睡蓮は恋をする
遠くから聞こえる低く抑えた声に意識が浮き上がる。あまり遮光を考えずに買ったカーテンからは朝の光が透けて、開けなくても今日も晴れていることがわかった。
自分の部屋の自分のベッドはほっかりと暖かく、久し振りの微睡みが気持ちいい……もう一度枕に顔を埋めようと軽く寝返りを打つと、着ている服に違和感を感じた。視線をずらせば通勤用にしているカットソーの袖が目に入る。ジャケットを脱いだだけの服装で横になっているのに気づいて、飛び起きた。
1DKのアパートの、引き戸で仕切られた向こうのキッチンスペースから聞こえる声は……片桐課長だ。ベッド前のローテーブルの上には軽くたたまれた私のストール。おぼろげに、しかし次々と蘇る昨晩の記憶に目眩がしそうだ。
酒のせいではなく痛む頭を抑えながら、そっとベッドから下ろした足はストッキングを履いたままだった。
「……だ、ぐっすりだ。鍵を持って出るわけにもいかなくて」
戸を開けようとして指先を掛けたまま固まる……昨夜はなんだか急に酔いが回って、抱きしめられた暖かさに目を閉じてしまったのだった。
一人反省会をしているうちに課長の電話は終わったようで、向こうは向こうでため息をついている。それはそうだろう、すっかり迷惑をかけてしまった。軽く息を吐いてカラリと戸を引きながら、出来るだけいつも通りの声を出した。
「おはようございます、課長。あの、すみませんでし、た?」
キッチンには小さめの冷蔵庫と食器棚、一人用の丸いテーブル。その一脚だけの椅子に向こうを向いて浅く腰掛けていた課長は、私が起きたのに全く気づいていなかったらしく、かけられた声にビクッと肩を震わせた。慌てて振り返った課長に私の方が驚く。
「っ、葉」
「課長、もしかしてずっと起きてました? っああ、もう、本当にすみません、いろいろご迷惑を……」
いかにも「徹夜しました」という顔色でネクタイを外しただけの姿はなんだかもう、申し訳ないくらい疲れていた。いや多分、化粧も落とさず寝てしまった私だって結構すごい顔してると思うけど。クローゼットの近くに置いてある姿見なんて覗く余裕もなかった。
「いや、実は……少し、横にはなった」
「あ、それなら良かったです。寒くなかったですか? 毛布とか、一応ベッドの下の収納ケースに入ってたんですが、私ちゃんと説明できたかどうかちょっと……」
この状況は本当に予想外。いたたまれなさを取り繕うように、やたらと雄弁になってしまう。矢継ぎ早でまくし立てる自分の声は、そのまま余裕のなさを表していた。
エアコンのリモコンはローテーブルの上に、昨日の出勤前に出した時のまま動かした形跡もなかった。冷え込んだのだろう今朝の部屋の空気はしんと冷えていて……これで風邪でも引かせてしまったら、本当に大迷惑な事この上ない。
フローリングの冷たさが足の裏から伝わって、昨日のあれこれを思い出す頭を少しだけ冷ましてくれた。
「それは……あー、悪いとは思ったんだが、ベッドに……」
あわあわと動いていた手と口がぴたりと止まってしまった。課長は悪い顔色をやや赤らめて、寝室の方を見ながら、葉が離さなくて、と口の中で呟く。
「……覚えてます。と言うか、思い出しました。ごめんなさい」
「あ、いや、謝る事では」
「夢かと思ってました。穴があったら入りたいです」
なんてこと。包まれる暖かさが離れていくのが寂しくて、縋って握りしめた。宥めるように撫でる手に例えようもなく安心して、また眠りに落ちて……こんなに深く眠ったのは何年ぶりだろうか。改めて気づく。
「あの、とりあえず、お茶でも淹れますので……紅茶でいいですか」
熱くなる頬を隠しながらなんとか言葉を絞り出す。気まずげに目を逸らす課長に顔を見られないのは助かった。だって絶対、真っ赤になってる。
寝室のチェストから新しいタオルと、千香ちゃんが突然来た時用に買い置きしている使い捨ての歯ブラシを出して戸惑う手に押し付けると、慌てて背を向けてキッチンの蛇口を捻った。
二人して顔を洗って、ローテーブルにマグカップが置かれる頃には部屋も暖かくなり多少落ち着いた。
エアコンの動く音だけが響くなか、湯気の立つカップを包むように握りしめる。朝日の入るこの部屋で、テーブルの角を挟んで隣同士でお茶を飲んでいることに、言いようもない感覚が湧いてくる。
「……なんか変な感じです」
「何が」
「この部屋に、朝から男の人がいるのって初めてなので。慣れません」
少し緊張した面持ちでこちらを向いた課長は、私のその言葉に明らかに目元を緩ませた。
「中島くんは?」
「なかじま……? ああ、浩太くんは遅くなっても千香ちゃん連れて帰りますから。泊まっていったことはないですね。布団も足りませんし」
