(3)
「そんな話信じたの? バカじゃない?」
ナナは信じられないとばかりに軽く顔をうしろにそらしてわたしを見た。
「大体手足を切らなきゃ助からないなんておかしいでしょ」
「ここは異世界なんでしょ? ならわたしたちの常識が通用しなくてもおかしくないと思う」
正直な憶測を告げても、彼女から返ってくるのは嘲笑ばかりだ。わたしはわずかに心がささくれ立ち、いら立ちがひたひたと忍び寄ってくるのがわかった。「それに」
「手足がどうのって話……聞いてたならしてくれたってよかったじゃん」
「なんで?」
ナナがイライラしているのがわかった。それに呼応するように、わたしの中で焦燥が波立つ。けれどもここで仲たがいしてもどうしようもない。ひそかに呼吸を整えて、制服のすそをギュッとにぎりしめた。
ナナはいら立ちを隠さない目でちらちらとわたしを見た。視線を完全にそらさないのは、わたしの反応が気になるからだ。わたしが思い通りにならないときにナナはいつもこんな目をする。
「どうして今日会ったやつのほうを信じるわけ?」
その答えはもっともで、わたしは言葉に詰まる。
けれどもナナがしてくれた「聖女」がどうのという話も信用に値するかといわれれば、どっこいどっこいだろう。
じゃあどうして彼のいう言葉を信じたかと言われれば、適当な理由だった。単にわたしは彼女が気に入らないのだ。彼女の話をウソだと断じたいという反発心がそうさせているということは、わたしたちの関係を知る人間からすれば、火を見るよりも明らかだろう。
そしてナナが頑なにわたしの言葉に耳を貸してくれない理由も。
それでもわたしは、わたしの信じる「助かる方法」をひとりだけ選び取るということができない。
この異世界で、わたしたちは貴重な知り合いなのだ。憎らしいことに。
そして今思い返せば、わたしには未だ奴隷根性が奥底でくすぶっていたのだろう。つまり幼稚園以来から小学校卒業までの、ナナの面倒をみなければならないという呪縛から、解放されたつもりでいて、実際は違ったのだ。
「せめてその――め……女のひとたちが実際に手足がないのかどうかを見てから考えても、遅くないんじゃないかな。あのひと――も、協力してくれるって言ってたよ」
あの地味な男のひと。そう言えば名前を聞いてなかった。そしてわたしも名乗っていない。だというのにわたしたちは重要な――そしてナナ以外の他のひとたちには秘すべき会話をしたのだ。
そう考えると奇妙な気分に陥ったが、すぐさまことが露見したときのリスクを考えて、あのひとが名乗らなかったのではという可能性にたどりついた。
わたしの提案にナナはいよいよ不機嫌になって顔をそらした。もう目もあわせないということで、いかに自分が機嫌を損ねているのかアピールしているのだ。
このときのわたしはそれに気づきながらも、「いっしょに死んでしまうかもしれない」という恐怖からそれをあえて看過した。
足を組んで美麗なソファに腰かけるナナに乱暴な足取りで近づく。そしてソファの背に肘を突いて、頬に当てている手を取った。
「なにすんのよ!」
「ここで意固地になっていても仕方ないでしょ?! 見るだけでも見てみようよ!」
「なんでそんなことする必要があるの?! 死ぬならひとりで死ねよ!」
「――痛っ」
ナナがわたしの手を振り払う。その勢いのままにわたしの頬に張り手をくれてやると、今度は強く肩を押した。貧弱なわたしの体はいとも簡単にバランスを崩し、ローテーブルの角に腰を打ちつけた。
そのあまりの痛みに体を丸めて毛足の長い絨毯に転がるが、ナナの怒りはそれだけでは収まらなかったらしい。
ナナはやおらソファから立ち上がると、わたしの腹に一撃を加えた。その衝撃に「お゛え゛っ」とえづく声がわたしの口から漏れ出る。
「いちいち指図すんなよ! ブスのくせにマジウゼェ!」
ナナがこうして機嫌を損ねて暴力を振るうのは、残念ながら珍しくない。幼稚園のころからずっとそうだった。
中学校に入ってからはクラス数が増えたのと、わたしが彼女から離れて行ったから、こんな風に蹴られたりするのは久しぶりだった。そして中学生になって体が成長したぶん、その暴力性は以前とは比になっていないことを、身を持って知った。
――そうだ、ナナはこういうやつなんだった。
わたしは頭の芯からスーッとなにかが冷えて行くのを感じた。
「なにをしているんですか?!」
おどろきの声が乱入して、ナナの癇癪を起こした蹴りが止まった。
やがて毛足の長い絨毯を踏むかすかな足音が近づいてきて、あの地味な顔立ちの男がわたしの視界に入ってきた。「大丈夫ですか?」。眉を下げて、心底心配そうな顔をしている男を見て、わたしは自然とまなじりに涙を浮かべていた。
「なに勝手に入ってきてんだよ?!」
「申し訳ありません。なにやら争う音が聞こえてきたので、失礼を承知で入室を。……あの、これはいったい……?」
