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Bro. Blood  作者: きゅうす
Ⅰ. 斜陽の兄弟
3/49

1. 斜陽の兄弟 (2)

 兄さんは極度のお人好しだ。僕なんかを傍に置く程度には。

 だけどそんなお人柄だからこそ、周囲の妬み嫉みも上手くやり過ごされている。

 秀でたお方だ。本当に。


 学内に足を踏み入れてから、時計の針は二回りほどした。

 入寮の手続きも、アーサー・ウィバリーへの挨拶も済ませて、僕と兄さんは学内の奥の奥へと足を向けていた。そこにあるのは「教員棟」。

 生徒の自治、学生の社会とは言え、当然、大人というものは存在する。


「やぁ、よく来た、クリフォード君! また顔を見られて嬉しいよ」


 失礼します、という兄さんの声に返ったのは、幾らか気の抜けた、温和な笑顔だった。大げさとも思える程の大きさと装飾の扉を抜けて、一番に目に入ったのがそんな顔だったから、僕は少し拍子抜けをする。顔に出したりはしないけれど。

 扉に埋め込まれた金の板。そこに刻まれていたのは「理事長室」の文字。

 名に劣らず室内の様子も華やかだ。権威を持つ者を主としているにおいがそこかしこから漂ってくる。ソファ、テーブル、花瓶、執務机、カーペットから壁紙まで、安物など一つもありはしない。傾いた陽の橙に優しく染め上げられてなお、高貴な様子を保っている。

 それらが持つ威厳に、目の前の人間はあまりにもそぐわない。


「どうぞ楽にしてくれ。座るかい? お茶はいる?」

「いいえ、お気遣いなく」


 兄さんの声音は柔らかくも、格式張った硬さがある。決して部屋の奥まで入ろうとはせず、扉の近くで直立するのも、ここで生徒が振る舞うべき姿の模範そのものだ。

 言いつけ通りに、僕は兄さんの隣に立つ。本当は、もう一歩下がりたい。


「そうかい? いや、すまないね。今日も理事長はいらっしゃらないんだ。何せ多忙な人でね、せめて今日のこの時間くらい取れないかと願い出はしたんだが、うん、申し訳ないね、代理の私で」


 この人間は、この部屋の本来の主ではないらしい。理事長代理、それにしても柔いけれど。柔いと言うよりも丸い、態度も体型も。決して大柄ではなく、背は低く、スポーツをしない具合の健康さで肉が付いている。歳は五十の前半だろうか。豊かな髪が、少しだけ若い印象を与えてくる。


「理事長がご多忙でいらっしゃることは承知しております、どうぞお気になさらず」


 兄さんのこの手の声はよく聞くけれど、未だに兄さんの声だとは思えない。他所様に対する、礼儀正しい綺麗な言葉。お顔には万人受けする薄い微笑みが載っているに違いない。これを以て「社交的」だなんて評価を下す奴もいるのだから、人間というものは分からない。不気味なまでに計算し尽くされた距離を取られることを、なぜ好意的に受け取れるのか。


「それで、そっちは、弟御だね。ええと、アルジャーノン君だ。君とは初めましてになるね。私はモーガン・ラトリッジ。副理事長を務めているよ」


 僕は軽く頭を下げた。それだけで副理事長、ラトリッジは穏やかに、饒舌に言葉を発する。


「君は主席入学、しかも獲得点数は次席と五十点の差を付けて、満点とは! いやはや、さすが〝主席のクリフォード〟と噂されるだけのことはあるね。……君たち三兄妹、これほどに優秀な生徒はそういない、しかし、なかなかどうして、神は酷なことをなされるものだ」


