三の丸門と異音
「おい、物見台からは、何も報せは無いか?」
深更を過ぎた苗木城。その三の丸に設けられた詰め所で、不寝番を務める足軽が、外の見回りから帰って来た同輩に尋ねる。
その問いかけに対し、同輩は被っていた陣笠の顎紐を解きながら軽く頭を振った。
「いや……何も聞いておらん。外は静かなもんだ。酒に酔った非番の馬鹿共が騒いでおる以外はな」
「そうか……」
同輩の答えを聞いた足軽は、少し安堵した表情を浮かべながら、詰所の明かり取りの窓から外を伺い見る。
そんな彼に、土間に置かれていた水甕から柄杓で掬った水を飲んでいた同輩は、訝しげな顔をして尋ねた。
「……どうした? 何か気になる事でもあるのか?」
「いや……」
篝火に照らし出された三の丸門に異状が無い事を窓越しに確認した足軽は、苦笑いを浮かべる。
「別に、大した事は無いんだがな……。ただ、日暮れの後に出て行った隊の事が妙に気にかかってな」
「あぁ……矢口様の――」
足軽の答えを聞いた同輩は、手の甲で口元を拭いながら、軽く首を傾げた。
「……そんなに妙な事か? だって、あれは、西に向かった武田軍に加わる為だという話じゃなかったか?」
「まあ、確かにオレもそう聞いているがな……少し引っかかるというか」
そう言いながら、足軽は窓越しに外を指さした。
「不寝番のオレたちはともかく、他の奴らも軍装を解くなというお達しが出ているのが、どうも奇妙に思えてな……」
「まあ……確かに」
足軽の言葉に、同輩も同意を示すが、すぐに否定するように首を左右に振る。
「まあ……武田方とは何事も無かったとはいえ、今は非常時だからな。大方、万が一に備えろという事なんだろうさ」
「そういう事かの……」
同輩の楽観的な言葉に、少し引っかかるものを感じながらも小さく頷いた足軽は、何の気なしに窓の向こうに目を遣った。
――と、
「……おや?」
足軽は不意に訝しげな声を上げ、窓へ顔を近付ける。
「……どうした? 何かあったか?」
「あ……いや」
足軽は、目を眇めて暗闇の向こうを透かし見ながら、不審げな声で訊ねる同輩へ躊躇いがちに答えた。
「今……何か黒い影が篝火の前を横切ったように見えたのだが……何も居らんな」
「おいおい」
足軽の言葉を聞いた同輩は、安堵と呆れが入り混じった声を上げる。
「大丈夫か、お前。まさかこっそり酒でも飲んでおるのではあるまいな?」
「い、いや、そんな訳ないだろうが!」
「じゃあ……幽霊か狐狸にでも化かされたのか?」
「馬鹿な事を言いおる」
同輩のからかい交じりの言葉にムッとしながら、足軽は目を擦った。
「まあ……眠たいのは確かだがのう……」
「ははは……何だ、立ったまま夢でも見ておったのか」
足軽の事を笑った同輩だったが、すぐに自分も大口を開けてアクビをする。
「ふあぁ……やれやれ、お前の眠気がワシにまで伝染ってしもうたわ」
「人のせいにするな」
大きく伸びをする同輩に、足軽は憮然としながら言った。
「致し方なかろう。とうに子の刻 (午前零時)を過ぎておるのだ。眠たくならんはずがない」
「そうだのう」
足軽の言葉に、同輩は苦笑しながら頷き、水甕から柄杓で掬った水で顔を洗う。
「朝まであと何刻くらいかのう。不寝番は退屈でかなわぬ」
「せめて気付の酒でもあれば、話は別な――」
軽口を返しかけた足軽の声が、途中で途切れた。
それに気付いた同輩が、麻布の手拭いで拭いていた顔を訝しげに上げる。
「どうした? 何かあっ――」
「シッ!」
足軽は、緊張した面持ちで同輩を制した。
そして、息を潜めながら、じっと耳を澄ませる。
「……聞こえぬか? 何か……重いものが引き摺られるような……低い音」
「え?」
足軽の囁き声を聞いた同輩も、半信半疑といった顔で耳を欹て――すぐにハッと目を見開いた。
「本当だ……これは――まさか!」
「――っ!」
足軽と同輩は、微かに聴こえる重く低い音の正体に気が付くや、青ざめた顔を見合わせる。
「も、門が開いておる音……?」
「そ、そんな馬鹿な!」
足軽は、信じられぬという面持ちで激しく頭を振った。
「か、開門の報せなど受けてはおらぬぞ!」
「な、ならば、一体何者が……?」
そう言っている間に、一際重たい音がふたりの耳朶を打つ。この音は、何度も聞いた事がある――門が開き切った音だ。
(い、一体……何故、この真夜中に門が開いたのだ?)
ふたりの頭に、当然の疑問が浮かぶ。
だが、ふたりにその理由を考える暇はなかった。
すぐに、先ほどまでの音とは違う響きの音が聴こえてきたからだ。
“ドドドドドド……”
「「……っ!」」
その聞き覚えのある音を聞いた瞬間、ふたりの表情が引き攣った。
この規則正しい地鳴りのような音は――数多の馬が一斉に地を駆ける蹄の音だ!
「な、何事だっ!」
足軽と同輩は、慌てて壁に立てかけていた槍を手に取ると、詰所の引き戸を開けて外へと飛び出した。
――だが、すぐに唖然として足を止めてしまう。
彼らの目に映ったのは――全開になった三の丸門から次々と駆け入ってくる騎馬武者たちの姿――!
そして、彼らが背に挿していた旗指物には――。
「あ……あれは――た、武田菱……ッ!」
「た、武田の手の者……かッ?」
ふたりは、武田菱が染め付けられた真紅の旗指物を見て驚愕の声を上げる。
何故、西へ向かったはずの武田の騎馬武者たちが、このような深更に門を破って押しかけてきたのだ――?
だが、彼らにその事を深く考える暇は与えられなかった。
呆然と立ち竦む彼らの姿を、騎馬武者のひとりが目敏く見つけたからだ。
「そこにもいたぞ! ――ふたりだ!」
その声を聞きつけた数人の騎馬武者が、手槍を掲げながら馬首を返し、ふたりの方へと駆け来たる。
「逃がすな! そのまま圧し包め!」
そう声をかけあいながら、たちまちふたりの周りを囲んだ騎馬武者たちは、短く持った手槍の穂先をふたりに向けた。
「ひ――!」
穂先を突きつけられたふたりの足軽は、手にした長槍の柄を固く握り締め、恐怖の表情で騎馬武者たちを震えながら見上げる。
もう数瞬したら、自分たちは騎馬武者たちが突き出した槍に身体を刺し貫かれる――そんな絶望的な未来を確信し、観念してギュッと目を瞑った――その時、
「そのままおとなしく得物を捨てるのだ。さすれば、お主らの命を奪うような事はせぬ」
不意に、まだ年若い男の声が、彼らに向けてかけられた。
「へ……?」
「な、何と……?」
足軽と同輩は、耳にした声に戸惑いながら、固く瞑っていた目を開く。
すると、彼らを包囲する騎馬武者たちの間から、ひとりの騎乗した男がゆっくりと出て来た。
その年若い男は、狐のような面立ちに柔和な微笑を浮かべながら、怯える足軽たちに声をかける。
「俺は、甲斐武田家の足軽大将にして、武田典厩様の与力――武藤喜兵衛昌幸だ。命が惜しくば、おとなしく槍を置いてくれ。武田典厩様の御名にかけて、決して手荒な事はせぬと約束しようぞ」