困惑の声で話す男に対し、ナナは完全に手負いの獣も同然だった。プライドを激しく傷つけられたと思っている今の彼女には、穏当な言葉すら刺激にしかならない。
ただ罵倒と「出ていってよ」と幼児のように地団太踏んで繰り返すだけのナナに、男は彼女から暴行の理由を聞き出すことができないと判断したらしい。
「こちらの方は具合が悪いようですので、お部屋からお連れしてもよろしいでしょうか」
ナナはなにも答えず、ソファに置いてあったクッションを男に投げつけた。男はそれを腕で防御しただけで、避けようとはしなかった。
「立てますか?」
ナナを刺激しないためか、わたしの耳元で男がささやく。わたしは「大丈夫」と答えようとしたけれど、できなかった。体が怒りと混乱で興奮しきっていて、言葉が言葉にならないのだ。腹筋が震えて、口からは犬のような吐息が漏れ出るばかり。こんなことは初めてだったのでおどろいた。
男はわたしの肩に手を貸すと、そのまま抱き起こして無理やりに立たせる。わたしの足は登山をしたあとのように笑っていて、それでもどうにか歩みを進めることができる状態だった。
「いつまでいるんだよ!」
ナナの怒号が飛ぶ。「行きましょう」。男はナナの言葉には答えず、彼女に向かって軽く会釈をする。それからわたしを半ば引きずるようにして観音開きの壮麗な扉をくぐった。
男が連れて行ってくれたのは、中庭にあるベンチだった。恐らく、先ほど話したときと同じ場所の。そうであるかどうかわからなかったのは、芸術に疎いわたしには、中庭の景色がどこも同じに見えてしまったからだ。
ベンチにわたしを寝かせてくれたあと、男は「ちょっと待っていてください」と言って姿を消した。そのことにわたしは人知れず不安を渦巻かせたが、男が帰ってくるのは本当にすぐのことだった。
「厨房まで行っていたんです」
そう言って男は水の入ったグラスを差し出す。わたしは上半身を起こすと、それを受け取って口につけた。よく冷えた水が舌に乗り、喉を通って胃まで落ちて行く。その感覚に少しだけ体がスッキリとしたような錯覚を覚えた。
「大丈夫ですか?」
男はベンチのそばに立ったまま、わたしを見下ろして言う。ここで「大丈夫じゃないです」って言ったらどうなるんだろうとひねくれた心で思ったが、結局口にしたのはありふれた「大丈夫です」という言葉だった。
「なんか……すみません」
次いで出てきたのは謝罪の言葉だった。だってそうだろう。あれはわたしとナナの諍いであって、このひとはなんの関係もないのだから。……いや、このひとの提案にわたしが乗ったのが原因と言えば原因だから、一応はあるのかな? まあどちらにせよ、とばっちりであることには違いない。
「あとで医者に診てもらいましょう」
「え? いえ、そんなこと……」
「手術のついでですよ。どちらにせよ体を見せることになるのですから」
男はあっけらかんと言ってのける。それを聞いてそういや手術を受けることに同意したんだったと思い出す。ナナとの言い争いで脳みそが興奮して、どこかへ飛んで行ってしまっていた。
その後も男はどこがどう痛いのかを聞いてきたが、なぜわたしがナナに暴行されたかの理由については聞かなかった。聞かれても答えにくかったので、わたしは心の中でほっとため息をついた。
ひと通り、話を終えてから男はこう切り出した。
「それと、今はお体がつらいでしょうが、『つがい』になる件を了承してくださったので、ぜひもう少し付き合って欲しい事柄があるのですが……」
「……なんでしょうか」
「一応、こちらで考えておいたのですが、わたしたちはひと目惚れしあって『つがい』になったということにしておきたいのです」
「はい」
「ですので、そのテイで今集まっている雄たちに顔見せと宣言をしておきたいのです」
「……わかりました。そちらの――えっと」
そう言えば名前を聞いていなかったと何回目かの思い出しをする。そんなわたしの考えを察したのか、彼はわざとらしくまばたきをしたあと、にっこりと笑った。
「――ノアです。そう言えば名乗っていませんでしたね」
「わたしはクロハです。えっと、よろしくおねがいします……?」
彼――ノアはくすりと笑って「よろしくおねがいします」と返してくれた。
ああ、殺されるだの食われるだの切羽詰まった状況だというのに、なんともほのぼのとした空気だ。もし、これがすべて計算づくの罠だったとしたら、それはもう潔くあきらめられるなと思った。
「手を繋いで行きましょう。不自然ですし」
わたしの体調が落ち着いたのを見て、ノアが手を差し出した。わたしは一瞬の躊躇を抱いただけで、すぐに彼の手に自分の手のひらを重ねた。
このまま厨房に連れて行かれて屠殺されたりするのかな、と考える。あるいは雄とやらの集まりに連れて行かれてだまされたことを知らされるとか? または手術を受けたらそのまま死んじゃったりするのかな?