 ラトリッジは悲しげに首を振った。そこに混じる深い同情の念に、嘘は見えない。珍しいほど「善良な人間」だ。

 それなのに、と思う。それなのに、兄さんの態度はどこか余所余所しい。普段、こういった手合いの善い人間には、あまり距離をお取りになる人ではないのに。


「シャーロットは元気にしているかい?」

「はい。家のことをよくやってくれるので、助かっています」


 兄さんの声は、どこか遠い。


「そうか……。私は彼女のことが本当に気がかりでね、いや、元気なら良いんだ、病気などしていなければ……」


 今まで柔和で人好きのする笑みを浮かべていたラトリッジの表情が、みるみるうちに曇っていった。沈痛な面持ちのまま緩く首を振り、何度か躊躇う素振りを見せてから、結局彼は口にする。


「うん、やはり私は、あの一年前のことが忘れられないよ、君の顔を見る度に……、ああ、君たちはもう聞きたくもないだろうが……しかし……あまりにも……」


 額に手を当てて、貧血でも起こしそうな悲壮感溢れる顔で、ラトリッジは力無く執務机に片手をついた。

 彼はそのまま目を閉じてしまった。その隙に、僕は兄さんの顔を覗き見る。


「…………」


 そこに表情らしい表情はなかった。真っ直ぐに向けた眼は淡々として、何も映してなどいないようで。ただ、僕の思い違いとやり過ごせるほど僅かに、憐みの色が含まれているような気もした。

 憐みを、受けるべきは間違いなく、兄さんであるはずだ。


「…………今でも」


 やがてぽつりと呟かれた言葉に、僕は視線を前へ戻す。


「今でも、信じられないんだ。いや、信じたくないだけかもしれないが。しかし、誰も、夢にも思わなかったろう」


 言わねば気が済まぬとばかりに、誰に語るわけでもなくラトリッジは言う。



「まさか、クリフォードほどの名門侯爵家が、大火で当主を亡くすなど……」



 信じられない、と繰り返された。だけどそれは、何よりも簡潔な事実だった。

 一年前の、夏のこと。

 兄さんが六年生に進級なさる直前のことだった。


 クリフォードと言えば、当代の英国貴族社会において知らぬ者は無いほどの名門。

 「三大侯爵家」と呼ばれる、地位ある家々の中でも特別に権威を持った三つの侯爵家、その一翼を担うのがクリフォードだ。

 兄さんが生まれた家、兄さんがお継ぎになる家。

 だけどこの数年で、華々しく煌びやかだった彼の家についての言説は一転、炎と憐憫に呑まれていった。

 誰もが寝静まった深夜に起きた火災。異常な速さで回ったその炎は、瞬く間にクリフォードの屋敷を包み込んだ。夜空を焦がしながら燃え盛る屋敷から、まず無事に脱出できたのは、使用人たち。

 そこに当主、及びその子息二人の姿は無かった。

 まだ中に、逃げ遅れた、どうして誰もお連れしなかったんだ。威力を増して闇夜を照らし上げていく炎の前で誰もが絶望した時に、「兄を背負った弟」が、煤だらけになりながら飛び出して来た――。

 一年前のことは、大体こんな風に語られる。結局、当主、すなわち兄さんと僕の父様は屋敷の自室で死んでいた。火の原因は分からず終い。放火か、不始末か、あるいは……。とにかく大貴族の邸宅で起こった深夜の不審火というニュースは、瞬く間に貴族社会に知れ渡った。

 父親を亡くした、三人の子どもたち。

 不幸はそれだけでは終わらなかった。

 この火事の直後、姉さんと一緒にロンドンへ出ていて大火を免れた、侯爵夫人が失踪した。煙をたくさん吸って入院されていた兄さんを一度見舞うことさえせず、突然姿を消した彼女には当然非難の声が多く挙がったし、また兄さんには同情の声が寄せられた。侯爵夫人の行方は、未だに分かっていない。

 そして何より。

 この件で、クリフォードは爵位の没収を受けたのだ。



「……あと一年。この学校を卒業すれば、爵位は君に返ってくるんだったね」


 暫く悲しみに浸っていたラトリッジが、ゆっくりと顔を上げて兄さんを見た。兄さんは小さく頷き、短く、しかし強く「はい」と答える。



 没収、というのは、一時預かり、という名目で行われた。だけどほとんど没収だ。

 当主を亡くしたのは不幸だったが、クリフォードには正統な後継者である兄さんがいた。嫡男で、齢も十八と幼いわけではなく、その侯爵家を運営するに充分な能力が、クイーンズで遺憾なく発揮されていたことは周知の事実。

