1. 斜陽の兄弟 (6)
「片付けは終わったか?」
「はい、仮部屋なので簡単にですが」
静かに歩み寄って来る。遠目に見るとさらに小さく感じた。
アルジャーノン。俺の弟。
その身に流れる血は、俺と同じで俺とは違う。
「兄さんは、よくお寛ぎになられましたか」
「ああ、充分に」
あまり笑顔を見せない奴で、いつも眉間には薄く皺が寄っている。目の下のクマは、もう仕方のないことだがやはり申し訳なく感じてしまう。
本来ならば、こんな日中、起きて活動する奴ではないのだ。
夜を往く吸血鬼。
ファンタジー世界の非現実が、一年前、俺の現実に現れた。俺の中で不明瞭なあの炎の記憶。死に呑まれんとする俺を引っ張り上げて救い出したのはアルジャーノンだ。
アルがいなければ死んでいた。いなければ、俺は、人間のまま。
耳鳴りがする。半年、という警告が脳裏を過る。ここに少しの間座っているうちに、頭痛は幾分収まった。せめてアーサーには、この不調を悟られたくはないのだが。
人間の血を食事として飲む。たった一口でいいのだとアルは言う。俺は半分の半分だから、それで一週間はもつのだと。
ならばお前はどうなんだ、どれほどの頻度で口にするんだ、――半分のお前は。
一年前にそう問うた。答えはすぐに返ってきた。一週間に、最低一度。
人間ではない。それはこの一年でよく思い知った。しかし、それでもアルは弟だ。たとえどれだけ他と事情が異なろうが、俺はアルジャーノンを愛している。アルも、俺を好きだと慕ってくれる。
それで充分だと思っているが、どうにも余所余所しく見えるらしい。恐らくそれは、もう何年も昔から、周囲の人間に与えてきてしまった印象なのだろう。
「この後は理事に向かわれるんでしたよね」
「そう、主監督生のバッジを受け取りに」
「そしてその後は七年棟へ」
「そうだ」
アルジャーノンは、俺とアーサーが座るソファの傍まで来た。しかし腰を下ろそうとはしない。身体の後ろで手を組んで、まるで使用人のように立つ。
やめろと言っても聞かないから、随分前に諦めた。
「……そろそろ行くよ、アーサー。夕食の時にまた戻ってくる」
俺が立ち上がればアーサーも倣う。
「はい、お待ちしてます、生徒長!」
冗談めかした言い方は、何ともこの後輩らしい。アルジャーノンとほとんど正反対の後輩を好ましく思いつつ、黙して立つ弟もちゃんと視界の中にいる。
俺と同じ青い瞳が、俺を窺い見ては逸らされた。
声をかけるか否か、少し迷う。
「……それじゃあ、また」
結局は、アーサーに言葉を返すしかしなかった。談話室を出ようと足を向ければ、アルジャーノンは一歩の距離でついてくる。
そうか、これが冷たいと言われる故か。
今更どうにも出来ないが。
◇◇◇
ラトリッジへの謁見を終えた。
アルジャーノンだけで先にフォード寮へ帰るよう言いつけ、オズワルドはその足で七年棟へ。理事長室も入っている職員棟に届く手筈にしていた荷物を受け取って、「運べますか、大丈夫ですか」と心配するアルジャーノンを寮に帰すのが一苦労だった。
七年棟というのは、文字通り七年生が共同生活をする寄宿舎のことだ。四つの寮で生活をするのは六年生まで。七年生に進級した三十名は、寮を出て、七年棟に入る。
六年次まで別々の寮で生活していた三十の才能がここで一堂に会するのだ。七年棟は学内に多数存在する建築物とは一線を画す壮麗さを誇る。ルームメイト制度は強制ではなくなり、二人部屋でも一人部屋でも、各人の自由で選ぶことになる。
学内自治の担い手、その中心。
七年棟は主監督生の管理の下に運営される。
部屋割りから運営方針まで、各決め事は六年次の終わりに既に済んでいる。進級が決まった三十名で、帰省前に棟の全てを見て回って調整した。オズワルドの役割は、七年棟の鍵を受け取り、明日から来る七年生を迎えること。それから自分の荷解き。
中央校舎の奥、生徒が使う学内施設の最奥に位置する七年棟は、流石に他を圧倒する門構えを持っていた。外界と一切を遮断するようなものではなく、絢爛な鉄細工。
