お題:黒い躍動
即興小説より、『お題:黒い躍動』
「ちくしょう! ここまでなのか!?」
絶体絶命だった。
暗闇の中、追っ手はぴたりとオレの背後をついてきていた。その気になればいつでもトドメをさせるというのに、必死で逃げ惑うオレを弄んでいる。
嗜虐的な視線を全身という全身に浴びせかけられ、もう助かる術などないと本能では悟っているのに、生きることを諦めきれない。
自分よりも遙かに大きな身体をもつ相手に対してオレが出来ることといえば、小ささを活かして素早く物陰に隠れるくらいしかない。しかし、『この場所』は追っ手の庭も同然。あっさりと見つかり無様に引きずり出されてしまう。
そしてまた、死と隣り合わせの追いかけっこが始まる。
『あそこはやめとけ。どれだけの仲間が帰ってこなかったと思ってるんだ』
死を間近にして、親友の言葉が頭を過ぎる。
『この場所』はオレ達にとって楽園とも、地獄とも呼ばれていた。
そこへ行けば、一生食うに困らない有り余る食糧と温かな寝床を得ることができる。しかし、そこにはオレ達よりも遙かに強い先客がいて、そいつらに見つかれば殺されてしまうのだという噂だった。
「けど、誰も帰らないってことは、あそこが本当に楽園だからかもしれないだろ。それに大丈夫だって。先客に見つかったとしてもオレの足なら逃げ切れるさ」
そんな風に自信満々に言っていたのに現実はこのざまだ。過去に戻れるのなら、オレは自分自身の浅はかさに激怒していただろう。
今なら分かる。寒さに耐え、飢えを凌ぐために肉体を酷使することになろうとも、生きていればそれだけで幸せだったと。
最初は良かった。『この場所』には噂通りの先客がいたが、奴らは住処にオレが侵入したことにも気付かなかった。見つかれば確かにやばそうではあったが、鈍間そうなため心配もないだろうとタカをくくった。
隠れる場所ならいくらでもあるうえに、オレが暮らしていた場所よりもずっと過ごしやすく快適だ。
これだけで『この場所』が楽園というには十分すぎたが、更にオレが確信するに至ったことがある。仲間を見つけたのだ。
彼等もまた今の暮らしに飽き飽きとして、新天地を目指してやってきた同志達だった。
そらみたことかと、オレは親友の鼻を明かしてやりたかった。オレは正しかった。仲間達は『この場所』で、もとの惨めな暮らしとは比べものにならないくらいに贅沢な暮らしを満喫していたのだ。
だが、すぐそばに強大な存在がいる事実をもっと意識するべきだった。もっと神経を張り詰めさせるべきだった。
温い幸せにつかり続けた結果、危機意識の薄くなったオレはドジを踏んだ。先客が活動していない夜中にこっそりと食糧を拝借するため動き出したオレは、見つかった。
いつも通りの行動の中に、例外が発生した。
先客は寝床で眠りこけているようだったが、『この場所』には先客以外にも恐るべき存在がいたのだ。
そいつは先客が使役する四足獣だ。
闇に浮かぶ不気味な一対の瞳は、暗闇であろうと関係なくオレの姿を逃さず捉えていた。
先客のよりは小さいが、それでもオレの何十倍もあろうかという巨大な身体をオレより俊敏に躍らせる。鞭のように振られる前脚に弾かれ、転がされ、オレは凄まじい勢いで体力と気力を奪われていく。
いっそのこと殺してくれと思考が絶望に染まるが終わりはいつまでも訪れない。獣は捕食者ではなく、オレを玩具としか見ていないのだ。終わりがあるとすれば、飽きられるか本当にオレの命が尽きるかだ。
オレがもがけばもがくほど獣は目を輝かせてオレを嬲る。動かず死んだふりをしても一瞬攻撃は止むが、最終的には動かぬ玩具として弄ばれるだけ。
だから、オレの選択は逃げ続けるほかない。
少しでも多く逃げて逃げて逃げまくって時間を稼ぐのだ。
きっとこのオレの様子は仲間達にも伝わっているはずだ。見つかってしまった以上、先客がオレ達の存在に気付くのも時間の問題だ。『この場所』は安全ではなくなった。一刻も早く逃げなければ、仲間達の命だって危ない。
ただで死んでやるものか。オレで遊びたければ好きなだけ遊べばいい。『この場所』で得た新たな友のため、何よりも伴侶とこれから生まれる子どものためにも、オレは死の寸前まで相手をしてやる。
獣の追撃を受け続けながら、オレは目の前に現れた高い壁をよじ登った。それも無駄なあがきだと言わんばかりに、獣は身を屈めてオレに飛びかかる体勢をとっている。
来るなら来いと、壁の頂点まで上ったオレは獣を見下ろした。この程度の高さは一足で詰められるのだろうが、この高台で奥の手を使う条件は整った。
普段は滅多なことでは使わない、お前達になくてオレにはあるもの。
「うおおおおおおおおおお! 飛べええええ!!」
――にゃあああああん!
意識して力を込めたオレの背中がぶわりと膨れあがって身体が飛び上がったのと、獣が雄叫びを迸らせて跳躍したのは同時だった。
*
「ぎゃあああああ!」
朝起きての第一声は、我ながら情けなくなるくらい盛大な悲鳴だった。
頬に受ける飼い猫のざらついた舌の感触が朝のまどろみを解いていき、中々起きない主人に痺れを切らして朝飯をねだる鳴き声でようやく目を覚ます。
飼い猫との朝の一連のやりとりは、俺にとっての目覚めの儀式のようなものだ。寝返りを打って目を開けると、予想通り目と鼻の先に迫る飼い猫と目が合った。
鬱陶しくもあるが可愛いやつだ。わかったわかったと、布団を剥いで上体を起こし、少し撫でてやろうと視線を下に向けたときである。
黒いゴミの塊のようなものが枕元に転がっていたのだ。それが一瞬何なのか分からず顔を近づけた結果、その正体をもろに見てしまったための悲鳴だったのである。
眠気は一瞬で吹き飛んだ。俺は自分でも驚異的なスピードでベッドから脱出する。飼い主の気持ちなど察しない飼い猫は、呑気に甘えた鳴き声を出しながら足下にすり寄ってきた。
「お前なあ!」
黒い死骸は仰向けになってい動かない。猫が仕留めた獲物を運んでくるというのは有名な話だが、まさかこんな形で当事者になるとは思わなかった。
飼い猫はさっさと朝飯を用意しろと言わんばかりに鳴き続ける。
「ああもう……つーかお前、俺の顔舐めたよな……」
もしかしなくても、こいつは『それ』を咥えて運んだに違いない。背筋に鳥肌が立つのを感じ、俺は思わず舐められた頬を袖で拭った。
「くっそー、今年はまだ見なかったんだけどなぁ……バル○ン焚くかな……」
どこから入ったのか知らないが、一匹見ればどれだけいるか分かったものじゃない。今後も安心して暮らすためにも、一計を案じなければならないだろう。
まったくもって、最悪な気分での一日の始まりだった。
奴らにどんな理由があろうとも、同居を許すわけにはいかない。