夜襲と物見
日がとっぷりと暮れ、半月が西の空に沈んで夜闇が辺りを完全に覆い尽くした戌の刻 (午後十時)過ぎ、苗木城の兵は秘かに行動を起こした。
急病で床に臥せた城主・遠山直廉に代わって苗木城の采配を執る琴の命を受けた家臣・矢口信濃守茂武が率いる苗木遠山勢一千が、法螺も陣太鼓も鳴らさずに、粛々と城の大手門を出る。
琴が彼らに与えた目的は、木曾街道を西へ向かう途中で野営している武田軍の陣に夜襲をかけ、総大将の武田典厩信繁をはじめとした将兵の悉くを討ち取る事だった。
五千の武田軍に一千の兵で戦いを挑む――普通であれば敗北必至の戦力差だが、夜襲をかけるとなれば話が変わってくる。
美濃の地は、武田の将兵にとっては未知の地であり、地理にも疎い。そんな慣れぬ土地で日が暮れるまで行軍していた武田軍はさぞ疲れているに違いない。
それに対して、地元の苗木勢にとって、この地は家の庭のようなものであり、街道はもちろん、余所者は知らないような間道まで知悉している。その為、敵に存在を悟られる事無く接近する事が可能だった。
その地理的優位に加え、月が地平に沈んだ後の夜闇も、隠密行動を取る彼らに味方をしてくれる。
そして――何よりも、武田軍は、昼間の会談で苗木城が自分たちに味方すると信じ切っており、すっかり油断している。まさか、背後から追ってきた苗木衆が襲いかかってこようとは露とも思うまい。
地の利。
時の利。
人の利。
それらが全て重なった今であれば、たとえ五倍の戦力差でも勝利は必至――それが、琴と、彼女に従う旧織田家家臣の矢口茂武らの出した結論であった――。
◆ ◆ ◆ ◆
城の大手門を出た苗木衆一千は、ほどなく軍を複数に分けた。
そして、木曽川の北岸の数ヶ所に繋いでいた渡し舟を使って渡河し、木曾街道が通る南岸へ静かに上陸してから一旦集結する。
それから、予め決めていた手筈通りに数百名単位の塊となり、順々に西へと向かった。
もちろん、木曾街道を通るような目立つ真似は避け、夜目が利く者を先頭に立て、地元の者しか知らないような険しい間道や獣道を伝い進む。
苗木遠山軍の構成は、徒歩武者が多かった。
これは、大柄な馬が多いと、かえって狭い間道の移動の妨げになってしまいかねない事と、静謐を求められる隠密行軍では馬の嘶きや蹄の音が適さないからである。
その為、足軽はもちろん、士分の武者もほとんどが馬に乗らずに行動しているのだ。
数少ない騎馬武者も、騎乗する馬が不用意に嘶いたりしないよう細心の注意を払っている。
――苗木衆が武田軍を追って西に向かい始めてから一刻ほど過ぎた頃、
「――信濃守様!」
軍の指揮を執る矢口茂武の元に、先に放っていた物見が戻って来た。
「……止まれ!」
茂武は、軽く手を挙げて将兵に命じると、騎乗したままで物見に向かって訊ねる。
「……見つけたか?」
「はっ!」
茂武の声に、片膝をついて頭を下げた物見が緊張した声で応えた。
「武田軍は、ここから西に半里ほど進んだところの開けた草地で野営を張っております!」
「そうか……!」
物見の報告を聞いた茂武と周囲の武者たちの間に、緊張が走る。
表情を強張らせた茂武は、面頬の下から覗く目をギラリと光らせ、更に問いを重ねた。
「敵方の様子はどうじゃ? 見張りの数はどの程度立てておる?」
「それが……」
茂武の問いかけに、物見は少し当惑の表情を浮かべながら答える。
「どうやら……武田の兵どもは、軍陣で盛大な酒宴を催しておったらしく、そこかしこに空になった酒樽や酒甕や酔いつぶれた兵たちが転がっている有様で……。さすがに見張りは立っておりますが、いざ事が起こっても、あのザマではすぐに対応は難しいかと」
「ほう……」
物見の言葉に、茂武は面頬の奥で口元を緩めた。
「それは楽しい酒盛りだったのであろうな。昼間、秋山に持たせた手土産がお気に召して頂けたようで何よりじゃ、くくく……」
そう。
琴は、会談の後に城を去ろうとする秋山虎繁に、『戦陣見舞』として大量の地酒を持たせたのである。
酒は、戦で塞ぎがちな将兵の心を癒す嗜好品として、戦陣には欠かせない品だ。
もちろん、武田軍も充分な量の酒を小荷駄隊に運ばせていたので、これ以上荷物を増やすのは有難迷惑なのだが、味方につけた苗木遠山家から直々に贈られた品であれば、儀礼上受け取らない訳にはいかなかった。
とはいえ、過剰な物資を小荷駄隊に運ばせていては、軍の進行速度が落ちてしまい、今後の作戦行動に支障をきたしかねない。
――と、なれば、
「まだ斎藤の領内に入る前の安全な間に、兵どもに酒を振る舞って荷駄を減らそうとすると踏んだが……まんまとその読みは当たったようじゃな」
「まだ斎藤の勢力圏内ではないとはいえ、戦陣のただ中で兵を酔い潰させるとは……思ったよりも抜けておるようですな、武田典厩とやらは」
「まあ、あの秋山が、酒飲みたさに大将を唆したのかもしれんがな」
「かもしれんのう」
彼に付き従う武者の軽口に頷き、くっくと嘲笑った茂武だったが、すぐに表情を引き締め、腰に差していた采配を抜いた。
そして、采配の柄をグッと握りしめながら、周囲の武者たちに言った。
「さあ、者ども、油断するでないぞ! ここからが正念場ぞ!」
彼の声に、苗木兵たちの表情がぶるりと震えた。
もちろん、それは怯えによるものではない。迫り来る戦いに向けての武者震いだ。
茂武は、夜闇の中で爛々と瞳を輝かせる将兵に向け、潜めた声で下知する。
「皆の衆! 兜や陣笠を被って緒をきつく締め、馬には枚を噛ませよ! これより、できるだけ音を立てずに武田の陣に接近し……一気に夜襲を仕掛けるぞ、よいな!」
本編中の最後で矢口茂武が兵に言っていた「馬には枚を噛ませよ!」というセリフに出てくる『枚』というのは、夜襲をかける際に、馬や兵の口に咥えさせて、嘶きや声を出させないようにする道具です。
箸のような形をしており、紐で結んで口に固定していました。
この事から、『枚を銜む(息を潜めて声を出さない事)』ということわざが生まれました。
ちなみに、本編に出てくる苗木衆の武田夜襲隊を率いる大将・矢口茂武ですが……実は全く架空の人物です(小声)。




