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 異世界にやって来たその日の晩、ベッドでもぞもぞしながら考えたのはやはり元の世界のことだった。


 わたしにとって元の世界は逃げたいことでいっぱいの場所だった。


 しかしこんな状況になってしまうと、逆に元の世界はどうなったんだろう、と思ってしまう。


 中学二年生失踪……か。ともすれば世間は一時的に大騒ぎになるんじゃないだろうか。大のオトナが失踪するのとはワケが違うのだ。


 けれどもそうなれば父親はものすごく怒るだろうなと思う。世間体がなによりも大事だから。母親はそばでオロオロとしていそうだ。


 おばさんはどうだろう? ナナを甘やかしてはいたけれど、愛していたのかは正直よくわからない。


 少ない友人たちはどうかな? 多少心配してくれるといいな……。


 両親たちはちょっと困ればいいと思った。ただ、不幸になって欲しいほど恨んでいるわけではない。ただちょっと困ればいい。それで溜飲は下がる。


 未練は思ったよりも少ない。数少ない心残りは友人たちに別れを告げられなかったこと、それからわたしによくしてくれた祖母のお墓にはもう行けないということだけだった。


 それ以外に懐かしむ存在になるのはきっと、エアコンだとか、コンビニエンスストアだとか、そういった文明の産物なんだろう。


 そう思うと、なんだか少しさみしかった。


 そうこうしているうちに体がだるくなって、まぶたが落ちて来る。

「つがい」とやらになったとは言え、ノアとは寝室は別々だった。前の雌とも別だったのだろうか? そのあたりはよくわからないし、別に知りたいとも思わなかったので、すぐにそれはわたしの思考の海に消えて行った。


「おはようございます、クロハさん」


 異世界に来て初めての朝。起床の声かけをしてくれたのは意外にもノアだった。


 前日の話から使用人? らしい「無色」の方とやらが、わたしの世話やらなんやらをするのだと思い込んでいたからだ。未だ、彼ら? 彼女ら? の姿は一度として見てはいないのだが、わざわざノアもいちいちわたしの世話をしたりはしないだろうと思っていた。


 というようなことをノアに言えば、「お忘れですか?」と彼は微笑んだ。


「雄は雌の世話をすることがステータスなんですよ」


 ……ああ、そんなことも言われたような言われなかったような。


「それで朝から……ですか?」

「ええ、そうですけれど」

「すいません。いつからこの部屋に?」


 ノアだって恐らくは仕事などやることがあるだろうに、今が何時かは知れないが待たせてしまったのは申し訳ない。そう思っての言葉だったが、ノアは別の解釈をした。


「ああ、すいません。勝手に部屋に入られるのはお嫌でしたか」

「え? ええー、うーん……」


 まっすぐな目でそんなことを言われると困ってしまう。すぐに返答できずに無駄な間投詞を挟むわたしを、ノアは不思議そうな顔で見ていた。


「いや! あの、ここはノアさんのお屋敷なんですよね?」

「ええ、そうです」

「ならノアさんのお好きなようにして構いません。わたしは居候も同然ですし」


 一応、というか、忘れかけていたがわたしはノアに助けられた身である。


 恐らくは「わけもわからず食べられるなんて可哀想」というような感情でわたしはノアから生き残るためのすべを施された。それが異なる世界から来たわたしからすると、アクロバティックでとんでもないものだったのはたしかだが、そのお陰で今も生きていることもたしかだ。


 ノアがうそを言っている可能性も否定はできない。けれども外部の人間と接触でもしない限り、うそだとも断言できない。


 結局、わたしは疑い続ける労力を惜しみ、彼を信じる道を選んだ。


 だから今のわたしのスタンスは「助けられた身なので謙虚に過ごそう」……なのである。


 けれどもノアは先ほどのわたしの言葉がお気に召さなかったらしい。すっと笑顔を消したので、わたしは緊張で心臓を跳ねさせた。


「――クロハさんは居候じゃありませんよね?」

「いや、でも、似たようなものでしょう?」

「いいえ、違います」


 いつもノアはにこにこと笑顔を浮かべていたから、その変貌ぶりに戸惑うと同時にいささかの恐怖を覚えた。


 普段――というほど長くいたわけではないけれども、穏やかなひとが怒ると怖い、というのは本当のようだ。


 そう、ノアは明らかに怒っている。そしてわたしもおどろくほどのバカではないので、そのうちに彼の怒りの理由に気づいた。


「……『つがい』だから、ですか」


 たっぷり間を空けて、嫌な沈黙の果てにわたしがぽつりとつぶやいたその言葉に、ノアはやっと笑みを見せる。


「そうですよ。『つがい』は決して居候などではありませんから。その点、よくよくお考えになってくださいね」

「でも、ノアさんは――」

「……私が嫌々『つがい』になったと、クロハさんはそう思っていらっしゃるのですか?」


 嫌々、とまでは思っていない。思っていないけれど多少の不承不承で「つがい」になったのでは、という疑惑はある。


「腕を――その、手術、する件について了承したのはわたしだけだったですよね?」

「ええ」

「『つがい』になると言ったのはわたしだけ」

「そうですね」

「ならノアさんに選択の余地はなかったように思うのですが」

「……それが、クロハさんが卑屈になっている理由ですか?」


 卑屈。卑屈? 別に、わたしはいじけてなんていないんだけれど。ノアにはそう見えたのかもしれない。


 ノアは至極優しく、さとすような口調で言葉を続ける。


「クロハさん、私にはちゃんと選択の余地はありましたよ」

「え?」

「クロハさんを助けるか助けないか。私はちゃんと選択しました」

「でも、それは――」


 それは、憐憫とか同情とか、そういった感情に突き動かされた結果なのではないのだろうか。


 そういった感情は頭で理性的に判断がついたとしても、心ではどうしようもないことも多い。だとすればその感情を無視できずに――つまり、選択の余地などなかったに等しいのではないのだろうか。


