標的と目論見
「……」
自分の言葉に、怖じ気る様子も無く頷いたつやを険しい瞳で見下ろした琴は、無言でそれまで龍が座っていた場所に立膝をついて座った。
一方のつやは、両膝を床につき、踵を浮かせて背筋を伸ばした。これは、跪座と呼ばれる座り方で、すぐに立ち上がって行動に移れるようにする、臨戦時の座り方だ。
今のつやは、具足こそ脱いではいるものの、軍装である鎧直垂を纏っている。だから、跪座になる事自体は不自然ではなかったが、明らかに琴と背後の家臣たちに対する警戒心を抱いたゆえの姿勢である事は明らかだった。
当然、琴もつやの内心を察するが、素知らぬ顔で穏やかな口調で話を切り出す。
「……さて、何からお話ししましょうか」
「――何からでも結構ですが、少なくとも、私にとっては“愉しいお話”では無さそうですね」
と、澄ました顔の琴に皮肉をぶつけたつやは、険しい表情で言葉を続けた。
「では……率直にお伺いします。――何をしようとしているのですか、貴女は?」
「ふ……見てお解りになりませんか?」
琴は、つやの問いに口元を綻ばせると、背後に並ぶ甲冑姿の家臣たちの事を顎で指し、揶揄うような口調で答える。
「もちろん、戦ですわ」
「……その戦の相手は、どこの誰なのですか?」
「そんな事、決まってましょう?」
そう言って一旦口を噤んだ琴は、つやにニヤリと嘲笑いかけてから、その続きを口にした。
「――今、何も知らずに西に向かって進軍中の武田軍です」
「……!」
琴の答えを聞いたつやが、僅かにその目を見開く。そして、小さく息を吐いて、軽く首を左右に振った。
「愚かな事を。今、貴女がしようとしている事が、どれだけ遠山家の未来を危うくさせるか、お解りにならないのですか?」
「これは異な事をおっしゃいますわね、叔母上」
つやの非難に、琴はピクリと眉を吊り上げる。
「お解りになられていないのは叔母上の方です。今の武田左馬助は、我ら遠山の衆が味方に回ったと思い込み、油断をしております。その油断を衝いて、夜闇に紛れて背後から夜襲を仕掛ければ、たかだか五千ばかりの武田軍の首を悉く討ち取るなど容易い事でしょう」
「つまり、騙し討ちをするという事ですか?」
琴の言葉に、つやは眉を顰め、大きく頭を振った。
「そのような事をすれば、武田様のお怒りを買う事は必定。たとえ、武田左馬助様の軍を打ち破ったとしても、その後の報復で、苗木遠山……いえ、遠山七支族すべてが武田に滅ぼされます」
「そうはなりませんわ。武田を討ち破った後、遠山家は直ちに兄上――織田家が派遣してきた軍の傘下に降り、その庇護を受けますから。そうすれば、いかに武田といえど、やすやすとは手を出せませまい」
「そうでしょうか……?」
つやは、楽観的な予測を口にする琴に向かって、訝しげに首を傾げてみせる。
「琴殿……貴女は御存じないのですか? 駿河の今川が、武田家の助勢と共に、織田家の後ろ盾を得て独立した松平家に向けて兵を出した事を」
「無論、存じておりますわ。それが何か?」
琴は、鼻白みながらつやの問いに答えた。
そんな彼女に、つやは辛抱強く情勢を説く。
「ならばお解りになるでしょう? 織田は、松平家の救援に向かわねばなりません。そうなったら、ここ東濃に出せる兵など残らない事を……」
「いいえ、そうはなりません。兄上は、必ずこの地に兵を送ってくれます」
つやの言葉を、いやにハッキリとした口調で否定する琴。
その自信満々な様子に思わず気圧されたつやは、思わず首を傾げた。
「……なぜ、そこまでハッキリと言い切れるのです?」
「ふふ……申し訳ございませぬが、それには答えられませぬ」
つやの問いかけに、琴は扇で口元を隠しながらはぐらかす。
そして、目を細めながら「いずれにせよ――」と続ける。
「我が織田家の事を第一に考えるなら、ここで武田を討たない道理はありません」
「“織田家の事を第一に”……ですか」
琴の漏らした言葉に、つやの表情が険しさを増した。
「……貴女の中では、第一に優先すべきなのは、遠山家ではなく織田家なのですね」
「当然です。私は、織田家の女ですから」
