1. 斜陽の兄弟 (1)
一年前まで、彼らは貴族の子弟だった。
「よろしいですかお兄様、体調を崩された時は、すぐにお休みになられるのですよ。変な意地など張らぬこと!」
数日ぶりに心地よく晴れた、秋のロンドン。街路樹が色付くには少し早い九月の初め。
抜けるような晴天の昼下がり、一人の少女が長々と諫言を呈していた。
「この前のように発熱を隠して授業をお受けになるなど言語道断です。お兄様ほどの成績は一度の欠席くらいで覆ることはないのですから。午後のスポーツも決してご無理はなさらないで。お願いですからご自愛くださいませ。シャーロットはそれだけが心配ですわ。ああ、それから、……」
貴族が所有するロンドンでの別宅、タウンハウス。それが立ち並ぶ閑静な地区の一角、一軒の古めかしくも立派な建物の前で、シャーロットという名の彼女は憂い顔だった。少し怒っているようにも見える。
彼女は、まるで人形のように整った顔立ちをしていた。
長いアッシュブロンドの髪も、サファイアの瞳も、くすみのない白磁の肌も、その容姿を一際目を惹くものにさせる要因だ。彼女の齢――十七歳、ということを考えると、幾分か大人びた顔をしている。
美しい彼女が纏うのは、重苦しい喪服だった。
「トラヴィス様に心労をおかけするのもいけません。ルームメイトは継続なさるのですよね? でしたら、何かあれば必ずトラヴィス様にご相談なさること。あの方は気付けなかった自分をお責めになるから……」
そんな美少女から諫言を受けるのは彼女の「お兄様」。歳の差は二つ。
今は彼女の前に立って苦笑を浮かべる青年だ。
「分かった、分かったよシャーロット。体調には充分気を付ける、成績は落とさない、友人に迷惑もかけない。これでいいか?」
シャーロットの言葉を遮り、宥めるように柔らかな声音で、青年は言う。
その顔も、さすがに美少女の兄だけあって恐ろしく秀麗だ。と言うよりも顔付きはシャーロットと瓜二つである。同色の髪と瞳、肌はこちらの方が血色が悪い。目の下に薄いクマを抱えているが、それでも美青年と呼んで差支えないほどだった。身長はそこそこ。痩躯ではないが、筋肉質で男らしい身体つきでもない。
それが今は、仕立ての良い燕尾服を見事に着こなしている。美しいシルエットは必ず衆目を惹くだろう。
成績については心配していませんわ、とシャーロットが呟く。しかしそれ以上は口を噤んだ。心配そうな顔はそのままに、兄の手を両手で握る。
「くれぐれもご自愛を。〝栄光の〟七年生、しっかりとお務めなさいませ」
「ああ、必ず」
青年は頷いて、シャーロットに軽くハグをした。すぐに身を引いたのは、もう一人に譲るため。
青年の隣にはもう一人、少年が立っていた。
「では、アルジャーノン」
「はい」
シャーロットの視線が少年に向けられる。アルジャーノンと呼ばれた少年は、礼儀正しく背筋を伸ばし、彼女の言葉を神妙に待った。その身体は、隣の青年と同じ燕尾服を纏っていた。
「あなたはとにかく、周囲といざこざを起こさぬこと。友人を、必ず一人は作ること。特にルームメイトはよく選んで、そして良い関係を築きなさい。長ければ七年、いえ、それ以上の付き合いになるのですからね」
「分かっています、姉さん」
アルジャーノンは、シャーロットを姉と呼んだ。しかしその顔付きはあまりにも似ていない。
すなわちそれは彼の隣に立つ、彼が兄と呼んで然るべき青年とも、似たものではなかった。
髪は、黒。それも不自然なほどの黒だ。髪質は艶やかではなく、水分に乏しい。肌はほとんど陽の光を浴びずに育ったのであろう、と容易に想像がつくほど青白く、目の下には兄より酷いクマを抱えていた。
ただ、その顔付きが秀麗であることに違いはない。言ってしまえば、その目鼻立ちは兄姉よりも人目を惹くほどに整っていた。ぱちりと大きく丸い目と、きゅっと引き結ばれた小さな口。形の良い眉は少し寄せられて、どこか不満気な様子を見せる。
