敗走と追撃
深更の森の中で始まった苗木衆と武田軍との戦いは、四半刻 (約三十分)も経たぬうちに大勢が決した。
出合頭の火縄銃による一斉射で夜襲の出鼻を挫かれ、不意を衝くつもりが逆に不意を衝かれた苗木衆は恐慌に陥り、指揮系統も混乱した。
たちまち苗木衆は、軍として機能しない、ただの烏合の衆と化す。
実のところ、夜襲を仕掛けた苗木兵の士気は高くなかった。
息を潜めるようにして城を出、深い森の中に伸びる狭い間道を通り、開けた野原のそこかしこに展開する敵軍の陣幕を目の当たりにするまで、戦うどころか、これから自分たちがどこに何をしに向かっているのかすら良く分かっていない者が大半だったのだ。
これは、当主の遠山直廉を力づくで本丸に押し籠め、苗木城の実権を掌握した直廉の妻・琴や矢口茂武ら親織田派の者たちが、情報の漏洩を極度に警戒した事が原因である。
自分たちの意に反した決定を下した当主・直廉を首尾よく幽閉する事には成功した琴たちは、織田方につくという大きな方針転換を他の将兵には明かさぬまま、ただ「出陣する」とだけ伝え、夜襲の為の兵を集めたのだ。
もちろん、集められた将兵たちは、急な動員を訝しんだ。
だが、自分たちが武田家に帰順する事は知っていた将兵たちは、てっきり苗木城の南から西に向かって進軍し始めた武田軍に合流するのだと思い込み、自分たちが人目を忍ぶように間道を進む事に疑問と不審を抱く者も中にはいたものの、大半の兵は然程の疑問も抱かず、大将である茂武の下知に従ったのだった。
彼らが、茂武の口から、此度の出陣の真の目標を知らされたのは、木々の隙間から武田軍の陣を窺える距離まで接近してからだったのである。
全く意想外の下知に、将兵は内心で大いに動揺した。
だが、「武田軍は酒に酔い潰れ、前後不覚で眠っているから、首を獲るのは赤子の手を捻るよりも易しい」「武田の将兵を討ち取れば、殿からはもちろん、織田家の殿さまからも手厚い褒美が頂けるぞ」という茂武の甘い言葉に功名心と欲をそそらされ、彼らはやる気になった。
――だが、そのやる気は、その場しのぎの付け焼刃のようなものでしかなく、酔い潰れているはずだった武田軍が整然と並んで鉄砲を一斉に撃ち放ったのを見た瞬間、文字通り雲散霧消したのだった……。
一方の武田軍は、苗木衆の夜襲を事前に察知し、それに対する備えを充分に整えた上で、一芝居打ちながら時を待っていた為、その士気は横溢で、毛ほどの油断も無かった。
戦の勝敗は、陣幕の裏に潜んでいた武田軍の火縄銃が火を噴いた瞬間、既についていたと言える。
火縄銃の斉射の後、武田軍は徒歩武者を森の中に突っ込ませ、速やかに苗木衆の迎撃に移ったが、執拗な追撃はしなかった。
武田軍は、日の高いうちにこの地を宿陣の地と定めると、日没前に陣の周囲に物見を出し、地形の把握をした上で、森に散在する巨岩や特徴的な枝ぶりの大木を目印としていた。
武田軍の将は、その情報を元にして、浮足立った苗木の兵を更に分散させるよう、追撃の指揮を執る。
その目論見通り、武田軍に追い立てられた苗木衆は、散り散りになりつつ必死で逃げ惑った挙句、森のあちこちにある泥濘に足を取られたり、崖地に追い詰められた。
万事休す……と、迫り来る死を覚悟し慄く苗木の兵たちだったが、そんな彼らを遠巻きに取り囲んだ武田の兵はこう告げる。
「直ちに得物を捨てよ! 手向かい致さねば、我らは貴様らを妄りには討たぬ! 命が惜しくば、こちらの言う通りにせよ、良いな!」
それを聞いた苗木兵は、思わず耳を疑ったが、自分たちを囲む敵兵の数を見て、どう足掻いても勝ち目は無いとすぐに悟り、次々と手にした槍や刀を地面に放り捨てたのだった――。
◆ ◆ ◆ ◆
――だが、全ての苗木衆が、速やかに武田軍に降った訳では無かった。
苗木衆を率いていた矢口茂武をはじめとした親織田派三十余名は、夜襲が武田方に見透かされ、逆に自分たちが策に嵌ったのを悟るや、即座に馬の頭を巡らせた。
「――者ども、退けっ! 武田の追っ手を振り切って、速やかに苗木城へ戻るのだっ!」
馬の横腹を乱暴に蹴りつけて全速力で駆けさせながら、茂武が必死の形相で叫ぶものの、混乱の極みにある兵たちの耳には全く届かない様子だった。
「くっ……!」
茂武は、面頬の下で口惜しげに奥歯を噛む。
と、その時、
「や、矢口殿ッ!」
彼の横を並走していた男が、上ずった声で彼の名を呼んだ。
「こ、これから如何なさるおつもりかッ? 苗木に戻って、籠城なさるか? それとも、このまま南へ落ち延びて……」
「苗木に戻る! それしかあるまい!」
兜の眉庇の下からでもはっきりと分かるほどに青ざめた武者の顔を一瞥しながら、茂武は苛立たしげに怒鳴る。
「苗木の城は、東濃随一の堅城じゃ! 籠もれば、いかに武田軍とはいえ、やすやすとは落とせぬ! 二月……いや、一月も持ち堪えられれば、きっと尾張から援軍が参るに違いない!」
「そ、そうであるな……」
茂武の言葉に、武者はぎこちなく頷いた。とはいえ、その表情は暗い。茂武の言葉が、多分に楽観的予測を含んだものである事を薄々と察している様子だった。
そんな彼の顔を横目で見ながら、茂武は密かに舌を打つ。
(……こう言うしか無いであろうが! それでも、南へ向かうよりは幾分かマシじゃ。何せ、尾張の国境には、あの男が……)
「信濃殿ッ!」
「ッ!」
ある男の顔を脳裏に思い浮かべて、身を震わせた茂武は、横を走る武者が上げた金切り声でハッと我に返り、咄嗟に手綱を引いた。
けたたましい嘶き声を上げながら、茂武の馬は棹立ちになりながら急停止する。
危ういところで落馬を免れた茂武は、嫌な予感を感じながら、同じように馬を止めた武者に向かって声を荒げた。
「何じゃ! 一体、何が――」
「て、敵で御座る! 前方に敵の姿が! ま、待ち伏せされ申した!」
「な――っ?」
武者の言葉に、茂武は背筋に冷たいものが伝うのを感じながら、慌てて前方に目を凝らす。
――彼の言う通り、緩やかに曲がった道の十丈 (約三十メートル)ほど先に、煌々と燃える松明を持った騎馬武者たちの姿があった。
「ふ、伏兵だと……? い、いつの間に……」
信じられない光景を目の当たりにして、茂武は呆然と呟く。
そして、松明の炎に照らし出された旗印を見た瞬間、その目が更に大きく見開かれた。
「あれは……諏訪梶ノ葉の家紋? な、ならば――諏訪四郎勝頼の隊か……ッ!」