でも逃げてもどうしようもないよな、と思う。こちとらごくごく普通の中学生だ。サバイバル能力なんて皆無である。逃げても土地勘は向こうにあるわけだし、逃げ続けられるとも到底思えなかった。
……けれども一方で、そうやって言い訳して、逃げることをあきらめているのかもしれないとも思う。
だけど、でも、どうしろって言うんだ。こんなわけのわからないところに連れて来られて、このままじゃ死ぬ、なんて。
そんな考えをごちゃごちゃと混ぜっ返して、その思考が途切れたときに気づいた。
「大丈夫ですか?」
……ノアの手が、かすかに震えている。けれども彼の顔は相変わらず「なんでもない」って顔で、わたしを見ていた。その瞬間、単純だがわたしはノアを信用して、運命を委ねる気になった。
ノアの手を握り返す。わたしの手も少しだけ震えていた。
「大丈夫です」
「そうですか」
「本当に?」なんて野暮なこと、ノアは聞かなかった。それがすべてだった。
「――つきましては彼女を連れて帰ることに同意していただきたいのですが」
それはいっそ壮麗な光景だった。ナナの言った通りどいつもこいつも――失礼ながらノアと違って――イケメンで、とても恰好が決まっている。そんなひとたちが一様におどろいた顔をしてこちらを見ているのだ。
彼らはノア同様にツタ模様のタトゥーをしていた。けれどもその色は様々で、妙なカラフルさを持ってわたしの目に飛び込んでくる。おまけにタトゥーの色は彼らの髪と目の色に対応しているらしく、よって鮮烈な赤髪だの青い髪だのが乱舞していた。わたしは緊張からそれを他人事のように見て、「すげー目立つな」と思った。
ノアの堂々たる宣言に静まり返った室内で、先に沈黙を破ったのは真っ赤なタトゥーのイケメン――ノア以外はみんなそうなのだが――だった。
「はは、惹かれあった雄と雌を引き離すなんて野暮なことはしないよ」
その言葉をきっかけにざわざわとした喧騒が戻ってくる。それと同時に彼らは好き勝手に色々と言い出した。
「まあひとりだけのつもりが、ふたり来ちゃってたわけだし」
「そうだな。ひとりだけ連れて行くって言うならオレは別にいいよ」
どこか和やかなムードでそんなことを言うのだから、わたしの内心は嵐中の船のようだった。ひとり、ぞっと肝を冷やしていた。
同時に、ノアの言っていたことがすべてウソだという未来が失われたということも知った。
本当に、この人間と変わりない姿をした彼らは、わたしたちを食べるつもりでこちらの世界に呼び出したのだ。そして、それはおどろくべきことに「ひとりだけ」のはずだった。
……巻き込まれたのか、巻き込んだのかはわからない。いや、もう、わからないほうがいいだろう。そういうこともある。それはまさしく今だ。
「おめでとう」
「『つがい』の雌が見つかってよかったな」
彼らは口々にノアへ祝福の言葉をかける。相手は先ほどまで食べようとしていた――食材だというのに。
その考え方が理解できなくて、わたしは混乱した。同時に、妙な恐ろしさを抱いた。
そのとき、ギュッと手が握られる感覚がして、思わずノアのほうを見上げる。
「ありがとうございます」
ノアはこちらを見ずに笑顔のまま、粛々と言葉を返していた。
それでもなんだかこちらの恐れを見透かされたような気がして、不思議な気分になる。
ノアへの祝いの言葉は、わたしたちが部屋を辞するまで続いた。