1. 斜陽の兄弟 (5)
談話室を出て、直接繋がっている寄宿棟の一棟を抜ける。渡り廊下を通じて奥の棟へと進み、三階建ての最上階まで上がった一室。
ポケットから小さな鍵を取り出して、アーサーはその部屋のドアを開けた。アルジャーノンは中を覗こうとはせず、開いたドアの方へ視線をやりながらアーサーが戻ってくるのを待った。
「よっ……と、送った荷物はこれだけかな?」
やがて部屋から出てきたアーサーは、かなり大きなトランクを抱えていた。ローラーなど付いていないその古風な旅行鞄は見るからに重そうだ。アーサーも、廊下まで出るとすぐに床に下ろしてしまう。しかも同じものを中からもう一つ運び出して、一つ目の隣に置いた。
「はい、それで全てです」
「……やっぱり重いよ。俺が運ぶ」
「お気遣いなく。自分で運べます」
「いやいや、これは無理だって。一つ持ち上げるのも相当疲れるのに、これで階段を降りるなんて……」
あくまでもアルジャーノンに負わせようとしないアーサーに、アルジャーノンはふっと短く溜め息を吐いた。
「平気です、ほら」
止めようとするアーサーの言葉を無視し、自分の荷物を掴む。
そのままひょいと持ち上げた。
「え」
気の抜けた声を聞きながら、ぐるりと腕を回し、肩に引っ掛けるようにして一つを持つ。そして空いている手でもう一つを引き寄せた。
「持てますから」
アルジャーノンの顔色に変化はない。特に力を入れている様子も、辛そうな様子もない。アーサーはぽかんと口を開け、信じられない、といった感じに目の前の後輩を暫く眺めていた。
六年生が使う棟から、談話室のある中央の本棟まで戻る途中、アーサーは何度もアルジャーノンを振り返った。しかし二つの荷物を抱えたアルジャーノンは、危なげない足取りで階段を下り渡り廊下を進む。
アーサーはまた振り返ってアルジャーノンを見た。
そして思い切ったような顔で、口を開いた。
「ねえ、先輩とは、仲が良いかい?」
アルジャーノンは足元を確認する素振りでその視線をかわす。
「…………兄さんは僕に良くしてくださいます」
「それは何となく分かるけど……」
アーサーは渡り廊下の終わりで立ち止った。小さな扉に手を掛けながら、しかしまだ開ける気配はない。アルジャーノンも、その隣まで進んで足を止める。持ち上げていた荷物は二つとも床に下ろした。
行き場をなくした末にアーサーを見上げた真っ青な眼は、澄み透ってはいるものの、十三歳にあって然るべき純真さというものが籠っているようには見えなかった。
「僕は兄さんを慕っています」
しかし混じり気のない言葉だ。迷いのない眼。
「それが全てです」
意志であることに変わりはない。しかしそれは、危うく見れば独りよがりな願望染みていた。良くしてくれる、慕っている。双方の関係は、相互的には感じられない。
互いに一方通行だ。兄弟という関係の中で、それははっきりとした違和だった。
「そうか……。悪い、俺が口を出すことじゃなかったね。家庭に事情は付き物だ」
この話は止め、と肩を竦めて、アーサーは扉を引き開けた。木製のその扉はきしむことなく、二人を屋内へ案内する。人間のいない静けさが詰まったそこの空気は少し冷たく、頬を撫でた静寂の心地よさにアルジャーノンは少しだけ目を細めた。
「この棟が、一年生が使う棟だよ。二年生になれば別棟に引っ越しだ。で、部屋は全て二人部屋だからね。ルームメイトの話は聞いてるかな?」
「……はい。全新入生入寮完了から、一週間。その間に決めなければならない、と」
「そう、その通り。だからそれまでは仮部屋なんだ。入寮完了から一週間過ぎたら、一斉に部屋割りの調整をするよ。それまではランダムに人を入れていくからね」
アーサーは内ポケットから鍵束を引っ張り出した。小さな鍵一つひとつに小さなラベルがついていて、そこには数字が書き込まれている。
「けど君は一週間は一人部屋だね。どこでも好きな部屋を選んでいいよ。中身は変わらないけど、部屋の位置で希望があれば」
鍵束を人差し指に引っ掛けて、くるりと回した。アルジャーノンはそれを一瞬目で追って、何事かを考え込む。
「ん、どうかした?」
「…………あの、」
今までの毅然とした態度はどこへやら、途端に言葉を濁し出したアルジャーノンに、アーサーは訝しげな表情を浮かべた。
言葉が濁っただけではない。頬にはほんのりと朱がさしていた。
いよいよアーサーが首を傾げたところで、一度きゅっと小さな唇を引き結んで、
「…………兄さんがお使いになった部屋は、まだ空いていますか……?」
小さな声だった。
先までの力強さは本当にどこにいったのか。眉根も寄せているから不機嫌そうにも見えるが、それは間違いなく羞恥心によるものだった。
「あれ、もしかして、照れてる?」
アーサーは腰をかがめて、アルジャーノンの顔を覗き込む。
そしてぱっと顔を背けたその表情を確認し、思わず吹き出した。彼が持っていた第一印象とは、あまりにもそぐわないものだったのだ。
「み、みっともないでしょう」
「いやいや、そんなことないけど、ごめん、もう一回だけ訊いていいかな。……お兄さんのこと、大好きなんだね!」
「……好きですよ。当然じゃないですか」
俯きながら頷いたアルジャーノンには、その時漸く、年相応の稚さが浮かんでいた。
談話室に戻って来たアーサーはどこか上機嫌だった。
「アルジャーノンと何か話したか?」