「…………」
ラトリッジから受け取ったばかりの鍵束の中から、門を施錠する南京錠の鍵を取り出して、開ける。ずしりと重い南京錠を握りしめて、鉄細工の門をいっぱいに開け放った。
棟の入り口までは、赤い石畳の小道が伸びる。沿って歩き、短い階段を上がれば漸く玄関扉だ。中央校舎と同じように巨大な扉には、鍵が三つ備わっていた。一番上のものは、オズワルドが手を伸ばして丁度届くような位置に。
鍵束から一つずつ選び出して、開錠していく。オズワルドに特別な感慨は無かった。あるのは、与えられた仕事をこなしているという静けさだけ。
扉が開いた。少し体重を乗せて引き開ける。流石によく手入れされているので、古めかしい音などは立たなかった。門とは違い開け放つことはせず、すぐに閉めた。
扉の先にはまた扉。
「…………面倒だな」
重なる手間に思わずぼやいた。
自分の部屋に入るのにもまた鍵を使って、荷物も全て部屋へ運んだ。オズワルドの部屋は二人部屋だ。明日、一年次からの付き合いのルームメイトが到着する。
寮に比べて、部屋は広い。ベッドは二段ではないし、大きさも質も変わった。シーツや枕はこれから運んでくる必要があるが、オズワルドはまず裸のベッドに身を倒した。
心地よく身体が跳ね返る。目を閉じれば、このまま寝入ってしまえそうな気もした。
「……半年、か」
身体は重い。眩暈がしないだけ今日は調子が良い。頭痛は収まったが耳鳴りは続いている。アルジャーノンは気付いていただろう。オズワルドが、一人で七年棟へ荷物を運ぶと言った時の、不安げな顔。途中で倒れでもしたら、と心配していたのだ。
それでもオズワルドは吸血に踏み切れない。経験は、半年前の、一度だけ。
閉じかけていた目をまたぱちりと開けた。
窓から差し込む陽光がいつにも増して眩しく感じて、体を起こしてカーテンを閉めた。
◇◇◇
夕食を取りに来た兄さんと、アーサー様はよく話をされた。食卓でこんなに会話が弾むのを見るのは初めてだった。もっとも、兄さんはアーサー様の話を楽しそうにお聞きになっていただけだったけれど。
兄さんは食事を終えた後、すぐに七年棟へお帰りになられた。きっと体調が悪いのだ。アーサー様の前で、そういった様子を見せたくないのだと思う。お送りします、と申し出たけど苦笑とともに断られた。大丈夫、という一番信用できない言葉も一緒に。
アーサー様と玄関先でお見送りした。陽が沈みすっかり暗くなった世界に、黒の燕尾服が溶けていくようだった。ストリートのところどころに設置されている街灯は、今日はまだ灯らない。
「アルジャーノン、シャワーはどうする?」
「……明日の朝、使わせてください。今日はもう……」
「ああ、長旅で疲れたかな。俺も今日は早めに寝るよ。部屋で何か困ったことはなかった?」
「はい、問題ありませんでした」
談話室に戻ると、アーサー様は生徒手帳を取り出した。
「明日の朝は、九時から寮生の帰寮が始まる。みんな適当に帰ってくるから特に仕事はないんだけど、荷物を運ぶのを手伝ってくれるとありがたいかも。力持ちだったし」
「朝……。分かりました、……あの、もし七時を過ぎても起きなかったら、起こしてくださいませんか」
「七時? 別に寝ててもいいんだよ?」
「いえ、一度崩してしまうと、なかなか戻せないので……生活リズム……」
朝に起きる、という生活リズム。
学校生活を過ごすために、この数か月でシャーロット姉さんに散々叩き込まれたけれど、その結果が今抱えるクマだ。夜は気が立って眠れないし、朝日は眩しすぎて目が痛い。真昼の太陽なんて敵だ。それも随分慣らしはしたけれど。
昼の世界は生き辛い。だけどそうも言ってられない。
「朝弱いんだ? 可愛いとこあるなぁ!」
何も知らないアーサー様はからりと笑う。まあ、気に入られる分には、問題ない。
ただその笑顔はちょっと腹立たしい。