 ラトリッジが言った〝主席のクリフォード〟とは、何も入学試験だけの話ではない。

 成績がすなわち権威となるクイーンズで、兄さんは入学から、現在、七年生に至るまで、全ての試験結果において主席を退いたことがない。それは三年生までクイーンズに在籍した姉さんも同じだった。だから〝主席のクリフォード〟。――姉さんは四年生に進級することなく、大火のあとの家の日常的な管理のために自主退学なされた。本来ならば昨年の四年生主席も、今年の五年生主席も、姉さんだったに違いない――。

 兄さんはすぐに家をお継ぎになるつもりでいた。だけど「六年生になる直前の夏」、この時期が悪かった。

 その時兄さんは、フォード寮の監督生になることが決まっていた。

 クイーンズに四つある寮、シモンズ、フォード、チェスター、ベリー寮。

 その名は、かつて存在した四大侯爵の家名から付けられている。

 すなわちフィッツシモンズ、クリフォード、ランチェスターという現三大侯爵、そして今は消滅したアッシュベリー。

 フォード寮の祖がクリフォードだ。まさにその家出身で、充分な能力をお持ちの兄さんが、フォード寮の監督生を任されたのは当然の結果。

 当然の結果とはいえ、兄さんの天秤の上では軽かった。

 事実、兄さんは学校の方をお辞めになるつもりでいたのだろう。中退というのは決して名誉にはならないが、家の運営に比べれば些末事。全焼した屋敷の再建からする手間があったのだから。父親も母親も一度に失ったあの時、兄さんの頭の中にあったのは姉さんのこと、それから、僕のことだけだったに違いない。

 だけど大人はそれを許さなかった。

 ――クイーン・ブリタニア校より与えられた責務を全うすること。

 馬鹿げた話だと、誰もが思った。それが爵位を管理する国の機関から出された通達だった。つまるところ、兄さんが監督生を問題なく務め上げ、さらにその先にある七年生にまで進級し、生徒の模範たる三大侯爵の名に恥じぬ優秀な成績でクイーンズを卒業するまで、爵位の相続は認めないとされたのだ。どうしてこんな条件が課されたのか、何度も問い合わせたが理由は明示されなかった。

 昨年の一年間、当主亡き後の諸問題を処理するために一か月の休学をしたとは言え、兄さんはご立派にフォード寮の監督生をお務めになられた。

 残るはこの一年、七年生。勿論、主席で進級なさっている。

 そして、もう一つあるのだ。兄さんに与えられる「責務」が。



「……すまないね、本題に移ろう」


 ラトリッジはそう言って一度大きく首を振ると、無理に笑顔を浮かべてみせた。

 執務室の引き出しの中から、小さな箱を手に載せる。


「クリフォード君、これは間違いなく君の栄光になるだろう」


 ゆっくりと歩み寄るラトリッジに、僕はさすがに一歩後ろへ下がった。これは兄さんの場だ、僕が隣立つべきではない。兄さんは少しだけ首を動かして、恐らくは僕を見ようとしたのだろうけど、結局ラトリッジから視線を外すことはなかった。


「誰もが君を見ている。期待をしている。憧れている。その重圧に耐えて立つことは、……と、これまでも常に模範たる振る舞いを続けてきた君には、言うまでもないことだとは思うがね」


