(1)
わたしは一個の人間ではなく、彼女の人生の補助輪のようなものだった。
わたしの名前はクロハ。彼女の名前はナナ。わたしたちは世間一般で言うところの幼馴染という間柄だった。
わたしは彼女が苦手だった。なぜなら彼女は傲慢で、ワガママで、非常に自己中心的な人間で、それでいて猫被り――要は“かわいこぶりっこ”――が得意だからだ。
わたしだって自慢できるほどの上等な人間ではないけれど、彼女の隣に置けばたいていのひとには思いやりのある人間に見えるだろう。
彼女と同じ年に生まれたことがわたしの不運? それとも彼女の家とわたしの家が向かいあわせだったこと? ――どちらにせよ、わたしが運に恵まれてはいなかったことに違いはない。
物心がついたころからわたしは彼女の「友達」であることを強要された。当時の彼女は家で甘やかされたままに外の世界――幼稚園――へと出て行ったので、ワガママで些細なことでかんしゃくを起こし、ときに暴力を振るうため、わたし以外の「友達」は皆無であったのだ。
わたしはもちろん彼女の母親――おばさんも大の苦手だ。もしかすれば彼女よりもずっと苦手かも知れない。なにせ彼女のどうしようもない人間性を形成したのは間違いなく彼女で、そしてナナという存在をこの世に産み落としたどうしようもない人間だからだ。
おばさんは遠慮というものを知らない、厚かましく押しの強い人間なので、気の弱いわたしの母親は彼女の言いなりだった。きっとおばさんは少女時代もそうやってわたしの母親のような人間をいいように使っていたのだろう。そう思えるていどには、おばさんの態度は非常に彼女になじんだものだった。
最初は同じ年の女の子を持つ親同士として始まった関係なのだろうが、わたしが物心ついたときにはすでにそこには「従うもの」と「従えるもの」の主従関係があった。
かといっておばさんはいわゆる「ボスママ」ってやつだったかと言うとそれは違う。「ボスママ」は別にいて、そちらのグループからおばさんとナナは嫌われていた。先述したように彼女はかんしゃく持ちの乱暴者だったからだ。
だからこそおばさんは娘の「友達」としてわたしを繋ぎ止めるのに必死だったのだろう。親心として我が子に友達がいない状況はよろしくないと思ったのかもしれない。そこまでは理解できる。けれども「友達」であること強要するのは違うだろう。
彼女が単に友達が作れない内気な性格ならよかった。しかし現実は酷なもので、実際に彼女はひどいかんしゃく持ちのどうしようもないワガママ人間だった。
彼女に罪をなすりつけられた回数は数知れず。それが成功したこともあったけれども、あからさまに彼女の仕業とわかる状況でも彼女はウソをついたので、そのうちにナナは「うそつき」呼ばわりされるのが常となった。
しかし年を経るにつれおばさん同様に分厚い皮をつけることを覚えたので、彼女は周りからはそれなりにマトモな人間として扱われるようになった。
わたし以外の友達だってできた。けれども彼女はわたしと「友達」であることをやめなかった。
そこにわたしへの「情」のようなものがあればまだマシだったかもしれない。しかし現実には彼女にとってわたしという人間は保険にキープしておきたいカードにすぎなかった。それを完璧に隠せていたら、わたしはだまされたかもしれない。しかし実際はわたしを見下していることが透けて見える態度を彼女は改めなかったので、その目論見はバレバレのむなしいものだった。
ここまでくればいかにわたしが彼女とおばさんを苦々しく思っているかわかるだろう。性格が悪いと言われてもいい。わたしは彼女たちと縁を切りたくて仕方なかった。
それからわたしは彼女と「友達」でいることを望む母親も少しだけイヤだった。家庭に無関心な父親にも、思春期らしい反抗心と反発心を持っていた。
わたしの居場所はかろうじて学校にあるくらいで、それでも卑屈な性格ゆえに友人は少なかった。
大きな不満を抱きながらも、わたしは少ない友人をなぐさめに日々を送っていた。たまにどこか遠いところへ逃げてしまいたいと思ったけれど、実行するだけの行動力もお金も、子供に毛が生えたていどの中学生であるわたしにはなかった。
その日は母親と大喧嘩したばかりだった。正確にはわたしが一方的に憤りをぶつけただけだったが、その怒りは正当なものだと思っている。
おばさんが厚かましく、そして信じられない提案をしてきたことを、母親が馬鹿正直にわたしに伝えたからだ。
どうやら彼女が万引きをしたらしい。彼女の所属しているグループはハッキリ言って素行がよろしくないから、そういう軽蔑すべき行いをしていたとしてもなんらおどろくことはなかった。おどろいたのはその罪にわたしを巻き込もうとしたことだ。
「クロハちゃんがナナちゃんを誘ったってことにしてくれない~? 友達でしょ~?」
やや間延びした、馬鹿みたいに媚びる声は忘れたくても忘れられない。おばさんがこんな「馬鹿馬鹿しく忌々しい提案」を臆面もなく言えると言うことは、わたしはその「馬鹿馬鹿しく忌々しい提案」を受け入れる人間だと思われているということだ。それは、面と向かって侮辱されたのと同じだった。
わたしは相手が赤の他人だということを慮って、母親にしたように怒りをぶつけるような真似はしなかった。ただ、なにも答えず受話器を置いた。
わたしは悔しさと怒りに情けなく泣いた。
わたしは彼女の人生の補助輪ではないし、母親の庇護は受けいていても決して彼女の所有物ではないはずだ。
わたしは一個の人間のはずだったが、現実にわたしはまだ幼く、そしてそのような周囲ゆえ、そうはなれなかった。
「ナナが謝ってるんだから許してあげたら?」
「謝ってるのに許してあげないなんて心狭いよ」
身勝手な言葉にわたしはまた母親を前にしたときのように怒髪天をつきそうになった。
「当事者でもないのに適当なこと言わないで」
わたしが突き放したように告げると、ナナの取り巻きであるリカとサヤは、あからさまに気分を害されたような顔をした。
「はあ?」
「なにさま~?」
「何様でもないよ。第三者がしゃしゃり出てこないでって言ってるの」
リカとサヤの顔が赤くなった。怒っているんだ。そう思うと性が悪い考えだが、ちょっとだけ胸がスッとした。相手より優位に立てたという品のない満足感だ。
彼女らに挟まれたナナは、自分の思った通りの――わたしが彼女の謝罪するという馬鹿みたいな――展開にならなかったので、ひとりでブーたれている。
そんな彼女を見てわたしはリカとサヤを挑発した自分を少しだけ恥じた。反省のない犯罪者と同じ舞台に立つ必要はない。そう思えたからだ。
「言いたいことがそれだけなら、わたしもう帰るから」
「待ってよ!」
そう言ったのはナナだった。同時にぐいと右腕がうしろに引かれる。手加減の感じられない力に、わたしは肩に痛みを覚えた。
それと同時だったか、それよりも少しあとだったか。とにかく、「突如」としか言いようのない瞬間にそれは訪れた。
ぐるりと視界がめまいを起こしたように回転し、それから白黒に明滅した。脳を直接ゆさぶられたような感覚に、膝ががくりと折れる。それと同時にわたしの背に風が吹きつけ、それはすぐさま体全体を覆う浮遊感へと変わった。
思わずまぶたをきつく閉じた。それが正解だったのか、失敗だったのかはわからない。ただ、次に目を覚ましたとき、わたしは異なる世界へと来てしまったことを、よりにもよってナナから告げられることになったのだった。