つやの非難混じりの言葉にあっさりと頷いた琴は、扇を叔母の顔に突きつけながら問い返す。
「叔母上、貴女はそうではないのですか?」
「私は……」
琴の問いに、つやは口を真一文字に引き締め、決然と答えた。
「――私は、大和守様に嫁いだ瞬間から、遠山家の女です。遠山家の為に生き、遠山家の繁栄の為に力を尽くします」
「……そうですか。私とは違うようですね」
と、つやに冷ややかな声をかけた琴は、そのまま立ち上がった。
そして、跪座のまま自分を見上げるつやを冷たい目で見下ろしながら、彼女に告げる。
「ともかく……そういう訳ですから、叔母上にはしばらくこの部屋でおとなしくして頂きます。どうぞ、御自分の城のようにお寛ぎ下さい。……もちろん、部屋の前には見張りの者を付けさせて頂きますけどね」
「……しばらくとは、いつまでなのですか?」
「もちろん、我ら苗木衆が武田勢を討ち果たした後、兄上の後ろ盾で、苗木遠山家が岩村遠山家に代わって遠山七頭の本流となるまで……です」
「勘太郎殿が……遠山の本流をですって?」
つやは、琴の言葉に思わず目を丸くした。
「琴殿……貴女は、遠山家の宗家の座を――!」
「ふふ……」
琴は、睨みつけるつやに嘲笑を向けながら屈み込み、彼女の傍らに置かれた刀を取り上げる。
「叔母上……貴女は人質です。叔母上の身がこちらの手の中にある限り、岩村遠山家は迂闊に手出しできますまい」
背後の家臣につやの刀を手渡しながら、琴はにんまりと笑みを浮かべた。
「ふ……ご安心下さい。おとなしくして頂けるうちは、こちらも危害を加えるつもりはありませんから。――そこの猿面女、お前もですよ」
「……」
琴にぎろりと睨まれ、つやの侍女は無言のまま僅かに眉を上げる。
一方のつやは、青ざめた顔で琴に声をかけた。
「……琴殿」
「何でしょう、叔母上」
「この事は……勘太郎殿もご承知なのですか?」
「……ふふふ」
つやの問いかけに、琴は思わせぶりな笑い声を上げる。
そして、つやの顔を軽く一瞥してから、「勘太郎殿は……」と口を開いた。
「急な病を発して、居室で御休みになっております。なので今は、私が勘太郎殿の代わりにこの城の全てを差配しております」
「……そういう事ですか」
琴の言葉と口調で大体の経緯を察したつやは、そう呟くと静かに目を瞑る。
そんな彼女に冷たい視線を向けた琴は、口元に薄笑みを浮かべながら、叔母へ慇懃に頭を下げるのだった。
「――それでは、私はこの辺でお暇させて頂きます。叔母上、どうぞごゆっくり……」
最近の研究では、戦国時代の高貴な身分の女性の座り方は、現在のような正座ではなく“立膝”と呼ばれる座り方をしていたと考えられています。
『立膝』とは、文字通り、胡坐の体勢から片方の膝を立て、背筋をピンと伸ばした座法です。
なぜ、正座ではなく立膝なのかというと、戦国時代の住居は畳がまだ普及しておらず、板敷――つまり、フローリングのままで、座布団などもまだ一般的ではなかったからだと言われています。
フローリングの上で正座をすれば分かりますが、固い板床の上で脛を下にしたまま座り続けるのはかなりの苦痛です。
その為、尻を床に付ける胡坐や立膝が普及していたと考えられています。
江戸時代に入ってからは、畳の普及や儒教思想の定着によって正座が一般的な座り方となり、立膝座りは使われなくなりました。
本編に出てくるもうひとつの座法である跪座ですが、これは星座の姿勢から、膝をついたまま爪先を立てた座り方です。ちょうど、正座から立ち上がろうとする時の途中の状態ですね。
長時間座っていても正座より足が痺れづらい上、本編でも記した通り、何かが起こってもすぐに立ち上がって対応できるというメリットもあり、甲冑を纏った戦陣で用いられた座り方のひとつでした。
昔の歴史ドラマでは、戦国時代の女性が正座で座っている事が多かったですが、これは、立膝座りをしていると「行儀が悪い」というクレームが視聴者から入ったからというのが理由の一つのようです。
最近の大河ドラマなどでは、史実に基づいて、女性が正座ではなく立膝座りしているシーンを良く見るようになりましたね。




