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Bro. Blood  作者: きゅうす
Ⅰ. 斜陽の兄弟
4/49

1. 斜陽の兄弟 (3)

 時計の針は、二回りほど遡る。



「ああ、やっとお出でになられた! どうなさったんです? 何か問題でも?」

「……問題はなかったんだが、ちょっと……、服装を正していた。待たせてしまって申し訳ない……」


 馬車から降りてきた二人に若い御者は心配そうな顔で尋ねたが、オズワルドに適当にはぐらかされた。オズワルドの視線が泳ぐ、ということはなかったが、あまり目を合わそうとしなかったのは、バツが悪いからだろう。


「な、何か私に落ち度があったとか……」

「いや、そういうことでは、全く」


 御者の慌てた様子に、オズワルドは可笑しそうに首を振った。浮かんだ小さな微笑みに、御者は漸く胸を撫で下ろす。気を張っていた雰囲気が、幾分砕けて柔らかなものになった。


「よかったぁ。こんな大事な日に私みたいな新米がヘマでもしようものなら、多方面に顔向けできませんよ」


 声の調子も、従者が主人に向けるものにしては随分と軽い。しかしオズワルドの方もそれを咎めることはなかった。普段から背筋の伸びている青年だが、主人の威厳を見せつけようとする姿勢ではない。


「お前が来てくれると聞いたときは驚いたよ。親父様は?」

「いやぁもう目が随分と悪くなって。とてもじゃないが、オズワルド様方を乗せるなんて怖くて出来ないと言ってました」

「矯正器具も役に立たないのか?」

「いいえ、日常生活は問題なく。ただ、あなた方を乗せるとなると、話が違いますからね」


 御者は肩を竦めてみせる。


「何といっても、我らが旦那様ですから!」


 そう言ってからりと笑った御者の男に、オズワルドは曖昧な笑みを浮かべながらも表情を曇らせた。

 旦那様、と彼は冗談めかして呼んだ。

 彼は一年前まで、オズワルドを「坊ちゃん」と呼んでいたのに。


「…………苦労をかけて、すまない」


 目を伏せ、唐突とも思える謝罪の言葉を呟いたオズワルドに、御者は驚いた風もなく変わらない笑顔を向ける。二人の歳は、実はそう離れてはいないのだが、年上であるはずの御者の方が若い活気に溢れていた。


「オズワルド様のせいじゃありませんって、何度も言ってるじゃないですか! それに苦労だなんて思いません。寧ろまだクリフォード家に仕えられること、それから、次はあなたに尽くせることを、私たちは光栄に思っているんです」


 御者は自分の胸元へ手を当てる。


「あと一年。私たちは待っています。あなたがクリフォードを継ぐその日を。……ですから! 今はご自分のことをしっかりと考えてくださいね! この一年、一世一代の大役を担われるのですから!」

「あ、ああ」


 途中まではしっかりと背筋を伸ばして忠臣然とした顔をしていたのに、御者の男は堪え切れなくなったようにオズワルドの両手を取った。自身の両手で包み込み、ぎゅっと強く力を籠める。身体は少し前のめりになって、オズワルドは反射的に少しだけ身体を引いた。

 御者の目はキラキラと輝いている。喜びと、期待と、尊崇に。


「クイーンズの七年生! 主席! そして主監督生! しっかりとお務めなさいませ!」


 それはもう、顔中に笑みを広げさせて。彼に尻尾があれば千切れんばかりの勢いで振りたくっているであろう具合に。

 オズワルドはその無邪気すぎる表情に、思わず吹き出した。


「お前たちは皆同じことを言う!」

「当たり前です! これがどれほどの名誉か!」


 御者は顔を輝かせたまま更にオズワルドに迫る。

 彼がこう興奮するのも無理はない。

 英国中の才能が集うクイーンズにおいて、最高学年である七年生に進級できるのは六年生の上位、三十人。そして進級時までに受けた全ての試験の獲得点数の総和が、七年生の順位を付けるのだ。それはすなわち、一年次から怠ることなく勉学に励んだという、模範生の証明。

