櫛と柄鏡
「まあ……!」
苗木城の二の丸に設けられた御殿。その中の一室である客間に、少女の無邪気な歓声が響いた。
「きれい……」
客間に立膝で座り、手にした漆塗りの櫛をうっとりと眺めているのは、苗木城城主遠山直廉の一人娘である龍である。
彼女は、櫛から目を上げると、興奮を抑えきれない様子で、目の前に座る客人に尋ねた。
「こんなに素晴らしい櫛を、わたしに頂けるのですか、つや様?」
「ええ、もちろんですよ」
龍の問いかけに大きく頷いた客人は、岩村城城主遠山景任夫人――彼女の大叔母でもあり伯母でもあるつやだった。
彼女は物々しい甲冑姿のままではあるものの、その顔には優しい微笑みを浮かべながら、穏やかな声で言葉を継ぐ。
「武田様からあなたに贈られた進物に比べれば粗末な物かもしれませんけど、そんな物でも良ければ、受け取って――」
「そんな物だなんて、とんでもありません!」
つやの謙遜混じりの言葉に、龍は慌てて頭を振った。
「こんなに綺麗なお櫛を頂けるなんて、本当に嬉しい……。わたし、大切にいたします!」
「そこまで喜んで頂けるのなら、私も嬉しいですわ」
はしゃぐ少女の姿に顔を綻ばせたつやは、傍らに控えた侍女に顔を向ける。
「……あちらの箱も持ってきて頂戴」
「はい、奥方様」
つやの言葉に小さく頷いた侍女は、静かに立ち上がった。
と、部屋の隅の文机に置かれた小箱を取りに行く侍女の背中を見ながら、龍がちょこんと首を傾げる。
「あの侍女……見ない顔ですね? 新しく抱えた者ですか」
「ええ」
龍の問いかけに、つやは小さく頷いた。
「元は岩村の地百姓の娘だったのですが、なかなかに気が利く賢い娘だったので、侍女として召し抱えたのです。出が百姓なだけあって、力仕事も任せられますし、色々と重宝しています」
「そうだったのですか……」
確かに、侍女は普通の女よりもやや大柄で、肩幅も少し広いように見える。百姓の娘として、野良仕事をしていたせいなのだろう。
ふたりがそんな会話を交わしている間に、侍女は小箱を手にして戻って来た。
そして、小箱を捧げ持つようにして、龍の前に差し出す。
「……どうぞ」
「あ……ありがとう」
少し素っ気ない侍女の態度に少々面食らいながらも、龍は彼女から小箱を受け取った。
「……」
柄鏡を渡した侍女は、龍の礼にも無表情のまま、軽く一礼してにじり下がる。
薄く白粉を振っただけの侍女の顔は、どことなく小猿に似ていたが、さすがにそれを口に出す事は憚られた龍は、何も言わずに渡された小箱の蓋を開けた。
そして、中に納められていたものを目にするや、目を丸くする。
「わあ……すごい……!」
「明国の柄鏡です」
美しい文様が彫り込まれた柄鏡をうっとりと眺める龍に、つやは満足げな微笑みを浮かべながら言った。
「……元々、私が輿入れする時に父……あなたの曽祖父様から贈られたものです。お古で申し訳ないのだけれど、あなたに差し上げます」
「ま、まことでございますかっ?」
つやの言葉を聞いた龍は、喜色を満面に浮かべて声を弾ませる。
「そのような由緒のある品をわたくしめに……よろしいのですか?」
「もちろんです」
龍の問いかけに、つやは目を細めて頷いた。
「あなたもそろそろ輿入れの年頃……嫁入り道具のひとつに加えて頂けるのなら、柄鏡も嬉しいと思いますわ」
「輿入れ……」
つやの言葉を聞いた龍は、何故か消沈した表情を浮かべる。
「わたしは……輿入れできるのでしょうか? 一度は話が流れた身ですのに……」
「あ……」
龍の口から漏れた小さな声に、つやは僅かに目を開いた。
――龍の言う『話が流れた』というのは、つい先年に破談となってしまった縁談の事である。
元々、龍は伯父にあたる尾張の織田信長の養女になった上で、甲斐武田氏との政略結婚で当主武田信玄の四男である諏訪四郎勝頼の元へ嫁ぐことになっていたのだ。
だが、昨年から著しく悪化した織田家と武田家の関係のせいで、その縁談話も流れてしまったのである。
破談になったのは、周囲を取り巻く情勢の変化によるもので、龍本人には何ら落ち度のあるものではなかったが、それでも彼女はいたく気に病んでいたのだ。
――だが、
「……安心なさい、龍殿」
気落ちする姪に、つやは優しく微笑みかけながら語りかけた。
「縁談話なんて、これからいくらでもありますよ。あなたはまだ若いし……」
つやはそう言いながら、龍の手から柄鏡を取り、彼女の顔を映してみせる。
「ほら……こんなに美しいのですから、ね」
「つや様……」
龍は、鏡面に映った自分の顔とつやの顔を交互に見ながら、戸惑うように目をパチクリさせた。
「う、美しいだなんて……そんな事は無いと思いますけど……でも、つや様にそうおっしゃって頂けて、嬉しいです……」
そう答えてはにかみ笑いを浮かべる龍の容貌は、確かにつやの言葉の通りに美しかった。
美人の多い事で名高い織田家の母・琴の血を受け継いでいるからだろう。
齢十二の彼女は、まだ蕾が開くには間があるものの、将来は大輪の花を咲かせるであろう事が容易に想像が出来るほどに整った顔立ちをしていた。
だが、母親のように、美しいが険のある容貌ではなく、人の好い父親に似たのか、その表情は温和なものを感じさせる。
恐らく、ゆくゆくは母親や大叔母である自分を遥かに凌ぐような美人になるに違いない――つやは、照れたように顔を綻ばせる龍を見ながら、そう思った。
――と、その時、
「失礼いたします」
閉じた襖の向こうから、彼女たちの歓談を遮るように、抑揚に乏しい女の声が上がる。
その声色を聞いたつやの表情が、一瞬強張った。
「……」
つやの侍女が無言のままで腰を浮かすと、襖とつやとの間を遮るように、さり気なく位置を変える。
一方の龍は、襖越しの声を聞いて、不思議そうな声を上げた。
「その声は――母様……?」
戦国時代頃に使われていた鏡は、現在のようなガラス製のものではなく、青銅製でした。
鏡面を錫でメッキして映るようにし、反対側に文様や絵を入れたものでした。
銅鏡といえば、古墳時代のものが有名ですが、室町時代以前までは、その形はほとんど変わりませんでした。
柄鏡は、円形の鏡面に持ち手を付けたもので、室町時代中期から後期にかけて、明や朝鮮から渡来したものだと考えられています。
戦国時代当時にあった柄鏡の鏡面の大きさは、せいぜい三寸 (約9センチ)といったところで、4寸 (約12センチ以上)の大きな柄鏡が登場するのは江戸時代以降です。




