(13)
池ポチャならぬ川ボチャ事件のあとの日々は穏やかに過ぎて行った。
正直に言って、わたしはノアの言葉を完全には理解していないと思う。しかしあの言葉を泣くほどにうれしいと感じたのもまたたしかだった。
同時にわたしは自身を振り返ってみて、己を大切にしたことがないということにも気づいたし、だれかを心から大事に思ったこともないのだと気づかされた。
これはもう、仕方のないことだ。過ぎ去ってしまった日々は取り戻せないし、わたしは生まれる場所を選べず、自然のうちにそういう人間に育つこともなかった。
すべてを環境のせいにするつもりはないけれども、わたしが思いやりのある人間には育たなかった、という事実は動かしようのないものであった。
わたしにできることは周囲の人間を見習って、今はそれらしく取り繕うしかないということだった。
庭の整備が遅々としながらもそれなりに進んだある日のこと、朝食の席でノアがこんなことを言い出した。
「街に行きませんか」
わたしはその言葉に一も二もなくうなずいた……わけではなく、しばし逡巡した。理由は簡単な話で、なんとなく今の自分の姿――つまり、義腕をつけている姿を不特定多数の目に晒す覚悟は、まだ固まっていなかったからだ。
ファミリアのみなさんはあの通りなので、申し訳ないがどうにも「ひと」という気がしないのである。
けれども、たしかにずっと家の敷地内から出ないのでは、なんとなく鬱屈とした気分になってしまう。たとえインドア派だったとしても、だ。
変わり映えのしない景色にたしかにそのころのわたしはちょっと飽きていた。
それにこの世界の街がどうなっているのかについても、多少は興味があった。
しかしわたしはまだ義腕の扱いをじゅうぶんに習熟していない。そうなるともしかしたらどこかで迷惑をかけるかもしれない、という恐れがわたしにはあった。
だがそんなわたしの迷いはノアにはお見通しだったようだ。
「迷惑だなんてことは、まったく思いませんよ? 以前にも言った通り、雄は雌の世話をするのが好きなんですよ。そういう風にできているんです。ですから、クロハさんが遠慮することなんてひとつもないんですよ」
なんだか甘やかされているようで、そして甘やかしてもらって悪いなという気分になってくる。
けれどもわたしは結局、ノアの屋敷から出るという選択肢を選んだのだった。
天気は快晴。ただし空は木の葉に覆われていて、レンガ道に差すのは木漏れ日だ。その上をふたり並んで歩き、ゆっくりと立ち並ぶ店舗を流し見る。
「こうしてふたり並んで歩くのは新鮮でいいですね」
「新鮮ですか?」
「ええ」
そこまで聞いてそういえば自分は「普通の雌」とは違うのだったなと思い出す。
加えて、ノアの以前のつがいだった雌は四肢がなかったと聞いている。となれば隣に並んで歩くということはファミリアがいなければできなかったはずだ。
ちなみに同道するファミリアはいない。てっきりいつものように連れて行くのかと思えば、「今日はふたりきりでいたいんです」と告げられてこういう形になったのである。
街を往く中で思ったのは、さながら植物園を歩いているようだということであった。
頭上を仰ぎ見れば鬱蒼、とまではいかないまでも、適度に木の葉に覆われているし、道柵の向こう側も草だらけ。ただし、雑草という感じはしない。
白塗りや赤レンガが見事な店舗群は、みな半ば植物に埋まっている。木と同化している……というか、浸食されているような店も見かけた。
働くひとびとの大半を占めていたのは「無色」のひとたちだったが、呼び込みをしたりレジに立ったりしているのは「雄」ばかりだった。そして客も「雄」が多く、タイミングが悪かったのか「雌」の姿は見られなかった。
街の様子は奇異であったが目に楽しいのはたしかで、わたしの好奇心をおおいに満たした。
柄にもなくわくわくとしているわたしに、ノアが柔和な声をかける。
「どこか気になるお店はありますか?」
「ううーん……」
お店に入るとなると、そこにはもちろん店員さんがいるわけで……。まだ、その視線に晒されることへの恐怖がわたしのなかで渦巻いていた。
奇異の目で見られる可能性がある。この世界の雌は欠損していることこそ美しいとされるのだから。
