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パシャ、と水飛沫が上がる音がする。揺れる湖の水面に日の光が反射して、キラキラと輝いて見える。
なんとも長閑な光景を私はぼんやりと見つめていた。
少年の体力が回復するまでに三日が掛かった。
列車での旅だから、万全まで戻す必要はないのだけど、自力で一日歩き回ってもヘバッてしまわない程度には元気になってもらわないといけない。
この三日間、栄養のある食事と軽いリハビリ、そして私の治療術によるサポートで少年はみるみる元気になった。
治療術っていうのは本来怪我に使うものだから、体力の低下だとかには作用しない。私がやったのは血行促進とか栄養の吸収率を上げたりとか、とても地味なものよ。
あんなに弱ってたのに、たった三日で随分と動き回れるようになったのは、驚異的な回復力と言っていい。
「若いって素晴らしいわね」
「本当にな」
「二人共年寄り臭いよ……」
湖でエペちゃんと戯れる少年を、眩しいものを見つめるように目を細めながら眺めていた私の呟きにジャンは大きく頷き、デリクは白けた視線を向けてきた。
ジャンと私が二十歳、デリクが十七歳。
因みに、私が知りうる西方の言葉をたどたどしく繋げてやっとの思いで聞き出した少年の名前はナラン。歳は十二歳。
彼は本当に頭が良くて、少ない語彙力で単語を繋げるだけの私が言わんとする意図をちゃんと理解してくれて、言葉で返してくれたり行動で示してくれたりする。
だから、最初の内はすぐ私の事をアフロディーテと呼ぼうとしていたのだけど、それは恥ずかしいからちゃんと名前で呼んでねってお願いしたら、今では「ルクレティアさま」と呼んでくれるようになった。
うん、様いらないんだけどね。そこは何故か頑として譲ってくれないから、私が折れた。
あのケージの中から出してあげたせいか、ナランの中の私が美化され神格化され、遠い果てまで一人歩きしている気がするわ。
現実の、目の前にいる私をきちんと見ていたら、そんな大層なものじゃないって分かるでしょうに。
その内現実を知るでしょうと放っておく事にした。
「ナラン、あまり身体を冷やすのは良くないわ」
おいでおいでと手招きすると、彼は素直に私の元へ駆け寄ってきた。犬みたいに尻尾を振っているような感じがするわ。
あら、よく見ると全身いい具合にずぶ濡れじゃない。
エペちゃんに至っては絞れそうなくらいだし。
『楽しかった?』
『はい!』
ま、眩しい……! 満面の笑みで返されちゃったわ。いるの間に私は純真無垢な子供の笑顔を直視できない薄汚れた大人になってしまったのかしら……
いや、本当に眩しかったのよ。
ナランのシルバーの髪も、モスグリーンの瞳も輝いてて。
タオルで頭から拭いてあげると、擽ったそうに身を捩ったけど、大人しくされるがままになっている。従順だわ。
エペちゃんはデリクが掻っ攫ってわしわし拭かれている最中よ。
『ぎゃー』とか『うにゃー』とか聞こえて来るけど大丈夫でしょう。デリクって意外と面倒見がいいわよね。
「ルクレティアさま、ありがとう」
「はいどういたしまして」
こちらの言葉でお礼を述べたナランは、私を真っ直ぐに見つめてくる。
クシャクシャになった髪を撫でて戻してあげると、嬉しそうにはにかんだ。
か――
「可愛い……!!」
我慢しようと思ったのよ。大人の余裕というか、理性で押さえようと思ったんだけどこの衝動を堪える事は出来なかった。
私はあまりに可愛過ぎるナランを思い切り抱きしめた。
『ぬ、濡れる! 濡れるからルクレティアさま!』
可愛いナランが何か言ってる。
早口だから私には聞き取れない。という事にしてナランの訴えを無視しぎゅうーっと腕に閉じ込める。
言いたい事は何となく察せられるんだけどね。ここは気づかないふりをしましょう。
「デレデレだな」
「だって可愛いんだもん」