そうか、と頷いてカップを置き、そのまま真っ直ぐに視線をよこす。
「いつもは酔っても寝ないって、聞いた」
「さっきの電話、浩太くんですか? そういえば連絡先交換してましたね」
昨夜の店内でのやり取りを思い出す。まあ、こんなすぐに朝方から電話する仲になるとは思わなかったけど、二人とも社交的だから別におかしくはない、かな。
「俺がそばにいてぐっすり眠ってたことは、そういうことだって考えていいんだな」
確かめるように聞かれると、困る。でも課長の視線は誤魔化すことを許してくれなそうで……目線を下げるのが精一杯だった。
「……私。ひどくはないんですけど、ここ数年、不眠症気味で」
「え」
「こんなによく眠れたの、何年振りか」
あの人との別れで、眠ることからも食べることからも遠ざかってしまった。心配した姉に散々連れ出されて食欲は戻ったけれど、眠るのは難しかった。覚えていない夢に飛び起きては、うとうとしたまま倦怠感とともに朝を迎える。浅い眠りでも暮らせるくらいに慣れてしまっていた。それが、どうだろう。
……いつのまに、こんなにも。
下を向いたままの私の目に映り込んだ課長の手が、膝の上のマグカップをごく自然に取り上げた。
「葉、顔を上げて。見なくていいから」
「……か、ちょう?」
片手で私の目を塞ぎ、もう片方の手でそっと顎を持たれ前を向かされる。閉じた瞼に触れる手のひらから伝わる体温に、泣きそうなくらいほっとする……ぎゅっと目を瞑った。
「あいつは、葉の不幸を喜ぶと思うか。葉が好きになった男はそんな奴か?」
相手のことを思って自分から去った女を恨むような奴か。そう聞かれて首を横に振る。そんな人じゃない。どこまでも優しくて、いつも自分は後回しで、絵のことだけは頑固で。だからこそ、離れた。
そうだろうな、と同調する柔らかい課長の声に……ああ、こんな時にようやくあの人の穏やかな笑顔を思い出すなんて。そうだ、いつも微笑んでいた。微笑んでいてくれた、のに。
いつからか記憶には、思いつめたような顔しか残っていなくって。最後の日の、初めて見せた怒りと諦めに歪んだ表情が全てになってしまっていた。
想いが通じる幸せと、望まぬ別れの哀しさを両方分け合った、たったひとりだったのに。
「自分の手で幸せにできなくても、笑っていてほしいと……俺はそう思う。きっと、あいつも同じだ。許せないのはどうにも出来なかった自分だ。葉じゃない」
俺にはわかるよと、静かに言い聞かせるような声が耳から指先にまで響く。目隠しされた瞳に、私を包み込む声が映る。いいのだろうか……また、誰かと一緒にと思っても。
「葉。自分が幸せとか楽しいとか感じることに罪悪感を持つのなら、俺なら逆に怒るね。せっかく別れたのになんで泣いてるんだって。いいとか悪いとか、そんな話じゃないんだ」
その声は何故かあの人の声と重なって聞こえた。怒って、ちょっと困った顔で笑って……消えていった。
泣くなって言われても、溢れる涙は止められない。大きな手をすり抜けて、膝の上で握りしめる私の指にぽたりぽたりと落ちていく。
「言葉にしなくていいから……葉、俺がこうしているのは迷惑か」
そんなわけない、急いで横に振る。
「……俺のことを、少しでも好きだと、思っていいか……?」
何かの決意を秘めた、思い詰めた声は少し掠れていた。私の目を覆う手のひらに力が入ったのがわかる。ああ、もう、これ以上は無理だ。見ないふりは、もう出来ない。
だって、こんなにも。
小さく頷くと、それまでこわばっていた空気がふっと緩まって、
目の前が明るくなって、気付けば腕の中にいた。
よかったと、安堵のため息を滲ませた声が微かに震えて耳元に落ちて、私より少し高い体温とともに波紋のように伝わる。
私の涙が止まるまでどのくらいそうしていただろう。広い胸を指先で軽く押す。ゆっくり離れる温もりに心細くなるけれど、でもこれだけは。まだ目元に残る雫を掬う指は暖かくて自然と笑顔になる。
「……好き、です」
きっと泣いてぐちゃぐちゃの顔をしてる。それでも顔を上げて、目を見て言いたかった。一瞬目を見開いた課ちょ……大樹さんは、次の瞬間見たこともないような笑顔になって、私はまた彼の腕の中に引き戻された。
そっと両手を背中に回せばよりきつく抱きしめられて
髪に、こめかみに、瞼に降る口づけにどうしようもないくらい胸が一杯になる
――柔らかく名前を呼ばれて
そっと重ねられた唇は、笑みの形をしていた。
〈 END 〉
短編から始まったこのお話に、たくさんのリクエストをいただいてここまで書けました。
読んでくださった方、応援してくださった方、本当にありがとうございます!
今、この字を目にしてくださっている全ての方へ心からの感謝をこめて
2017.1.27 小鳩子鈴