第3話 魔術工房《路地裏亭》
馬車はエデンと空を乗せて路地裏亭へと向かう。行きが馬車なら無論帰りも馬車だ。
エコール・ド・マギの制服はさながら令嬢のドレスで、こうして毎日馬車での通学をしていると、王国の姫君にでもなった気分になる。路地裏亭にほど近い大通りに馬車は止まると、御者が扉を開ける。エデンがチップを彼に渡して、エスコートの元、空はスカートの裾を注意深くつまんで石畳の道へと降り立った。初めの頃は長い丈のスカートが扱いづらく、何度も踏みつけそうになったものだ。
「ではまた明日、同じ時間に」
「かしこまりました」
御者は恭しく頭を下げる。
路地裏亭に帰れば、ヴラドが作るほくほくのご飯と、ルミエールの笑顔が待っている。こちらへ来て一週間ほど。そろそろ、路地裏亭が家だということが板について来てしまっている。
本日の献立は鶏肉を煮込んだスープで、思わず「ほっぺたが落ちるぅ」と呟いてしまう空だった。
夕食後は学校の課題。なんだかこうしていると、日本での生活と変わりない。得意だった英語と、苦手だった数学。物理の課題もない。あるのは魔術の課題。ルーン文字の勉強、魔術師の歴史を紐解く教科書……全ては未知の世界で、数学よりも断然面白かった。
「ーー案外、順応しちゃってるな」
一人苦笑して、空は羽根ペンにインクを浸した。
「それにしてもボールペンって万能なのね」
羽根ペンではすぐにインクが途切れるから、何度もインクを付けねばならない。
帰りたくないはずはないけれど。でも、魔術という不思議が空の好奇心を刺激するのだ。
「そうだ、こっちの文字の書き方、ルミエールに教えてもらおうかな」
「実家に代々伝わる秘蹟の文字」ということにされている日本語のひらがなと漢字だったけれど、一切こちらの文字を書かないというのも奇妙に思われるだろうから。空はルミエールが夕食後にこもる彼の工房ーーそれは地下にあるーーへと向かった。
扉が少しだけ開いている。話しかけても良いものか、空はそっと隙間から覗いた。
ルミエールは石に魔力を込め、小さな光へ変換し、それを試験管に溜めていた。光は消えずに試験管の底に淀んで、まるで電球のような輝きを放っている。試験管にコルクの栓をして、ルミエールは椅子に座った。少し疲れた様子で腕組みして、天井を仰ぎ見る。疲れた目を癒すように片腕を額に当てていた。
試験管の光がルミエールの肩で切りそろえた銀髪を照らす。薄く開けた碧い目はきらきらと星を散らすように輝く。
何か重荷を背負っているようなくたびれた様子で、それでも衰えない彼の美しさが、空が思い切り扉を開けることを拒ませる。
「いいよ、入って来て」
「あ……」
ルミエールは覗き見ている空に気づいていたらしい。申し訳なさそうにゆっくりと重い木の扉を押して、空はルミエールの魔術工房へ入った。不思議な光を放つ試験管、液体が加熱されている丸底フラスコ、リービッヒ冷却器。
物珍しげにあたりを見渡して、空は言った。
「こちらの文字を、教えて欲しいの」
「書けないのかい?」
先ほどまでの孤独でミステリアスな雰囲気はどこへ行ってしまったのか。魅せられていた自分が気恥ずかしくなるほど、明るい笑顔でルミエールは答えてくれる。
「まあ、そこに掛けなよ」
ルミエールが椅子を示す。
「こちらの文字は聞き・話し・読め、はするけど、書けはしない、ってとこかな?」
「その通りなの」
「僕の召喚ミスかもしれないね」
「そうなの?」
召喚の影響でこちらの言葉がわかるようになっていたのか。
「平行世界に存在するトキサカ・ソラの、君の元いた世界、元の君を支えている、根源的な言葉の部分はこちらに波長が合うように調節して召喚したつもりだったんだ。呼んだはいいけど言葉も何も分からないでは話にならないからね」
ちょっと待ってて、とルミエールは言って、書棚から一冊の本を取り出した。