「可哀想だと思ったのもたしかです。けれども私は恐らく、クロハさんがいなければあの彼女も――最初は――助けようとは思いませんでした」

「え?」


 わけがわからず、わたしはまぬけな顔をしていたことだろう。


 対するノアは穏やかに、慈愛の目で――熱に浮かされたような視線を送ってきた。


「わかりませんか?」

「……わからないです」


 からからに乾いた喉で答える。


 うそだ。わかってる。わかっているけれど、その答えを出すのはなんだか自意識過剰のような気がしてはばかられた。


 ノアは微笑む。さながら春の日差しのような、人畜無害を体現した笑顔だ。


 けれどもわたしは、それが怖いと思った。


「私はクロハさんにひと目惚れしたんです」

「はあ……それは、どうも」


 こういうときにどういう態度を取ればいいのかわからない。


 恥ずかしいのはたしかだし、わたしの顔は今赤くなっていることだろう。けれども恥ずかしがって否定するのはなんだか違うし、かといって自信満々に「光栄です」というような態度でいるのもわたしの性質ではない。


 結果、気のない返事をしてしまって、わたしはますます穴を掘ってそこに入りたいような気持ちになってしまった。


 気持ちが入っていないと思ったのはノアも同じだったらしい。ちょっと傷ついたような顔をして――それでも微笑をたたえたまま――わたしから視線をそらす。そのことにわたしの心臓は嫌な方向にドキリとした。


「気のない答えですね」

「――いや、あの。こういうのは慣れていないので、どうすればいいのかわからなくてですね……決して嫌だとか、そういうわけではなくて――」


 口を突いて出てくるのは見苦しい言いわけばかり。言葉を重ねれば重ねるほど、墓穴を掘っているような気分だった。


「だから、その――」

「クロハさん、無理はしなくていいんですよ」

「無理なんかじゃ……」

「わかっていますから」


 ずっと別の方向をむきあっていたわたしとノアの視線が急に交わる。ノアの黒くて、ともすれば愛らしいようにも見える瞳には、くっきりとわたしが映っていた。


「……けれど、あなたを()うることは許してください」


 ノアの目は、涙がこぼれ落ちてこないのが不思議なほど、哀切に満ちていた。


「雌に捨てられたんです」。そう、悲しげに言ったノアの言葉を思い出す。


「ノアさ――」

「――さて」


 わたしがなにかを言う前に先にノアが腰を上げて話を切り上げてしまう。


「長話をしてしまいましたね。さあ、朝の準備に取りかかりましょうか」


 そうなってしまうと、わたしは口を閉じざるを得なかった。仮にわたしが勝気な性格だったとしても、今のわたしにはノアへ向けるための言葉を持っていないこともたしかで、そのことに気づいてもやもやとした気持ちを抱えてしまう。


 わたしはどうすればよかったんだろうか。そう自問しても答えは出てこない。


 答えを出すには、わたしはまだなにもかもを知らなすぎた。


「これが私のファミリアです」


 そう言ってノアが紹介したのはいずれも禿頭(とくとう)の、お仕着せらしいエプロンドレスを身につけたひとたちだった。つるりとした頭と男女の判別がつかない身体的特徴から、そのひとたちが「無色」と呼ばれる存在だということはすぐにわかった。


「ファミリア?」

「魔力を流して使役している『無色』をそう称します。魔力を流しても皮膚に紋様は出ませんが、わかりにくいですけれどほら――瞳に色が出ているでしょう?」


 ノアの言った通り、彼女ら――あるいは彼ら?――の目は一様に黒い。そしてみな無表情だ。……ちょっと怖い。


「無色」と呼ばれるひとたちはいわゆる労働者階級なのだと思っていたのだが、ことはそう簡単なものではなかったようだ。湖から生まれる件といい、「無色」というのは根本的に「雄」や「雌」とは違う存在のようである。


 単に性別のない人間を「無色」と称しているのかと思ったが、どうやらそれは思い違いだったらしい。


「ええっと……クロハと言います。これからご迷惑をかけるかとは存じますがどうぞよろしくおねがいします」


 ソファから立ち上がってぎこちない動きで頭を下げた。しかし、沈黙。ファミリアと呼ばれたみなさんはなんの反応も返さない。


 恐る恐る顔を上げて見るも、やはりそこにあるのは圧倒的なまでの無表情。……怖すぎる。


 というか、わたしはファミリアのみなさんの不興を買ってしまったのだろうか?


 そんなことを考えてひとり冷や汗をかいていると、横からクスクスという笑い声が聞こえてきた。そちらを向くまでもなく、その笑い声の主はノア以外にいない。


「な、なにか変でしたか?」


 やらかしてしまったかと嫌な汗をかきまくりのわたしに対し、ノアは面白いものを見たという顔で答える。


「いえ。ファミリアにあいさつをされる方は初めて見ましたので……」

「え? 変だった?」

「いえいえ。クロハさんは律儀な方だなと思いまして」

「……じゃあなんで笑ってるんですか」


 子供っぽく唇を尖らせれば、ノアはまたふふっと笑い声を漏らす。……わたしは全然、まったく、これっぽっちも面白くないってのに。


「ファミリアは家具のようなものですから、そのように丁寧な態度は不要ですよ。そもそもファミリアは基本は命令にしか反応しませんから」

「家具……」


 異文化コミュニケーションの嵐だ。それもとびきりの嵐だ。


 なにはともあれ、こうしてわたしの異世界での日々は始まったのであった。

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