0.
いろんな叫び声が聞こえる。あちらこちらで。物が壊れる音もするようだ。たくさんの靴音。苦しそうに咳き込む人。一番うるさいのは、轟と沸き上がる炎。
熱いけれど、焼けるほどじゃない。
煙たいけれど、喉につまるほどじゃない。
……僕にとっては。
ここはどこだ。そう思って、途端に気付く。そうだ、夢だ。
この光景には覚えがある、痛いほど。一年前の夏の夜、僕たちの、いや、僕たちの父様の、屋敷。燃え盛る父様の屋敷の中。
夢だと分かっても頭は回る。あの日を繰り返すように、全く同じに。
僕の頭は狂いそうなほどの焦燥に支配される。
兄さんはどこ。姉さんは昨日からロンドンに出ている。兄さん、兄さん、もうお逃げになっただろうか、それともまだ屋敷の中に。自室にいらっしゃるだろうか、ここからだと少し遠い、炎はどこから、兄さんは無事だろうか。
慌てて部屋を飛び出して、今まで以上の熱気と煙を浴びる。焦げ臭い、目が少し痛い、邪魔だ、こんなもの、どこかへいってしまえ。煙が引いた。兄さんの部屋は南側。行かなくては、早く、早く。
前方に見えた窓の外は、夜だというのに明るかった。炎が夜を照らし上げている。屋敷の全てを呑まんとしている。
廊下の角を曲がった先。緊張が視界の端をぼかしていく。目に入るもの一つひとつを冷静に処理することも出来なくて、ただ本能と執念がなすままに、足を止めた。
兄さんが倒れている。
ここは煙が酷い。炎が、音が、迫ってきている。
「兄さん!」
傍らに膝をついて抱き起こす。息、息が、なんて弱々しい。何度も呼び掛けて、漸く目が開いた。僕が見えますか、しっかりして、兄さん、お願い。
「ぁ……ル…………、逃げ……」
声が掠れている。息を吸って、どうしてできないの、いつも通り、空気を喉に通すだけなのに。逃げる、嫌だ、一人じゃ嫌だ。兄さんがまた目を閉じてしまう。ダメだよ、起きて、逃げなきゃ。
大きな爆発。煙と熱気が纏めてこちらへ向かってくる。来るな、来るな。睨めば煙は消し飛んだ。僕は息苦しくないし、熱くもない。僕は生きられる。だけど兄さんは。兄さんはどうして眠ってしまうの。早く目を開けて、立って、走ってここから離れなきゃ。兄さんと一緒がいいんだ、一緒に生きていくんだ、それなのに。
僕は兄さんの首筋を見た。白く、柔らかな、動かない喉。
一緒に生きていくんだ。
そうだ、一緒に。
一緒にならなくては。
轟音は酷くなる。いつの間にか悲鳴は遠ざかっていた。使用人はみんな外へ逃げただろうか。父様は。屋敷の中に残っているのは僕たちだけか。音がない、気配もない、誰も、誰もここにはいない。誰も僕たちを見ていない。大丈夫、僕は、母さんの言い付けを守れている。でも、だけど、やっぱり、これは、こんなことは。
「……兄さん」
兄さんはもう返事をしてくれない。全身から力を抜いて、僕の腕の中でぐったりしている。どうすればいいの、何が最善なの、躊躇う心が、兄さんの優しい笑顔を想像した。
――ああ、兄さん、オズワルド兄さん、ごめんなさい。あなたの明るい未来を奪ってしまう。だけどこれで一緒、一緒に。あなたは生きられる。
自分勝手な願いに涙が出た。どうか、どうか、兄さんが僕を嫌ってくれますように。そして出来ればもう一度、あなたの笑顔を隣で見たい。
そうして僕はゆっくりと、兄さんの首筋に牙を立てたのです。
◇◇◇
焼ける臭いと、血のにおい。
俺という人間は、その日、死んだ。