 加えて〝主監督生〟という名声は、学内のみに留まるものではない。


「もう、もう俺昨日から眠れなくて、坊ちゃんが主監督生かぁって、いやもちろん坊ちゃんは主監督生に相応しい人だって、信じてましたよ、でもやっぱり、こう、うわぁってなって」


 だんだん口調が崩れてきて、呼び方も「坊ちゃん」に戻り、顔も嬉しさだけに傾いていたものから何故か泣きそうな表情になってきた。表情豊かな奴だな、とオズワルドはまた他人事だ。

 感極まった御者は目に涙を溜めながら、殊更に強く、主人の両手を握る。


「とにかく、体調だけはお気をつけて。決してご無理はなさらないように」


 祈るような恰好と表情、それに声だった。

 少し情緒の安定しないこの御者は、一心に若い主人の身を案じている。


「……皆同じことを言う」


 オズワルドは同じ言葉を繰り返した。その顔には落ち着いた笑みを浮かべている。

 この御者も、シャーロットも、その前に進級祝いを伝えてくれた知人たちも。

 そして、アルジャーノンも。

 同じことを言っているのだ。全く、同じ思いで。

 御者はオズワルドの様子につられて明るい笑顔を取り戻し、


「それに、今年はアルジャーノン坊ちゃんも主席入学ですもんね!」


 オズワルドの後ろに隠れるように立っていたアルジャーノンに顔を向けた。


「えっ……、ああ、はい……」


 馬車を降りてからずっと、兄の背に隠れて何やら考え込んでいたアルジャーノンは、急に話を振られてびくりと肩を震わせる。躊躇いがちに御者を見上げる仕草には、オズワルドと御者の関係よりも明らかな距離があることがはっきりと表れていた。

 しかし御者は気にした風もない。感極まった名残で目は潤ませつつも、にこにこと屈託のない笑顔でアルジャーノンを見つめている。


「…………そうですね、主席……」


 何と言うことはないのだが、アルジャーノンはこの底抜けの明るさを持つ御者が、ただ純粋に、苦手だった。


「いやぁ、〝主席のクリフォード〟は健在ですね! アル坊ちゃんも、食事と睡眠はちゃんととって、友達いっぱい作ってくださいね!」


 だから、そう健康的すぎる笑顔を向けられ、


「はあ……、頑張ります……」


 アルジャーノンは微妙な表情で頷くしかなかった。





「食事と、睡眠に、友達」


 簡単に言ってくれる、とばかりに顔を顰めるアルジャーノンを一瞥して、オズワルドはその一歩前を歩く。困ったような表情は、彼が一番よく見せる表情だ。


「だけどお前にはどれも重要なことだろう?」


 窘める言葉に強さはない。二人の間は、悪い空気ではなかった。

 アルジャーノンは斜め前を歩む兄を見上げ、その平然とした様子に密かに安堵する。


(心労をおかけするのは良くない……だけど兄さんが倒れるのは嫌だ……)


 先刻、御者の名残惜しげにも誇らしげな見送りを受け、兄弟は漸く学内を進む。



 そこは学校と呼ぶにはあまりにも広大な施設だった。



 馬車が止まったのは、正門の手前に置かれた「第一門」をくぐったところ。学校の敷地内ではあるが、校舎などはまだ見えない。あるのは第一門の警備にあたる守衛の宿舎や厩舎だ。それらの奥に、要塞じみた壁と正門がそびえている。

 正門に掲げられた五つの紋章がある。中央には翼を広げ、時計を掴んだ不死鳥。クイーンズの校章だ。それを囲う、王冠に月桂樹、鎖を食む獅子、剣と盾、書物を纏う鷲。クイーンズに四つ存在する各寮のシンボルである。厳めしい正門から見下ろすそれらの紋は、来る者を値踏みするような威圧感を持っていた。

 オズワルドは一瞥もくれず、アルジャーノンは一度見上げて、感慨も無くその下をくぐる。

 そこはクイーンズ――学生の世界への入り口だった。



「あれが周辺校舎だ。見えるか?」


 正門を抜けた二人が歩むのは、北に向かって伸びる幅の広い道だ。

 生徒からメイン・ストリートと呼ばれるこの道は、学内の大体全ての施設を結んでいる。芝生と木々の緑が清涼な空気を生み、ところどころに置かれたベンチは、賑わいの季節となればいつも誰かが使用する。学校と言うよりも、公園と言った方が雰囲気は近い。