 ラトリッジは兄さんの目前に立った。兄さんの背は平均よりも少し高い。近くで向かい合って立つと、彼の頭は兄さんの肩ほどしかない。

 だけど今は、それが丁度いいのかもしれなかった。


「君はクイーンズ創始以来の天才と評される生徒だ。期待されるに過ぎることはない。堂々と在りなさい」


 ラトリッジの指が、丁寧に手中の箱を開ける。

 そこから取り出されたものは小さなバッジ。黄金の、時計を掴む不死鳥が刻まれていた。

 ラトリッジはそれを兄さんの胸元、然るべき位置に飾る。兄さんはそれを静かに受ける。決して華美でなく派手でなく、だけど儀式的な緊張が束の間、空気を支配した。息を詰めたのは三人全員だっただろう。

 やがてラトリッジが一歩後ろに下がった。その顔には、幾分自然体に戻った穏やかな笑み。兄さんの全身を満足げに眺めて、そっと自分の胸元へ手を添えた。


「君に託そう、オズワルド・クリフォード」


 静かに、告げられる。



「今代の〝主監督生〟の任を、君に――」



 それはまさに「栄光」だった。この学校において、何にも勝る価値を持つ。

 「生徒長」とも呼ばれるその役は、名の通りに主たる監督生、生徒の長。学生社会の頂点に君臨し、その全てを統率し、管理し、そして監督する役を、クイーンズ理事会から一任された生徒の称号。

 優れた成績。秀でた人格。充分な運動能力。その他諸々。選考条件は多岐にわたる。

 秀才揃いの七年生三十名、その中から、一人。


「確と、承りました」


 兄さんは恭しく一礼した。

 そのお姿があまりにも完璧に整っていて、内外ともに乱れなど見出せないほどで、驚くほど普段通りのご様子だったために僕は瞬間見惚れていた。ラトリッジも、暫く声を発さなかった。

 兄さんが顔を上げて、また背筋をすっと伸ばす。兄さんの胸元で輝いているであろう主監督生のバッジを、僕の立ち位置からは見ることができない。だけどラトリッジが静かに笑みを零したのを見て、ああその輝きは少しも損なわれずあるのだろう、と、それだけ思って目を伏せた。

 ご立派な人だ。それが危うい。



「あの人間には注意をするべきですか?」

「え?」


 理事長室を出て、廊下を歩んでいた兄さんは僕の言葉に振り返った。声と同様、素直に驚いた表情が僕を向く。足さえ止まって、僕も兄さんの一歩後ろで立ち止った。

 窓からは傾いた陽の光が差し込んでいる。兄さんはその斜陽の中にいた。橙の柔らかな光に照らされて佇む姿は、言いようもなく整っているように見えた。

 何故、と視線が問うている。


「彼に対して少し、警戒をしているように見えましたので」


 余所余所しかった、というのが率直な感想だ。それを言うと、兄さんは意外そうな顔をしたあとに、ふと視線を逸らして考え込んだ。


「…………いいや、ラトリッジ様は本当の善人だ。シャーロットのこともよく気にかけてくださる。いつもご自身の不利益を顧みないお方で……」


 その声音には、確かに親しみが感じられた。


「警戒……、しているように見えたなら、そうだな……。緊張を、していたのかもしれない」

「あなたが緊張を?」


 思わず返した。似合わない単語だったから。兄さんは、困ったように笑う。


「するさ、勿論。大役だ」


 そう言う割には平然としていらっしゃるのだ。もっとも、それだけの度量が無ければ、主監督生などには選ばれないとは思うが。


「……兄さんなら、恙なくこなされると思います」

「当然そう期待されている。応えるしかない」


 その言葉が酷く滑らかに、いっそ軽く聞こえたのは、僕が兄さんの境遇をよく承知できているからだろう。

 兄さんは止めた足をまた進め出した。僕は遅れないように、一歩後ろをついて行く。


「期待には応えるものだ」


 独り言、のようだった。恐らくはそうだ。兄さんが、自分自身に言い聞かせた言葉。何度も兄さんの口から聞いた言葉。

 兄さんの心臓に突き立てられたその言葉は、今、僕にも切っ先を向けていた。


 望まれるならば、そう振る舞おう。あなたがそう望むなら。

 背を追う。

 ここで、より近く。



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