それに加えてわたしはこの世界の「雌」じゃない。それがバレたからってどうなるのかまでは知らないけれど、なんとなくそれを知られるのは嫌だった。
まあ、大部分を占めているのは先述した「他者の視線」なんだけれども。
迷っているあいだにノアはいろいろと察したらしい。ノアはわたしからするとちょっとマイペースだなと思う部分はあるけれども、かと言ってひとの機微に疎い、というわけではない。むしろ聡いほうだろう。
「それじゃあ、円形広場にでも行きますか。噴水が綺麗なんですよ」
「へえー。楽しみ――」
「――おや、そこにいるのはノアくんではないかね?」
ごく穏やかに会話をしていたわたしとノアのあいだに、突如闖入者が割り込んだ。
わたしは反射的に、男にしてはやや高い声が聞こえてきた方向へと顔をむける。
そこにいたのは雌を連れた雄だった。この雄がノアの名を呼んだ相手なのだろうと思いつつも、わたしの目は初めて見る雌へと注がれる。
彼女は、人形のように愛らしく、その秀麗な容貌を不安げに歪めていた。車椅子に乗っていて、両足はない。右手もない。ただし左腕はひじ近くまであって、先端に小さな銀色の鈴をつけていた。
「こんにちは。こんなところでお会いするとは奇遇ですね」
ノアは至極穏やかにそう返した。けれども今対峙している相手が、ノアに対して穏やかならざる感情を抱いていることは、恐らくだれの目にも明らかだろう。現にわたしはこのノアの名を呼んだ男からは、嫌というほど悪意を感じている。
男はちらり、とわたしを見た。睥睨する、と言ったほうが正しいかもしれない。そしてその紫の瞳に明らかな侮蔑と嘲笑の色を乗せた。
こいつ、苦手だ。わたしの彼に対する微妙な第一印象から、さらにその視線で株は大暴落。この場にいるのが落ち着かなくて、けれどもノアとどういう関係かわからない以上、彼に催促をするのははばかられて、わたしは視線をさまよわせた。
「彼女が君の新しい雌かい?」
「ええ」
男の、どこか見下した冷たい様子とは対照的に、ノアの声はどこまで穏やかで柔らかだった。男の悪意などまったく気にしていない風である。
男はそれが気に入らなかったのか、その柳眉をわずかに寄せてもう一度わたしのほうを見た。綺麗な顔をしているのにもったいないなと思いながらも、男から発せられるだろう言葉にわたしは身を強張らせる。
「ふううん」
なんだその反応は。そう思いつつもわたしは男に対して愛想笑いを浮かべた。男はそれを受けて少しだけ目を見開いたあと、フッと軽く鼻で笑う。なんだその反応は。なんだかムカムカして来たぞ。
「天然ものかい?」
「……いえ」
「雌としての価値を高めるためにわざわざ切ったのかい?!」
大げさにおどろく仕草を見せる男に、わたしは無性にムカムカして仕方がない。
思い起こされるのは、手足を切断するのは珍しくないが、それに批判的なひともいるというノアの話だ。恐らく、目の前にいる彼がそうなのだろう。整形美人はお断り、という思想なのだろうが、好きでそうなったわけではないわたしからすると、色々と引っかかる。
けれどもここでわたしが腕を切断するに至った経緯を説明するわけにもいかない。ノアの言い方だとわたしの存在は違法ではないのだろうが、しかしイレギュラーであることはたしかだ。きっと、隠すほうが得策に違いなかった。
「彼女ならそのままのほうが美しかったに違いないだろうに。それに義腕だなんて醜いものをつけさせて……」
ムカムカ。こいつ、わたしのなにを知っているんだ。
っていうかなんでわたしはこいつにこんなにムカムカしているんだろう。
そう、不思議に思うものの、なんとも言い難い不快感はぬぐえない。
「ふううん」
そう癪に障る声を発して男は一歩、わたしに近づく。わたしは一歩、反射的に下がりそうになったがその場にとどまった。なけなしの理性が「それは失礼ではないか」と警告を発したからだ。
ちらり。思わずノアを見る。そしておどろいた。ノアの顔からは笑顔が――表情が消えて、まったくの無になっていたからだ。それにおどろいて一瞬だけ目の前にいる嫌な男の存在を忘れてしまった。
「彼のような風采の上がらない雄より、どうだ――」
ねっとりと、ナルシシズムを感じられる声がわたしに降りかかり、我に返った。
同時に、男の手がわたしの顔に伸びる。これはあれか。顎クイとかいうやつをやろうとしているのか。やめろやめろー!