そして、瞳の色は澄み透る青。
それが兄姉と共通する、唯一の部分だった。
「アルジャーノン、あなたも、成績については心配していません。しかし慢心は禁物ですよ。問題があればすぐにお兄様に相談を。それから体調にも気を付けること。……いいですか、学校は小さな社会です。一年生の内に大方のことが決まります。上手くやりなさい」
シャーロットは一つひとつ言い聞かせるように、人差し指を立てながら説教した。それは傍から見れば口煩く感じるものだろうが、アルジャーノンは大人しく頷いた。
「もちろんです。兄さんの不名誉になるようなことは、しません」
声は淡々としている。その眼に迷いはない。
「…………」
この従順に過ぎる弟を、兄は複雑な表情で見ていた。
やがて三人の前に、一台の二頭立て馬車が到着した。彼らの家のように古めかしくも、一目で上等な造りであることが分かる。馬を操って来た若い御者がシルクハットを脱いで、少しの到着の遅れを詫びた。
「さあ、お兄様、アルジャーノン。どうかお元気で」
「冬の休暇には帰る。手紙も出すよ。シャーロット、お前も充分に気を付けて」
「……いってきます」
兄妹はもう一度、名残惜しそうにハグを交わし、弟は無表情に姉の抱擁を受けた。一応はその小さな手を彼女の背に回し、真っ黒な生地を躊躇いがちに掴んでみせて。
弟の精いっぱいの行為にシャーロットは柔らかく笑んで、彼が手を離す前に小さく言葉を落とした。
「アルジャーノン・クリフォード、あなたは特別な子よ。だけどこのクリフォードの子。その信ずるところは自由だけれど、必ずやお兄様を……、オズワルド・クリフォードその人を、守り抜いてみせなさい」
騎士に命を授けるような、しかしたくさんの慈愛が籠もった声音。シャーロットは弟の額にキスをした。愛情を示す些細な動作に、アルジャーノンはぎゅっと目を閉じて応える。
またゆっくりと開かれたその色は、兄姉と同じながらも力強さを増していた。
「はい、姉さん。オズワルド兄さんは、必ず僕が」
決意を確かめ合う二人の隣で、
「……学校に行くだけだぞ、二人とも」
呆れ混じりに、二人の兄である青年――オズワルド・クリフォードは軽く笑った。
二人が馬車に乗り込み、シャーロットは見送りとして深く腰を折る。若い御者は被りなおしたシルクハットをまた軽く持ち上げ、彼女に礼を示した。
馬車はゆっくりと動き出す。石畳を大きな車輪で進む。流れていくのは石造りの街並みだ。すれ違うのは他の馬車。自分の仕事に精を出す、お仕着せを着た使用人。
西暦は二千と数百を過ぎて久しい。
この世界は進み過ぎた。そう唱えた学者の名は、今や記録にさえ残っていない。
ただ彼だか彼女だかの論は、その後何百年という時間の中に大きな変化をもたらした。当時存在していた全ての知識人たちが頭脳を使い、知恵を出し合い、意見を闘わせて至った結論は、是。この世界は確かに進み過ぎていたのである。
進み過ぎたのなら、戻らねば。誰かが言った。それが今日の世界。
正しくは、世界の一部。
各国の大都市がこの先進的な論に傾倒した。もちろん、例外はいくつかあった。時代を急く国々は馬鹿げた話だと一蹴した。しかしそれでも、確かに世界は変わったのだ。ヨーロッパのほとんど全ての大都市がこの大転換に乗ったのだから。
進み過ぎたものを元に戻す。都市から進歩を取り去って、時代の針を巻き戻す。人々が輝かしかったあの頃へ、降り注ぐ栄光を受けたあの頃へ。懐古主義の理想が現実となり、数十年の時をかけて数百年の時を遡る。
「復古都市」――そう呼ばれるものが誕生した。
