第1話 召喚
「ようこそ、魔術師殿。氷の国、アルドランドへ」
その言葉と共に差し出されたすらりとした白い手。見上げれば豪奢な刺繍がほどこされた外套をまとい、肩で切りそろえた白銀の髪がしゃらりと揺れる美青年が、私ーー時坂空の目をひたと見つめていた。
空はといえば、石だろうかーー石造りの冷たい床にへたり込んでいるばかり。よく見ればそこには何か特殊なモノで描かれた魔法陣のようなものがある。その魔法陣の真ん中に、空はへたり込んでいるのだった。
男から差し出された腕を反射的にとって空は立ち上がる。
「あなたが召喚に応じてくれて良かった。僕らは何度もその機会を伺っていたんだけどね。なかなか、そちらの方が反応してくれなくて」
お茶を飲むかい、と銀髪の男はにこりと微笑んで、傍にいた別な男にお茶の用意を、と告げる。長い黒髪を持つ、こちらも美丈夫だ。時代錯誤としか思えない黒の薄いマントを巻きつけるように羽織っている。
空はあまりのことに何も言えずにいた。
ええと。私は、家にいて。数年前に病死した父の部屋を片付けた。それだけのはずだったのに。
時坂の家はなかなかに古い家系だそうで、外から見るとそれはそれは重厚な造りをしている。シネマに出てくるような書斎を父は利用していた。そこで、机の上に散らばっていた本を片付けていたのだ。
「あなたは誰で、私はどこ?」
やっと喉元から出た当たり前の質問に自分自身がほっとする。そうよね、わけのわからないことが起こったのだもの。
「僕はルミエールという。君と同じ魔術師だ。ここはアルドランド。ほとんどの季節が雪に閉ざされる氷の国だよ」
「君と同じ、魔術師……?」
彼、ルミエールの名前より気になったのはその部分。
「あのね」
魔法陣の中で空は咳払いした。
「私は、魔術師とか魔法なんて知らないわ。でもこんなわけのわからない模様から、私がそのアルドランドとやらへ移動して、時代錯誤なあなたの服装から、何か妙なことが起こってるってことくらい分かるわ。多分それが信じられないけど魔法ってことも」
一息に言って、空はルミエールの目をキッと見た。
「なんだか知らないけど、帰してちょうだい。日本が故郷よ」
「日本とは知らぬ場所だ。まぁ、いい。そうかりかりしないで。僕は説明はきちんとするよ、ね」
魔法陣が描かれていたのは小さな小屋の真ん中で。簡素なテーブルセットと、奥には何やらよくわからない、魔女の試薬のようにも見えるものがある。窓から見える景色はどう見ても白銀世界。氷の国、と表現したのはまちがいでもないらしい。
「僕は何度か召喚を試みたけど、なかなか君の方が応じてくれなくてね。今回は奇跡だった。多分、君のその本のおかげだ」
そう言ってルミエールが指差したのは、空が抱えていた一冊の本。父の書斎にあった、とある一冊だ。それもとてつもなく不気味な。
「この本が……? こんなに不気味なのに」
空は悪趣味の極みといった表情で本を示した。革で装丁されたと思われる本は表紙に人の目がーー剥製みたいに義眼のようなものがーー立体的にはめ込まれている。中は読めない文字だらけ。どこの国のものともつかない。
「そう、その本。君はどうやら父君から魔術を受け継いでいなかったようだ。トキサカ家といえば魔術師の名門だよ」
「なに、それ」
魔術師の名門の家系? 父は……お堅いドクターで、医学の研究をしていて、我が家は代々医師をやってきたはずだ。それが魔術師の家系? 裏の顔とでも言うのか。
「とりあえず話をしようか、トキサカ・ソラ。ヴラド、紅茶を皆に」
「畏まりました」
ヴラドと呼ばれた男は艶やかな腰まであるく艶やかな黒髪が美しく、すこし顔色が悪いようにも見えて儚げな雰囲気でありながら芯の強さを思わせる。何で編まれた素材なのかわからないが、風変わりな黒いマントを羽織っている。
ヴラドが入れた紅茶は温かく、柔らかい湯気とふくよかな香りが部屋に広がる。
「さて、僕には君を召喚した理由を話す必要があるね。ーー君だって、疑問に思うことだろう?」
ルミエールは肩を竦めて、紅茶を一口飲んだ。
「ヴラドが入れてくれる紅茶はいいね」
ヴラドの無表情な顔が少しだけ和らいだ。
召喚された理由。
いや、勿論それは気になるところだけれど、空自身は余りにも激しい変化で魔術師だの召喚だので、理由を尋ねようなんて頭に微塵も浮かばない状態だったのだ。
「いいかい、アルドランドには三家の魔術師が支えている。ホラント家、エトワール家、そして……トキサカ家だ」
トキサカ、と言いながらすっとルミエールは空を指差した。
「父君が亡くなったことはこちらで察知はしていたけれど。まさか、魔術のことが継がれていないとは思っていなかったんだ。申し訳ないことだ」
「それって、普通は生前に魔術師ですー! って明かすのが当たり前ってこと?」
「そうなるね」
呆気にとられた空は、不気味な魔術書をくいと握りしめた。不気味でもそれしか頼るものがないようなものだったとしても、だ。
「ま、そういうわけで君が魔術について無知なのは承知の上だ。だから、しばらく学校に通ってもらう。エコール・ド・マギにね」
名門校だよ、とくすりと笑ってルミエールは続けた。
「あの……」
空は言いたかった。ふぅん、王家を支える魔術師の家系で、私がまだ魔術師として一人前じゃないから学校に通うんですか、そうですかーーとはいかない。
帰してください。21世紀の日本に。
にこにこ笑うルミエールに言えば。
「大変申し訳ないことだけど、君の意志は尊重できない。なぜなら、還す魔術は存在しないから」
「嘘よ」
「ごめん、嘘だ」
「なら帰して」
「本当にごめん。でもいずれ分かってくれると思う。これは、トキサカ家の使命なんだ」
使命。使命なんて、私は知らない。
魔術師だったことも知らないのに。
空は、温かくて美味しそうな紅茶に一口も手をつけることなく、俯いてカップの柄を眺めていた。
***
《路地裏亭》に与えられた空の一室には、例の魔術師の学校、エコール・ド・マギとやらの制服と、その上に入学許可証とでも思しき紙が置かれていた。
「無茶苦茶よ!」
ばふん、と意外とふかふかなベッドにジオはダイブして、木造の天井を見上げた。
ーー早速、明日から勉強開始だよ。
この男はにこにこ顔の仮面でもつけているのかというくらい、ごくごく普通に異常なことをにこにこ仮面で空に告げたのだ。
空はそっと、父の魔術書を撫でた。革で出来た表紙。不気味な義眼。読めない文字。それでも、時坂空と元居た場所をつなぐ唯一の絆。
「……お父さんは、魔法使いだったの?」
王宮に仕える代々の名門、とルミエールは表現した。父もまさかこの異世界で仕事をしていたのだろうか? 私たちには分からない形で。
「そんな、まさか、ね」
空は制服を壁に掛け、ベッドサイドのランプを消した。