「何、幼児じゃあるまいしイチから読み書きを教えなきゃいけないわけじゃない。僕が君の言葉の基盤の変化に失敗した部分をもう一度調整すればいい」
「お手軽なのね」
「まあね。魔術自体は高等だけど」
平行世界から空を召喚するということを成し遂げた彼の魔術師としての実力は、本当は物凄いものなのではないだろうか。そう思って空は尋ねた。
「学校に行ったことがない、って初日に言ってたけど、どこで魔術を習ったの?」
ああ、とルミーエルは言う。
「なんてことないさ、王子なんてご大層な身分だからね。家庭教師ってとこかな。実は14人もこの国には王子がいてね。結構扱いは適当なんだよ」
一番目は大切にされてるけど、とあっけからんとルミエールは打ち明ける。
「あったよ、このページだ。君の言語野を少し変換させてもらわないといけないみたいだね。また魔法陣に時間がかかるから、数日かけてやろう。魔法陣が書けたら言うから、またおいで」
てっきり幼稚園児のごとくアルファベットー! さあ歌いましょう! とやらなければいけないと思っていた空は拍子抜けした。
「ありがとう。ルミエールのおかげで、こっちでなんとかやってけてるーーううん、ルミエールだけじゃない。ヴラドも無口だけど優しいし、エデンは学校でいつも一緒にいてくれてる」
ありがとう。空は心から言った。
「そう言ってくれるなら、僕は少しだけ救われる。元の世界から引き剥がしてまで君をここに連れてきてしまった、僕は悪役だからね」
そんなことない、と空は首を振る。
「そういえば、なぜトキサカの人がこの世界からいなくなってしまったの?」
確か、トキサカの座が空位だから《はじまりのもの》の血を引く時坂空が必要だったとか何とか言っていた。
「簡単な話さ。魔術に没頭するあまりお嫁さん探しもしなかったのかなあ。彼には兄弟もいなかったし、そこでお家断絶になってしまったんだ。なんともーー馬鹿げたとは言っちゃいけないかもしれないけど、シンプルな理由だろ。そんなことでまさか王宮を支えるトキサカ家が居なくなってしまうなんて誰も思いやしなかったんだから。……まあ、彼は変わり者だったからね……責務なんてのが大事に思えるタイプじゃなかったのかな、彼は、まあ」
「なんだかよく分からないけど。そんなに三つの魔術師の家系は大切なの?」
そうだなあ、とルミーエルは手のひらを頬に当てて横を向いた。
「《はじまりのもの》の血が大切なんだ。王家にもそれは流れているし。彼らは建国者みたいなもので、その血を引くって言うことが象徴としてこの国にとって大切なことなんだよ。彼らが王家を支えているという事実が」
これもくだらない話かもしれないね、とルミエールは苦笑する。だって王家のご威光のためなんだから、と。
ルミエールは7番目の王子ということもあって、本人曰くでもそうだけれど、さほど王家への執着がないらしい。冷ややかな目で自分の立場を客観視しているのだ。
「でも分かるわ、そういうシンボルが大切なことって」
だから大丈夫、と言うように空はルミエールに微笑みかけた。
「こっちにきて、魔法使いになれた気分。楽しいわ」
そうかい、とルミエールが少し哀愁を漂わせた瞳で笑った。
「なら、僕は君の中で悪役にならずに済んでいるのかな」
「ええ。勿論よ」
ありがとう。ルミエールの返事に、これ以上罪悪感を彼に抱かせまいと空は椅子から立ち上がった。
「私、課題があるから。勉強、するわね」
「熱心な魔術師殿だ。君の魔力量は大きいーー大魔道士になるかもしれないね」
謙遜するように空は手を振って、わざとらしくスカートの裾をつまんでルミエールに礼をした。令嬢のように。
「書けるようになる日を楽しみにしてる」
「ああ、待っててくれるといいよ」
そうして、空はルミエールの工房を後にしたのだった。