「猿! 猿はおるかっ?」
乱暴な口ぶりで叫びながら、数名の部下を引き連れた髭面の男が細い山道を登って来た。
彼の姿を見た途端、それまで暇そうに酒盛りや博打で暇を潰していた男たちが表情を変え、大急ぎで姿勢を正すと、髭面の男に向かって深々と首を垂れる。
そんな彼らを一瞥した髭面の男は、男たちの周りにサイコロや盃が散乱しているのを見て不機嫌そうに眉を顰めるが、特に何も言わずに通り過ぎ、点在する掘っ立て小屋の中で最も大きい一棟の中に入っていった。
そして、薄暗い室内を睥睨し、床に広げた地図の前で、戸口に背を向けて座っている一人の男の姿を見留めると、少し怒気を孕んだ口ぶりで声をかける。
「おい、猿。オレが呼んでいたのが聞こえなかったか? 居るんだったら、さっさと返事をし――」
そこまで言いかけたところで、彼は口を噤んだ。
相変わらず自分に背を向けたままの男の丸まった背中が、ゆっくりと船を漕ぐように前後に揺れている事に気付いたからだ。
次の瞬間、こめかみに青筋を立てた彼は、居眠りをしている男に向けて、あらん限りの大音声で怒鳴りつける。
「おい! 起きんか、猿ぅっ!」
「――はいぃっ!」
髭面の男の怒声が上がった瞬間、ビクンと体を震わせて、その場で小さく跳ね上がった男は、慌てた様子で周囲を見回した。
男の、まるで餌を探す雉のような滑稽な仕草に思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、髭面の男は言葉をかける。
「……後ろだ、このたわけ」
「あぁ、そちらで御座ったか!」
彼の呆れ混じりの声に、男は大袈裟な仕草で頷いてみせ、反動をつけて一気にその場で体を回転させた。
そして、その猿のような顔をくしゃくしゃに綻ばせながら、仁王立ちしている髭面の男を見上げる。
「これはこれは、お疲れ様に御座ります、又十郎殿!」
「……お前も、寝落ちる程に疲れておるようだな、猿」
男の柔和な笑顔にすっかり気勢を削がれた髭面の男――蜂須賀又十郎は、憮然とした顔で嫌味を言った。
それに対して、“猿”と呼ばれた男は、更にニコニコとしながら、照れくさげに頭を掻いてみせる。
「いやぁ、御気遣いのお言葉、痛み入りまする」
「気遣ったつもりは無いのだがな」
「いやはや。昔とは違って、今はすっかり柔らかい布団の上で寝る事に慣れてしまいましてなぁ。茣蓙ではなんとも寝つきが悪うて、最近ではまんじりとも出来ませなんだ。まったく……贅沢に慣れると、逆に不便になる事もあるようで……ウフフ」
「……」
嫌味が通じていない様子の“猿”に呆れ顔を浮かべる又十郎。
――と、次の瞬間、“猿”が不意に表情を消した。
そして、細めた目で又十郎の目を見据えながら、「では――お気遣いついでに」と言葉を継ぐ。
「――もう、お兄上の小六殿にお仕えしていた頃とは立場が違います故、いい加減に某の事を“猿”と呼ぶのはおやめ下され。今の某には、“木下藤吉郎秀吉”という立派な名前が御座りますので」
「……っ!」
又十郎は、猿――木下藤吉郎秀吉が上げた、これまでの口調とは一変した低い声を聞き、自分を睨め上げる蛇のような冷たい瞳を見た瞬間、息が詰まって二の句が継げなくなった。
同時に全身が粟立ち、吹き出した冷たい汗が背中を伝い落ちるのを感じる。
彼は、心中に湧いた動揺を藤吉郎に悟られぬよう、殊更に顔の筋肉に力を込めながら、ぎこちなく頷いた。
「わ……分かった、さる……藤吉郎」
「ははは……早速の御配慮、かたじけのう御座る、又十郎殿」
藤吉郎は、又十郎の返事を聞いた途端に、先ほどと同じような屈託の無い笑みを満面に浮かべる。
その笑顔からは、先ほど垣間見えた怖気立つような凄惨さが綺麗さっぱり消え去っていた。
だが、それを見た又十郎の心を占めたのは、安堵では無く、より強い嫌悪……いや、恐怖であった。
(この……妖怪めが)
彼は、表面では素知らぬ顔をしつつ、心の中で秘かに毒づくのだった――。
蜂須賀又十郎とは、蜂須賀小六こと蜂須賀正勝の弟だったと伝わる人物です。
『蜂須賀家記』によると、尾張稲垣村の台蔵院の養子となった後、永禄九年 (西暦1566年)に、兄の正勝と共に木下藤吉郎秀吉の一夜城の逸話で有名な墨俣城周辺で起こった戦いに従軍したと伝えられています。
ですが、それ以外に関しては、その生没年はもちろんの事、正確な諱も伝わっていない、謎に満ちた人物です。