しかし完全に文明の利を根絶やしにしたわけではない。復古の範囲となった都市から一歩外に出れば、そこには利便を追求する発展した社会が広がっている。高層ビルは地方のものとなったのだ。当然、電気もあればネットもある。人々は進化を重ねた通信機器を携帯するし、より早くより安全になった交通手段を常用する。かつてその中心であった都市を置き去りにして、周辺は重たい足取りながらも時代を進む。
都市と地方の間に、目に見える壁はない。移動は自由だ。選択は各人に任されている。もっと言えば所持品の制限さえ、一部を除いては成されていない。実際、大画面のカラーテレビを設置している復古都市内の家も少なくないし、複雑な電子機器を操る者もいるにはいる。
そうだと言うのに、どの復古都市も溢れんばかりの人口を抱え、それでいてまさに「時代遅れ」な生活を続けているのだ。もう、数百年も。
人間の思考回路は容易に方向づけられる。
つまるところ、復古都市に暮らす人々の誰もが、この奇妙な逆行に疑問を抱かない。
そう広くない車内で座りっぱなしの身体は節々が痛くなる。しかし自動車というものは復古都市内において所持禁止物とされる例外的な利器だから仕方がない。一応、彼らには「特別許可車輛」として動かせるものが一台あるが、今日馬車を使ったことに特別な意味はなかった。
兄弟は向かい合わせに座る。長い脚を持て余して組む兄と、両手を膝の上へ置き、まるで縮こまるように押し黙る弟。二人の間に会話らしい会話は無かった。時折、外の音へ反応して兄の方から呟きが落とされ、弟は小さく相槌を打ったり視線を追いかけるふりをしたりした。兄の口数も少ないものだから、結果として会話は少なくなる。
そうして馬車に揺られること、三時間ほど。
「……漸く、か」
下げられたカーテンを少し捲って確認した外の景色に、オズワルドが呟いた。
復古都市・ロンドンからは外に出たが、ここも時代が巻き戻った街であることに変わりはない。千といない住民が暮らすこの街、いや、村と言っても差し支えの無い緑の地が復古の対象に指定されたのは、偏にここが抱えるとある巨大機関――今は彼らの目的地のためである。
この国では他の追随を許さぬ全寮制の名門校。
十三歳からの入学で、六年制、一部七年制。四つある寮にそれぞれ君臨する〝監督生〟に加えて、「栄光の」と称される三十名の七年生、更にその内から選ばれる〝主監督生〟による自治が学内秩序を維持する決まり。
掲げる旗は自主自律の精神ではなく、強者支配の秩序への追従。多くはこの国の上流社会で生きていくための予行演習と言えるだろう。
学内での序列は、階級と学力。
都市の復古によってより強固となった階級制度は、子どもの社会にも如実に反映される。階級による入学制限は無いが、階級による差別を禁じる校則も無い。
強者主権の社会の縮図。数百年前に既存の錚々たる名門私立校を合併し、新たに王立として設立された、規模も能力も最高峰の超エリート養成機関。
クイーン・ブリタニア校。
――通称で、「クイーンズ」と呼ばれることが多い。
「まずはお前が入る寮に行こう。……理事へはそれから」
「兄さんも寮にいらっしゃるんですか?」
「ああ、アーサーへ挨拶をしに」
オズワルドは確認していた手帳をぱたんと閉じた。胸ポケットに入る分厚さではないので、内へ。
口を開けば、互いに淀みなく言葉を交わす。
全く事務的な口調だったが。
「アーサー・ウィバリー、でしたか」
「そう。今年のフォード寮の監督生。一応、敬称は付けておけ。お前の先輩になる」
「アーサー・ウィバリー様」
言われたとおりに敬称を付けて言い直したアルジャーノンに、浅く頷く。
「そう。それで、俺が入る七年棟には、下級生は入れない。理事が済んだらそこで別れる」
「はい。……七年棟、今日は兄さんお一人ですか?」
「そうだな。だけど七年棟の食堂にはまだコックが入っていないから、夕食はそっちで取るよ」
