褒美と城
「さて……」
今後の処遇を言い渡された竹中半兵衛と仙石久勝が部屋を辞した後、手元に置かれた茶を一口啜った信玄は、信繁と昌幸に顔を向けた。
そして、その口元に穏やかな笑みを浮かべながら、口を開く。
「改めて……美濃では良うやってくれた」
「はっ」
信玄の労りの言葉に、信繁は深々と頭を下げた。
そんな弟に軽く頷きかけながら、信玄は言葉を継ぐ。
「お主の目覚ましき働きのお陰で、木曽川以東の東美濃はほぼ我が武田のものとなった。さすがと言うべきかな、典厩」
「いえ……」
信玄の言葉に、信繁は困ったような笑みを浮かべながら、小さく首を横に振った。
「此度の戦、某は皆が担ぐ神輿の上で軍配をひらひらと振って音頭を取っていただけで、大した事はしておりませぬ。首尾よく東美濃を得られたのは、四郎や秋山伯耆守や馬場美濃や保科弾正など……皆が力を尽くして戦った成果に御座る」
そう言って、彼は後ろに控える昌幸の方にチラリと目を遣り、「その中でも……」と続ける。
「この昌幸の働きには随分と助けられ申した」
「て、典厩様……っ?」
急に話を振られた昌幸は、目を丸くしながら、声を上ずらせた。
そんな彼の驚いた様子にニヤニヤ笑いを浮かべながら、信廉が大きく頷いてみせる。
「おお、確かにそのようですな。源五郎の美濃での見事な働きぶりは、躑躅ヶ崎館まで届いておりましたぞ」
「今川家の援軍として三河に居た私たちにもです」
信廉の言葉を受けるように、義信が微笑みを浮かべた。
「何分、三河での我々は、あくまで今川軍の援軍だったから、あまり表立って戦う事も出来ず……お主の手柄話が届く度に、一条の叔父御 (信龍)や金丸平八郎が頻りに羨ましがっておったぞ」
「平八郎の奴はともかく、一条様にまで……」
昌幸は、義信の言葉に恐縮した様子で頭を掻く。
そんな彼の顔を見ながら、信玄が口を開いた。
「うむ。儂も典厩からの報告で聞いておった。苗木城と兼山での戦いのいずれにおいても、伏兵を率いて、勝敗を決定する重要な役目を見事に果たしたとな」
「はい」
信玄の言葉に、信繁は大きく頷いた。
「苗木城でも兼山でも、昌幸の働きが無くば、あそこまで順調に戦の流れがこちらに向かう事は無かったでしょう。勝ちを得るにしても、もっと多数の犠牲が出たに違いありませぬ」
そう言って、彼は昌幸に微笑みかける。
「間違いなく、此度の戦の一番手柄は、この昌幸です」
「典厩様……」
信繁の言葉に、昌幸は頬を上気させながら、声を震わせた。
そんな二人の事を見ながら、信玄も顔を綻ばせる。
「ならば、源五郎の褒美は弾まねばならぬな」
「そうでしょうね」
信玄の呟きに、義信も頷いた。
「そろそろ城のひとつでも与えて然るべきかと――」
「あ、若殿!」
義信の言葉に、昌幸が慌てて声を上げた。
「畏れながら、褒美に城は結構に御座います!」
「何を言うておる」
昌幸の返事に、信廉が呆れ顔になる。
「戦功を讃えられて城を預けられるなど、武士としてこれ以上ない誉だぞ。なのに、『城は要らぬ』とは……」
そう言いながら、チラリと信繁の顔を見た信廉は、苦笑いを浮かべた。
「城持ちになるせっかくの機会を逃す事も厭わぬほど、典厩様と離れるのが嫌なのか、源五郎」
「ご明察に御座ります、逍遥様」
「いや、否定せんのか、お前……」
即答する昌幸の潔さに、信廉は思わず失笑する。こうまで清々しく肯定されては、なんだか呆れを通り越して感嘆すら覚える……。
一方、そんな信廉の声を聞き流した昌幸は、信玄に向かって両手をついて訴える。
「お屋形様! 拙者への褒美は、金子か何かでお願いいたしとう御座います! 何卒、城だけはご勘弁を!」
「……やれやれ」
昌幸の懇願に、信玄は呆れ顔を浮かべた。
「思い返してみれば、去年の論功行賞でも同じような事を申しておったな、お前は」
「覚えてらっしゃいましたか」
信玄の言葉を聞いて、昌幸はニヤリと微笑んでみせる。
「拙者の気持ちは、あの時から微塵も変わっておりませぬ。拙者は、まだまだ典厩様の与力としてお側にお仕えし、そこで得る経験から色々と学び取って我が糧としたい……そう考えております」
「しかしな……」
昌幸の言葉を聞いた信玄だったが、僅かに渋面を浮かべた。
「経験と言うのなら、早いうちに城持ちとなった方が、与力よりもずっと多くの――」
「お屋形様は、つい先ほど仙石殿に申された言葉をお忘れですか?」
信玄の声を遮って、昌幸はしたり顔で言う。
「お屋形様は、『その者の意に出来るだけ沿うた務めに就かせるべき』と申されておりました。ならば、是非とも拙者の意も汲んで頂きとう御座ります」
「……相変わらず、小癪な口を叩きよる」
昌幸の言葉を聞いた信玄は、思わず呆れ声を上げた。……が、その声とは裏腹に、彼の表情はどこか楽しげだ。
わざとらしく溜息を吐いた信玄は、
「……と、此奴は申しておるが」
と、苦笑いを浮かべながら信繁の方を見た。
「お主としてはどうだ?」
「はっ……」
信玄からの問いかけに、信繁はどう答えるべきか迷う。
――武田家としては、昌幸を攻守の要となる城に据えたいところだ。彼はまだ二十歳にもならぬ若さだが、その才覚は抜きん出ており、要地の経営という難しい役目も難なく熟せるだろう。
――だが、その一方で、与力として自分を補佐してくれる昌幸を手放す事は、正直言って惜しい。
武田家の副将として多忙を極める信繁にとって、彼の意を汲んで適切に動き、時には自分の導きにもなってくれる昌幸の存在は、もはや欠かせないものになっていたのだ。
「……」
思い悩む様子の彼を、昌幸が心配そうにじっと見つめている。
彼の縋るような視線に気付いた信繁は、フッと表情を緩め、「畏れながら――」と信玄に向かって口を開いた。
「願わくば、昌幸は今少し我が手元に置いておきとう御座ります。――無論、いずれは城……いや、国ひとつを任せるに足る将となるでしょうが、今はまだ未熟なところもありますゆえ、某が教えられる事は教えてやりたく存じます」
「典厩様……!」
信繁の返事に、昌幸の表情がパッと輝く。
一方、信玄は肩を竦めながら頷いた。
「……相分かった。此奴を一番近くで見ているお主がそう考えるのなら、それが一番良いのであろう」
「我儘をお聞き届け頂き、恐縮に御座ります」
「だが――」
と、信玄は、信繁と昌幸の顔を順に見回しながら、厳かな声で続ける。
「そう申した以上は、有言実行せよ。典厩は源五郎をより良き将にすべく教え込み、源五郎は典厩から全てを学び取るよう精進するのだ」
「はっ、必ず」
「畏まって御座ります!」
信繁と昌幸は、表情を引き締めて、信玄に深々と頭を下げた。
「うむ。期待しておるぞ、ふたりとも」
信玄は、満足げに微笑しながら、ふたりに頷きかけるのだった。




