出陣と見送り
――それから二日後。
先日の戦いの後始末と、在番衆として東濃に留まる秋山虎繁隊に代わって戦列に加わる苗木衆の受け入れを終えた武田軍は、今度こそ西美濃の斎藤領へ向かわんとしていた。
「――では」
苗木城の玄関口である大門の前で馬上の人になった信繁が、彼の出陣を見送る為に居並んだ者たちに顔を向け、穏やかな声をかける。
「そろそろ行く。後の事は任せたぞ、伯耆」
「はっ、お任せ下され」
信繁の声に大きく頷いたのは、在番衆として苗木城に留まる事になった秋山伯耆守虎繁だった。
彼は、騎乗する信繁の顔を真っ直ぐ見上げると、少し口惜しげな表情を浮かべながら言葉を継ぐ。
「正直……左馬助様と共に西美濃で暴れられぬのは残念至極ではありますが、直々にお申し付け頂いた以上、御役目はしっかりと果たします。どうぞ後顧の憂いなく、存分にお戦い下され」
「うむ」
虎繁の言葉を聞いた信繁は、満足げに微笑んだ。
――と、
「典厩様の目が届かないからといって、あまり酒をお召しになられてはいけませぬぞ、秋山様」
信繁の騎馬の銜環を掴んでいた武藤昌幸が、いたずらっぽい表情を浮かべながら軽口を挟む。
それを聞いた虎繁は、仏頂面で昌幸の顔を睨みつけた。
「無論、分かっておるわ! 貴様こそ、小生意気な口を叩いて左馬助様を困らせるなよ、喜兵衛!」
「なんと! これは異な事をおっしゃる!」
虎繁に怒鳴りつけられた昌幸は、怖じる素振りも見せずに、大げさに肩を竦めてみせ、言葉を継ぐ。
「畏れながら、拙者が小生意気な事を申し上げるのは、秋山様に対してだけに御座ります!」
「こやつめ……っ!」
「ふふ……」
開き直る昌幸に歯ぎしりする虎繁の顔を見て、信繁は思わず噴き出した。
彼は、口元に手の甲を当てて笑い顔を隠しながら、やんわりと昌幸の事を窘める。
「昌幸、あまり伯耆を見くびるでない。この男は、そうまで言うたら、とことんやる男だ。きっと、在番衆として苗木に留まる間は一滴の酒も口にせぬくらいに徹底するに違いないぞ」
「あ……い、いや……」
虎繁は、信繁の言葉を聞いた瞬間、目に見えて狼狽した。
「さ、さすがに一滴も口にせぬという訳では……。あ、いや! そりゃもちろん深酒は控えますが、適量を嗜む程度は……」
「ははははは! 今のは戯言だ、伯耆よ」
慌てて弁明する虎繁を見て、信繁は愉快そうに笑い声を立てるが、すぐに表情を引き締める。
そして、虎繁の顔を見つめながら、「だが――」と続けた。
「今お主が言った通りだぞ。いくら酒が好きだと言っても、あまり飲み過ぎるなよ」
「は、はっ! それはもちろん……肝に銘じて……!」
信繁の言葉にタジタジとなりながら、虎繁は深々と首を垂れる。
そんな彼に頷き返した信繁は、その傍らに佇む大紋姿の男に声をかけた。
「――という事で御座る。伯耆が酔い潰れでもしたら、きつく叱ってやって下され、遠山殿」
「あ……い、いや、叱るだなんて、滅相も無い……」
信繁の言葉に、苗木城主・遠山直廉はひどく恐縮しながら頭を振る。
そんな彼に苦笑を向けながら、信繁は軽く会釈した。
「では……後の事、くれぐれもお頼み申す」
「はっ! 武田様も、どうぞご武運を!」
直廉の激励の言葉に、信繁は微笑みで返す。
と、
「これからどんどん寒くなりますゆえ、風邪などひかぬよう、お気を付け下さい、典厩様――いえ、叔父上」
「四郎……」
信繁は、労りの言葉をかけてきた甥の方に顔を向けた。
そして、白布で腕を吊り下げた四郎が少し浮かぬ顔をしているのを見ると、僅かに表情を曇らせる。
彼は、小さく息を吐いてから、穏やかな声色で甥に声をかけた。
「――お主こそ、甲斐に戻ったら、しっかりと休んでその腕を治し、来たるべき次の戦に備えるのだ。良いな」
「……はい」
「……」
信繁は、この先の戦いに自分が参加できぬ事に落胆を隠せない勝頼を前にして、一瞬言葉を詰まらせる。
同じ武人として、武田家の男として、彼の悔しい気持ちが痛いほどに解ったからだ。
……だが、だからといって、手負いの者を戦に連れて行く訳にはいかない。
そう考えた信繁は、喉から出かけた言葉を呑み込むと、全く違う話を切り出す。
「四郎……龍姫の事、宜しく頼んだぞ」
「あ――はい」
龍の名を聞いた勝頼は、一瞬ハッとした様子で目を見開いてから、軽く頭を縦に振った。
そんな彼の反応を見て、僅かに口元を綻ばせた信繁は、更に言葉を継ぐ。
「龍姫には、もう会ったのか?」
「はっ……」
信繁の問いかけに、勝頼は小さく頷いた。
「昨夕に、龍姫の方から私を訪ねてこられて……軽く挨拶を交わしました」
「そうか……」
問いに答える勝頼の顔を見て、信繁は秘かに安堵の息を吐く。心なしか、憂いに沈んでいた彼の表情が和らいだように見えたからだ。
――どうやら、龍と会った時の事は、勝頼にとって好ましからぬものでは無かったらしい。
と、その時、
「ところで、四郎様……」
唐突に、昌幸が口を挟んできた。
彼は、その目をいたずらっぽく輝かせながら、勝頼に尋ねかける。
「龍姫は、どのような御方でしたか?」
「どのような……と言われても……」
勝頼は、昌幸の不躾な問いかけに戸惑いながらも、律儀に答えた。
「そうだな……まだお若いものの、齢以上にしっかりとした心をお持ちの方だと思った。此度の躑躅ヶ崎館へ行く事の意味もしっかりと理解し――覚悟しているようだった。……普通の娘なら、こんなに急に人質に出される事になったら取り乱してもおかしくないというのにな。だから――“気丈で聡明な女性”というのが、龍姫と会って感じた正直な印象だ」
「……」
龍の父親である遠山直廉が、勝頼の言葉を聞いて複雑な表情を浮かべる。
その一方で、
「成程……そのような御方で御座いましたか……」
昌幸は、そう呟きながら、馬上の信繁に向かってさり気なく目配せをした。
「……」
信繁は、そんな昌幸に対し、小さく頷き返すのだった。