意外そうな顔をするオズワルドの傍のソファに、アーサーは腰かけた。背もたれは使わない。
「はい! アルジャーノン君、最初はちょっと俺とは住む世界が違う子かなって思ってたんですけど、なかなか可愛いじゃないですか!」
良い笑顔でそんなことを言われ、オズワルドは一瞬面食らった。
そして次には笑い出した。
「そうだよ、可愛いだろう!」
「先輩のこと大好きなんですって」
「アルが言ったのか? 本当に?」
「言いましたよ! しかも先輩が一年生の頃に使っていた部屋を希望して」
「それは聞きたかったな」
残念だ、とオズワルドは笑う。肘をついてはいるものの怠けた雰囲気でないのは、彼が日頃から纏う静謐な空気の所為だ。肩を揺らす様子は無邪気だが、声は深く落ち着いている。
「心配しちゃいましたよ、先輩がアルジャーノン君に冷たいから」
「冷たかったか?」
「余所余所しいと言いますか、そんな感じが。でも歳の離れた兄弟ってそんなものなんですかね」
「……どうだろうな。他を知らないから何とも言えないが」
オズワルドが視線を逸らすことはない。笑顔も絶やさない。
「俺はあいつを愛しているよ。それは本当だ」
「……ですか。じゃあ何の心配もないですね」
元来、アーサーは世話好きな男だ。それ故にオズワルドが彼の弟に向ける態度がずっと気にかかっていたのだろう。
学内で知られたオズワルドの評判は、その優秀さに加えてとにかく面倒見の良さだった。後輩や同級生の勉強を見るのはもちろん、生活の中の些細な世話から喧嘩の仲裁まで。アーサーもよく世話を受けた一人だ。その筆頭と言っていい。そして二つ年下の妹シャーロットにとりわけ甘く、溺愛していることはフォード寮の三年生以上ならば誰でも知っている。
それにしては、オズワルドのアルジャーノンに対する態度はあまりにも冷めて見える。明確な比較対象であるシャーロットと比べるのだ、その差ははっきりと出る。
しかしアーサーは、オズワルドの一言でこの話を終えた。「オズワルドはアルジャーノンに対する愛情を持っている」。素直な後輩には、この事実だけで十分なのだ。
「あ、そうだ、話があるっておっしゃってましたよね。何でしょう?」
「今ので半分終わったよ」
「なんだ、アルジャーノン君のことでしたか」
「うん、まあ、上手くやれそうで俺も安心した」
ぱんと手を打って、思い出したように言ったアーサーにオズワルドは軽く首を振った。
「身内贔屓をするようだが、アルジャーノンは殊に優秀だ。同年代の子らと比べて、頭一つ抜けていると思う」
入学試験の点数という裏付けがある。アーサーは「そうでしょうね」と呟きながら頷いた。主監督生の弟、というアルジャーノンの立場もその納得に一役買うものだろう。
「大抵のことは一人でやってしまう。それ故に危ういところが多々あるわけだが」
オズワルドは少し苦い顔をした。迷っている時の顔だ。
しかし次の言葉はすぐに出てきた。
「出来るだけ、あいつから目を離してやってくれないか」
「は、……目を、離すんですか?」
「そう、離す」
「何故です? 危ういなら、注意を向けていた方が……」
「危ういというのは結果についてじゃない、その過程だ」
アーサーの頭には幾つかの疑問符が浮いていた。首まで傾げて理由をねだる。オズワルドは伝わり易い言葉を注意深く選んだ。
「あいつは自分の領分をしっかり把握してる。だから、一人で出来ると思ったことは何でも一人で片付けてしまって、誰に相談したり報告することがない。傍から見れば無謀だったり突飛だったりする行動も、結果に繋がる自信があるから敢えて説明することもない。そして他人の干渉を酷く嫌う」
「……それは軋轢を生みませんか」
「生むだろうな」
オズワルドは溜め息交じりにそう言って、背もたれに身体を預けた。
「思い通りにならないことを学ばせる、という算段ですか?」
「いいや、そんなことは、アルはずっと昔から知ってるよ」
「……分かりません、お手上げです」
首を振りながら両手を上げた、その様子が子供染みていて可笑しかったのだろう、オズワルドはまた笑った。
「簡単だよ、アーサー。アルジャーノンは目を離していた方が上手くやるんだ。下手に干渉するとお前が調子を狂わされるぞ」
「周囲とも上手くやりますか?」
「どうだろう。何せあれが集団の中に入るのは初めてだから」
無責任とも思える発言をしながらも、アーサーに向ける視線は普段通りに、何かを考えている色をしていた。
「取り敢えずは目を離して、アルの好きにさせてやってくれ。それで見過ごせないような歪があれば、俺に言え」
「……監督生に、監督をするなと言うんですね?」
言葉自体は恨みがましいような、非難をするようなものだ。しかしその顔には苦笑が浮かび、声音も嘯くような軽さだった。
オズワルドに最も近い後輩として、アーサーは彼の意志をよく汲み取り尊重する。
「分かりました。先輩がそう言うなら、そうします。だけどあの子は目を惹きますよ」
「それはアルにも自覚があるだろうし、躱し方も心得ているだろう。……ああ、それから」
オズワルドは急に顔を曇らせた。彼にしては随分長く、逡巡する。
「…………いや、いい」
その上、首を振って自身の話を打ち消してしまった。
気になる性分のアーサーは、一言だけ問い質そうとした。しかし口を開きかけて、オズワルドの視線が動いたことに気付く。
それを追えば、談話室の出入り口。アルジャーノンが立っていた。