 オズワルドが立ち止って指さしたのは、正門から一本であったストリートが左右に枝を広げる場所でのこと。左右の道は少しだけ幅が狭くなる。そしてその向こうには、確かに建物群が見えていた。


「下級生のうちは周辺校舎を使うことが多い。ただし第八校舎まである上に似たような建物ばかりだから、迷って遅刻しないように」

「分かりました」

「案内は寮ごとにある。よく確認をすることだ」


 オズワルドは反対側に伸びる道も見たが、敢えて近寄って確認させようとはしなかった。アルジャーノンも、視線をやっただけで、また歩き出した兄の後をついて行く。

 寮。その言葉はアルジャーノンにとって、決して歓迎できるものではなかった。


「ハウス、ですか」


 呟きに、つい苦々しい響きが混ざる。しかしそれ以上は言わなかった。その寮は、他でもないオズワルドが六年間を過ごした場所。


「そう。寮は家、寮生は家族だ。特にフォード寮は、その意識が強いところだからな」


 だから、滅多なことはしないように。言葉尻がそう告げていた。


「……泥を塗るようなことはしません。兄さんにも、……クリフォードにも」


 殊勝な言葉とは裏腹に、その表情は晴れない。前を行くオズワルドがその顔を見ることはなかったが、想像することは容易だった。

 泥を塗る、という行為に、周囲との軋轢を生むことは入っていないだろう。オズワルドにはそれが不安でならないのだ。たとえばアルジャーノンが無闇に校則を破るだとか、粗野な振る舞いをするだとか、無意味に無礼な言動で同寮の生徒を威嚇するだとか、そういったことは無いだろうと思っている。意志さえあればどこまでも貴族的に振る舞える弟だ。

 しかし、相手の態度によっては、その限りではない。


(先行きは不安、か……)


 心中溜め息が出る思いだった。

 本来ならば、アルジャーノンがクイーンズに通うことはなかった。それをオズワルドが半ば強制的に入学させたのだ。従順な弟の同意は得ているとは言え、そのことを考えれば、オズワルドもアルジャーノンに強く要求を出すことは出来ない。

 前途多難はお互いだ。

 そんな二人の前方に、物々しい構えの建造物が見えてきた。



 学内施設の配置を見て、ちょうど中央。故に、中央校舎。

 先刻遠目に見た周辺校舎よりも威厳に溢れる建造物だ。


「ここは主に五年生以上が使う。一年生の内は、そうだな、校史と教養の授業で使うくらいか」


 オズワルドはその前に立って淡々と説明を加える。窓を数えて、四階建て。ストリートに面する教室群の上方だけはそれより頭一つ背が高く、巨大な時計と荘厳な鐘が鎮座していた。正午を過ぎて数時間。人間の身の丈よりも遥かに大きいであろう長針が、二人の前でがこんと動いた。

 時間に支配される学生規律の象徴である。


「授業で来ることはほとんど無いだろうが、成績開示がここの中庭である」

「成績開示……」

「何に八回ある考査の結果だ。順位と得点が全て貼り出される」

「全学年、一斉にですか?」

「そう」

「兄さんの結果を僕が見ることも?」

「もちろん。全校生徒の試験結果を全校生徒が見る、それが伝統。……詳しい案内は新入生が揃ってから、監督生がやるはずだ。疑問があればその時にでも。……いいか? それじゃあ、行こう」


 アルジャーノンが中央校舎の全体を眺め、大人しく頷いたのを確認してから、オズワルドはまた歩き出した。

 真っ直ぐだったメイン・ストリートは、この中央校舎に当たってから左右に分かれる。二人が進むのは左手、西側だ。青々と柔らかな芝生に線を引く石畳の道、幾分太い幹を持つ木々、その周辺にちらほらと設置されたベンチとテーブル。遠くに見える周辺校舎と奥の森が、この学校の広大さを感じさせた。

 通り抜けていく風は静かだった。片手に威圧的な校舎を見上げ、しかしそこに漂うのは品位や泰然といった澄みやかな空気。

 ここから先はシモンズ寮、そしてその奥にある、フォード寮の空間だ。


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