動物とかナランとかナランとかエペちゃんとか、くりくりして可愛らしいものは大好きよ。
是非ロンシャンの屋敷での生活が始まったら動物を沢山飼って、可愛いものに囲まれて暮らしたいわね。
「宿に戻って着替えたら、温かいものを食べましょう」
今日の夜、最終列車に乗って次の町へと向かう。寝台列車ってやつね。
距離が長いからね、夜中寝ている間に移動するのが効率が良いのよ。
もがくナランを離すと、彼は顔を真っ赤にしていた。あら強く抱きしめ過ぎて窒息させそうになってたみたいね。
だって可愛いんだから仕方ないって言ったらさすがに怒られるかしら。
「ナラン」
手を差し出せばナランはおずおずと小さな手を乗せてくれた。
エペちゃんもいつの間にか私の肩に乗っている。なんだかそこがエペちゃんの指定席になったわね。
「そうやってると親子みたいだな」
ジャンが無表情にそう言った。別に不機嫌とかじゃなく、彼はいつも感情があまり表に出ないだけ。
私とナランが手を繋いで歩くを見て、ふと思った事を口にしたんでしょう。ちょっと微笑ましい、くらいに感じて言ったのかもしれない。
だけどそれを聞いた私は振り返ってジャンを睨んだ。彼はどうして私が不機嫌になっているのか分らず怪訝そうな顔をした。
「さすがにこんな大きい子がいる程の歳じゃないけど?」
それじゃあナランは私が八歳の時の子になっちゃうじゃない。せめて姉弟にして欲しいわ。
そんなやり取りをした後、何故かナランはずっとむっつりとしたまま黙りこくってしまった。
ご飯を食べている間も、列車に乗ってからもずっと。
何がそこまで気に食わなかったのかしら。
列車の中でナランが寝てしまってから、私達三人は頭を突き合わせて、ナランがどうしてあんな機嫌悪くなってしまったのか議論したけど、結局分らなかった。
きっと、私がジャンに対して怒りを向けたから、ナランもそれに同調したんじゃないかと結論付けたけど、なんだかしっくりこなかった。
ぐっすり眠ったナランに膝枕をしながら、暫く真っ暗な窓の外を眺めていた。
ジャンとデリクは少し前に隣の部屋へ帰っていった。狭い部屋だから四人の相部屋は無くて、二人ずつに別れる事になったの。私とナラン、ジャンとデリクになったのは当然よね。
さっきからずっと代わり映えのしない田園風景が続いている。変化が無さ過ぎて見ていてもつまらなくなってきて、視線を逸らそうとした時だった。
遠くまで続く畑の中、ぽつりと人影が見えた。夜更けのこの時間に、何をするでもなく、ただ畑のど真ん中に立ち尽くしている人の形が見えたの。
思わず窓に顔を近づけて、視線でそれを追った。ゾワリと悪寒が走る。
列車から漏れる光があると言っても暗闇の中、真っ黒な服を着た姿があんなに目立つものだろうか。
決して農婦ではない、仕立ての良いドレス姿だった。
私はナランの頭をそっと降ろして立ち上がり、部屋から出た。
「ジャン、デリク入るわよ」
ノックもせず隣の部屋に侵入すると、二人も窓の外を見た状態から勢いよくこちらを振り返った。
そう、気付いていたのね。なかなか鋭い二人に内心で感心した。
「なんだあれは」
「分からないわ。けど、良くないものよ」
恐らく、私にとってね。
あの人影から魔力らしきものが伝わって来たもの。
そして多分、私の魔力もあちらに伝わっているはずだわ。
こちらに危害を加えに列車に乗り込んで来るか、私の魔力を感じ取って引いてくれるか。本当に私が目的だったなら後者は期待出来ないわね。
「人、だったのか?」
「それも分らないわね。兎に角、ちょっと様子を見て来るからナランをお願い」
「様子って、あ、おい……」
デリクの言葉を聞かず、私は部屋を出た。
あんな気味の悪いものを、放っておいたら気になって眠れそうもない。
追って来ないのならいい。だけどもし列車に乗り込まれたりしたら面倒臭い。
私は車両の連結部の扉を開け、外に出た。
手すりに足を掛け、そこから車両の上へと飛び移る。重力を操る術を掛ければこのくらいは造作もない。