クイーンズの新入生の入寮は、一般の予定では一週間後からだ。その前に明日から一週間をかけて、新二年生以上の寮生が続々と寮に帰ってくる。そして上級生が全員揃った状態で、初々しい新一年生を迎えるのだ。
つまりオズワルドは一日、アルジャーノンは一週間、一般の生徒よりも早く学校に到着したことになる。
「俺の都合に付き合わせて悪いな。一週間は上級生に囲まれることになる」
「いえ、特に気にしません……」
そう言ったとき、馬車が大きく揺れて、止まった。
「……着いたな」
オズワルドが人差し指でカーテンを少しだけ開け、外の様子を覗く。期待通りの景色が見えたようだ。
立ち上がる前に、大した乱れもない襟元と袖をちょっとした仕草で直す。指の先まで隙の無い動きだった。そして御者が扉を開けるのを待たずに腰を上げ――ようとした。
「兄さん」
「ん、うわっ」
その太腿を上から押されて強制的に座らされる。
驚いて顔を上げるとアルジャーノンが身を乗り出して、左手一本でオズワルドの脚に体重をかけていた。そして空いた右手で扉を押さえている。外から開けられないように。
がちゃん、と音がした後、「あれっ」という御者の声。
アルジャーノンの手は目論見通り、外からの侵入を防いだ。
「……悪い、少しだけ待ってくれ」
驚いたままの表情で、オズワルドから発せられた言葉は外の御者に向けられたものだった。
外からの音はそれで無くなる。雇い主であるオズワルドの命に、あの若い御者は素直に従った。
それで困るのは、そう命じたオズワルドだ。
至近距離で、自分と同じ青い瞳に正面から見据えられる。脚に置かれた手は小さなものだが、有無を言わせぬ力があった。兄さん、と繰り返された声には、十三という歳には相応しくない静けさが。
何事かと目で問う兄の前で、小さな弟は僅かにバツの悪そうな顔をした。
「姉さんもおっしゃっていましたが、どうかご自愛ください。……そろそろ半年になります」
囁くような声なのは、外の御者に聞かれないようにするためだろう。
「忠告ですよ、兄さん。今だって、かなりご無理をなさっているんでしょう」
「…………」
オズワルドはアルジャーノンから視線を逸らさない。
逸らさないが、何とも言えない複雑な顔をして、ただ口を噤んでいた。
秀麗な顔の奥に、彼はアルジャーノンの指摘通り「無理」を抱えている。顔色が変わらないので性質が悪い。平然とした、いつも通りの静けさの中に、彼をよく見知った者だけが分かる不調が潜んでいるのだ。頭か、胸か、腹か。完璧に隠されているが故にその中身については推し量ることさえ出来ないが、それが苦痛と呼べる代物であることは間違いがない。
足を押さえ付けられているから立ち上がれない。しかしその身体は、内からの重さにも苛まれている筈だった。アルジャーノンは間近で彼の双眸を覗き込み、否定の言葉が返されないことと合わせてその見えない不調を確信して、くしゃりと顔を歪めた。
ご自愛を、そう繰り返す。
「どうして僕が念を押すのか、お分かりでしょう。あなたは半年が限界なのです、碌に〝食事〟もせず陽を浴び続け、ご自身の体調も顧みず……。それでは生きられない。どうかご承知ください、あなたは〝半分の半分〟だから、僕とは違う、だけど、それでも」
一瞬の、躊躇いがあった。
オズワルドの表情が、言うな、と告げていた。
アルジャーノンは一度目を瞑り、兄の言外の頼みを拒絶する。
「――僕たちは吸血鬼なのですから」
狭い車内で、その言葉は静寂に溶けた。オズワルドはゆっくりと視線を落とす。
否定もせずに、ただ、耐え忍ぶように。
(…………熱い)
脳裏を過るのは炎。
鼻先を掠めるのは焦げた臭い。
首筋がずきりと痛んだ。得体の知れない焦燥が、身を内側から焼いていた。