アーサー様はまだ暫く談話室に残るらしい。僕は早々に就寝の挨拶を済ませてしまって、割り振られたばかりの部屋に戻った。フロアは最上階である四階。家の自室に比べれば手狭で、ベッドは二段ベッド。夕食の前にベッドメイクは下段を選んで終えてある。
それでも充分な部屋だ。流石はクイーンズ。
そしてここは兄さんが一年を過ごされた部屋だ。わざわざ訊きだしてまで選ぶなんて、女々しくてみっともないとは思う。自覚はある。
だけど可能ならば、少しでも兄さんの近くにいたいから。
「……女々しい」
制服の上着を脱ぎ捨てた。タイも取ってしまう。寝る気はないのでベストはそのまま。
無造作に椅子の背もたれに上着を引っ掛けて、思い直してクローゼットまで持っていく。皺にならないよう、丁寧にハンガーにかけた。これも兄さんの温情、頂き物だから、大切に。
クローゼットを閉めて、その手で窓を開けた。
耳を澄ませて、誰もいないことを確認する。アーサー様はまだ談話室にいるようだ。部屋の鍵も、開けておくように言われたけど、施錠した。
窓枠に足を掛ける。
そこから弾みをつけて、身体を捻りながら外に身を晒し、窓枠を蹴った。
ふわりと宙に浮いた身体。もう一度、今度は空を蹴る。
それで屋根まで僕は飛んだ。
秋の夜は肌寒くて、上着を脱いだ腕が冷たかった。屋根に足がついて重力が蘇る。今日は星がない。月だけが、夜空に置き去りにされている。
いい夜だった。穏やかで暗い。
僕は静まり返った空気にメッセージを乗せて、忠実な友人たちを呼ぶ。
『…………来い、来い、ここへ……』
気まぐれに繰り返して呟けば、遠くで一つ羽音がした。二つ、三つ、それから急速に数を増して、どんどん音も大きくなる。来い、ここへ。念じるだけでやって来る。
宵闇を滑るようにして、彼らは姿を現した。
僕の頭上を三度旋回すると高度を下げて、僕の周りを飛び始める。
『よく来た、お前たち……』
腕を伸ばすと、群れの中から一匹が僕の腕に纏わった。器用に足を引っ掛けて、ぶら下がる。彼女の名はカミーユ。良き友、一番のしもべ。
コウモリだ。僕が使役するコウモリの群れ。
『いいかい、カミーユ。今日から僕の住処はここだ。よく覚えて、近くに越して来るんだよ』
彼女はたおやかに体を揺する。フランス生まれの彼女は殊に優雅だ。彼女に合わせるわけではないけれど、僕も無意識のうちにフランス語を使う。
『よく彼らを率いてくれ。僕も自分の目を使うけど、君たちの力も必要だから……』
カミーユがいる腕に、別の一匹が下りてきた。同じように僕の腕にぶら下がる。彼女はエメ。同じくフランス生まれの彼女も、貞淑なコウモリだ。
『エメ、君は一番速く飛べる。だから特に頼んだよ。君は、あの方を、……兄さんをよく見ていておくれ』
群れ全体が大きく波打った。僕の使い魔たちは忠実で、優秀だ。
彼らの力を借りれば、この学校の敷地内全てに、同時に目をやることが出来る。
『忘れていないね、君たち、僕が君たちに与える命はたった一つだ。カミーユ、エメ、愛しい僕のしもべたち。その翼を以て、』
軽く腕を揺すれば、カミーユもエメも飛び立った。僕を中心に円を描く群れの中に飛び込んで、その美しい黒の肢体を闇に乗せる。
『オズワルド兄さんを守るんだ』
僕の言葉は夜に溶けて、彼らはそれを食んだ。
行け、行けと命じれば、彼らは来た方角ではなく三々五々に飛び去った。カミーユは群れの行方を把握するように一段高い空を飛び、エメは僕の望み通りに七年棟の方へ行く。
ほとんど一瞬で群れは消えた。最後に、カミーユが僕の周りを飛んだあと、彼女はエメを追っていった。
一等静かな夜が来る。
『兄さんを守る。兄さんは、僕が……』
宵風が、僕の身体を冷やしていく。音がない、気配もない、誰も、誰もここにはいない。言いつけだった。「決して人間に悟られぬこと」。命の使い方はもう決まっている。ずっと昔から、そう、兄さんに出会ったその日から。
兄さんは僕が守る。
――見ていて、母さん。
そのために、僕はここにいる。