白煙と赤刃
突然聞こえた低い男の声に驚き、刀を振るう手を一瞬止めた兵の目に、素早く身を翻した侍女の姿が映る。
主のつやを守るように、兵たちの前に立ちはだかっていた彼女は、後ろ手に縛られていた両手を、まるで大空へ飛び上がろうとする大鷲のように真っ直ぐ伸ばすと、いつの間に掌の中に握り込んでいた丸い球を床に向けて勢いよく投げつけた。
(な……っ? この女、いつの間に縄を……ッ?)
(一体なんだ、あの球は……?)
兵たちが、目の前で起こった事に意表を衝かれ、当惑と驚愕の表情を浮かべる事しかできない。
と、次の瞬間、
床に叩きつけられた丸い球が乾いた破裂音を上げて弾け、同時にその中から夥しい白煙が噴き出してきた。
舞い上がった白煙は、あっという間に部屋の中に充満し、兵たちの視界を真っ白に覆い尽くす。
「く、曲も――」
侍女が叩きつけた球が煙玉だと気付いた兵が上げかけた叫び声は、その途中で篠笛のような甲高い音に変わった。
「ひゅー……」
奇妙な音を鳴らしながら、その場に頽れる兵。その喉元には、細く鋭い苦無が深々と突き立っていた。
「なっ……?」
突然斃れた同輩に、周りの兵が狼狽の声を上げ、思わず動きを止める。
と、次の瞬間、
濛々と垂れ込める白煙の中から、ひとりの小柄な影が飛び出してきた。
小柄な影――つやの侍女は、斃れた兵の手から零れ落ちた刀を素早く拾い上げるや、足音ひとつ立てずに呆然と立ちすくむ若い兵へと接近する。
「が……ぁっ!」
若い兵の口から、くぐもった断末魔が上がった。
背を丸めるようにして彼の懐に飛び込んだ侍女が、そのまま具足の脇下の隙間に刀を突き立て、彼の心臓を一突きに貫いたからだ。
視界の利かない中、うめき声と共に板敷の床に重いものが転がる音を耳にした兵たちの間に、恐慌が広がった。
「な、何だッ? 何事が……がはっ!」
「ど、どこだ! どこに……ぐぅっ……」
「ひ、ひぃ……あぁが……っ!」
立ち込める白煙の中で、いくつもの驚愕の声と悲鳴と断末魔が次々と上がり、硝煙の匂いとともに鉄臭い血の香りが部屋の中を流れ漂う。
その中で琴は、扇を振り下ろした格好のままで、呆然としていた。
「な……何が起こっているのですかッ?」
彼女は震える声で白煙の向こうへ問いかけるが、それに応える者は誰も居ない。
――だが、彼女の問いへの答えは、ほどなくして白煙が晴れた事で為された。
板敷の床に広がる夥しい鮮血と、その中で事切れている彼女の配下たちの姿によって……。
「な……」
目の前に広がる信じ難い惨状に、琴は顔面を蒼白にしながら唇を戦慄かせる。
「な、何ですか……これは……一体……何が……?」
激しく体を震わせた彼女は、うわ言のように呟きながら、自分が手に持っていた扇を取り落した事にも気付かぬ様子でその場に力無くへたり込む。
と、その鼻先に、血が滴る刃が突きつけられた。
「ひっ……!」
「……終わりだ」
血で真っ赤に染め上げられた刃を突きつけられ、潰れた蛙のような悲鳴を上げる琴の怯えた顔を見下ろしながら、手にした刀身と同じくらいに返り血で全身を真っ赤に染めた侍女が、低い男の声で告げる。
「足掻こうとしても無駄だ」
「ひ……」
「……まあ、安心しろ」
先ほどまでの威勢が嘘のように怯えながらガタガタと身を震わせる琴に、侍女――否、侍女の格好をした猿顔の男は淡々とした口調で言った。
「さっきお前が自分で言っていた通り、殺してしまうと後々面倒な事になるからな。おとなしくしていれば、苗木遠山家の正室……いや、織田家の息女として、丁重に扱ってやる。……おとなしくしていれば、な」
「……」
琴は無言のまま、安堵と憎悪と恐怖の入り混じった表情で、男の血まみれの顔を睨みつける。
そんな琴の視線など意に介さぬ様子で、先ほどまで自分自身が縛られていた荒縄で彼女の身体を縛り上げた侍女姿の男は、依然として縛られたままのつやの傍らに屈み込んだ。
「お待たせした。斯様な見苦しき姿にて失礼仕る」
「いえ……お願いいたします」
着ていた女物の小袖を返り血で赤く染め上げながら、神妙な表情で断りを入れる男に、つやは鷹揚に頷く。
男は、つやを縛る荒縄と体の隙間に血で塗れた刀を差し込むと、一気に断ち切った。
「ありがとうございます」
自由の身になったつやは、侍女姿の男に軽く会釈をすると、きつく締め上げられていた手首を擦る。
そして、逆に縛られた琴の方に顔を向けると、表情を曇らせた。
「……こんな事になってしまって残念です、琴殿」
「……」
つやの言葉に、琴は口惜しげに唇を噛む。
そして、眉間に深い皺を寄せながら、つやの顔を憎々しげに睨んだ。
「この……売女めが……! 生家である織田家に仇なすなんて……恥を知るがいい!」
「……先ほども申したでしょう?」
つやは、琴の罵倒に眉を顰めながらも、落ち着いた声で答える。
「私はもう織田家の女ではありません。嫁入りした今は、遠山家の人間であり、何よりも遠山家の事を優先するべき立場なのです。――それは、貴女も同じだったはず。違いますか?」
「……私にとっては違います」
琴は、つやの顔に鋭い視線を向けたまま、きっぱりと頭を振った。
「私は、織田家の為に、勘太郎殿の元へ嫁いだのです。ならば、織田家の利益と繁栄を第一に考えて動くのは当然ではないですか?」
そう言うと、彼女はせせら嗤うように口の端を歪める。
「――それは、叔母上とて同じだったはず。違いますか?」
「……」
先ほどの自分の言葉をあからさまな悪意と皮肉を込める形でそっくりそのまま返してきた琴を、つやは無言のまま、険しい表情で見つめるのだった。