そう心の中で叫んでいたらわたしに伸びていた手が止まった。いや、止められた。
ノアが、男の手首をやわくにぎっている。
「彼女は、わたしの雌ですから」
思わずわたしはノアを見上げる。黒い瞳はどこか暗く輝き、鋭さを持って男の目を射抜いているようだった。
「お手を触れないでいただきたい」
「~~~~!」
男の顔が歪む。次いで彼はノアの手を振り払った。ノアはそこで彼を引き止めるようなことはせず、ただ黙ったまま男から手を離す。
「おっ、お前なあ!」
「――失礼なひと」
わたしの口を突いて出たのは、今までにわたし自身も聞いたことがない、冷たい声だった。
「義腕はわたしの趣味よ」
男はびっくりしたような顔をしてわたしを見る。それに少しだけ溜飲を下げながら、わたしはノアのほうへと視線を送る。ノアもちょっとだけおどろいたような顔をしていたが、その表情はすぐに「仕方がないなあ」というような、柔らかな微笑みに変わった。
「行きましょう、ノアさん。さようなら、そちらのかた」
「ええ、そうですね。――それでは私たちはこれで。失礼します」
わたしはひどく傲慢態度で男から顔をそむけた。これなら雌のワガママに仕方なく倣う雄に見えないかな、と思ったけれど、実際のところはどうだろうか。あの男だったらノアに対して憎悪を募らせそうな気はするが。
ノアはと言えば、ひどく格式ばった態度で男に頭を下げるや、すぐにわたしの隣に並んで、いっしょにその場から立ち去った。
「あの横にいた方が私の前の雌だった方なんですよ」
予定通り円形広場に向かい、噴水が見えるベンチに腰かけたノアは、そう言ってひどく懐かしそうな顔をする。
わたしはと言えば、唐突なその告白に、彼に差し出してもらっていたクレープのようなお菓子を取りそこなうところだった。
「え? そうだったの?」
先ほど会った雌を思い出す。人形のように愛らしい雌だったが、また人形のようにひとこともしゃべらなかった。ただ、男が話しているあいだなにか言いたげな顔をしていたように思う。
あれは男の不躾な態度に対して思うところがあるのかなと感じたのだが、どうやらそれは半分ほど違ったようだ。
「彼はいとこの仕事仲間でして、一度荒天の晩に屋敷に泊めたことがありましてね。そのときに惚れてしまったらしいですよ」
「……なんだか他人事ですね」
あまりにもあっけらかんと話すノアに、思ったままの感想を口にする。
ノアはそれに怒ることもなく「そうですね」と肯定さえした。
「以前はそうでした。なにが悪かったのだろうか、と。愛を注ぐのは悪だったのだろうかと、何度も考えました」
「今は違うんですよね?」
吹っ切れているのなら、それはいいことだ。
ノアはふわりと微笑んでわたしを見た。
「ええ。今の私には、クロハさんがいますから」
不意の言葉にわたしはちょっとだけ恥ずかしくなる。まるで大切で大切で仕方がないものを自慢するかのような、ノアの言葉に羞恥心を煽られてしまった。
「え……あ。うん。そ、そうだよね。これでまだ『前の雌がどう』とか言ってたら怒りますよー」
照れ隠しにおどけた口調で言ったものの、頬に集まった熱はどうしようもない。ヤバイ。ノアにはきっとバレバレだ。
ノアは赤いだろうわたしの頬を面白がる様子もなく、ただ慈愛に満ちた目でこちらを見ていた。
「安心してください。私にはクロハさんだけです。……私ってすごく一途なんですよ。知ってましたか?」
「あ、う、うん。そうじゃないかなって、思っていました、よ」
「そうですか。それなら安心です」
わたしは場を誤魔化すようにノアが買ってくれたクレープにかじりついた。甘ったるい生クリームと、イチゴの甘酸っぱさが味覚を刺激する。恥ずかしさからその味に集中する。
「おいしいですか?」
「……おいしいです」
オウム返しにそんな言葉を口にする。それのなにが面白かったのか、ノアはふふっと笑い声をもらした。
ノアを捨てるなんて、もったいないことするなあ。
ふたりのあいだには、きっとわたしには推し量れないようなことはたくさんあったのだろう。そこから、ノアが言動を改めたからこそ、今の彼があるという可能性もなきにしもあらず。
それでもわたしは「ノアを捨てるなんてもったいない」と思わずにはいられなかった。