風の抵抗を最小限に押し留めて、髪が靡く程度にしか感じないようにした。じゃなかったら今頃風圧で私飛ばされてしまっているわ。
そして注意深く周囲を確認してみると、居た。
さっきの黒服の女性が、私と同じように列車の上に立っていた。まるで畑の中に立っているのと同じように、平然と。
「アニエスの差し金、じゃないわよね」
共犯者の私の存在が邪魔になって、始末してしまおうと他の魔女を差し向けてきた……とか一瞬考えたけど、あの子に私以外の魔女の伝手なんてないし、そんな黒い考えを持つような子じゃないのよね。考え付かないとも言うけれど。
それに、私が邪魔なら黙って最初からルシアンに私を殺させれば済む話だし。
「私に何か用?」
微動だにしない黒尽くめの魔女に、私は痺れを切らしていた。
要件を言ってもらわないと、此方も対処のしようがないのよね。有無も言わさず殺してしまうのもどうかと思うし、もしかしたら……まぁないだろうけど友好的な人かもしれないし。
「行いを改めよ」
「はい?」
頭からすっぽりと被った黒いレースのヴェールの奥からした、静かな声が私の耳に届いた。
ぼそぼそと、その声は決して響きの良いものではなかった。それでも列車の騒音にかき消される事もなく、私はそれを聞き取った。
「ルクレティア・バレンティーニ。己の役割を全うせよ」
『役割』
そう聞いて思い出すのはこの間ジャンに教えてもらった前世の私の言葉。
『これが私の役割か』
彼女の言うものが、私が考えているものと一致しているかは分らない。
だけど、多分。
「……私に殺されろと言うの? それとも自死しろと?」
「真名を読み取り、役割を演じよ」
「私、命令するのは慣れてるけど、されるのは嫌いよ」
改めよ、全うせよ、演じよ。
この人はさっきから私に上からものを言ってばかり。しかも言っている事がさっぱり分からないときている。
取り合う気にもならないわね。
「私に行動させたいのなら、もっと明確な条件を提示してくれないと」
アニエスのようにね。
何をしてほしいのか、その見返りは何なのか。ちゃんと言ってくれないと、私は動かないわよ。
「私は私のやりたいようにしか、しないわ。それで成された結果が、役割だったというものではないの?」
誰も自分の生の意味なんて知らずに生きている。何かを演じているわけじゃない。
もし仮に人智を超えた何かに役割を与えられているのだとしても、それはわざわざ教えてもらって、その通りに自分を捻じ曲げてまで人生を捧げて全うしなければならないものなのかしら。
天命だと言うのなら、誰に指示されるまでもなく、自身の思いや意志に従った行動こそが、その結果こそが役割だったと、そういうものではないの?
何故私だけ、自分の意志に反した行動を強要されなければならないのかしら。
「だからお前は失敗するのだ。ルクレティア・バレンティーニ」
「会話をしてくれないと、分からないと言っているのよ!」
私は片足を一歩前へと力強く踏み出した。
カン、とヒールが列車に当たって高い音を響かせる。詠唱なんてまだるっこしいものをすっ飛ばして、魔法を行使した。
同時に突風が黒尽くめの女目掛けて吹き荒れた。
レースのヴェールがめくれて飛ばされ、女の顔が顕わになる。
「あなた……」
顔が無かった。いえ、顔はあるわね。ただ目も鼻も口も存在しない、ただ人としての顔の土台があるというだけ。
「影人形」
自分の影を切り取って魔力を吹きこみ、己の分身として使う術の一種。
影は私に正体を見破られると、どろりと地面に溶けて消えてしまった。
消えたというより、本体の元へと帰っていっただけなのでしょうけど。
私はするりと列車の上から降りて、自分の部屋がある車両へと戻った。
風に煽られてクシャクシャになった髪を手で梳かす。
まったく、他人に関渉せずにのんびり隠遁生活を送ろうとしてるんだから、どこの誰だか知らないけど、私の事なんて放っておいて欲しいわ。