side H
片桐課長視点
何となく目を向けた先に彼女を見つけたのは偶然だった。
落ち葉が音を立てて風に遊ぶ帰り道、普段は通らない道を通って駅へと向かっていた。何軒か新しい店ができたはず、と次の誘いの目算を立てながら歩いていると、控えめな看板が目に入る。スペインバルか……スパニッシュオムレツとパエリアくらいしか知らないが。確かアヒージョとかいうのもそうだったか。なんか、オイルっぽいものだったような気がする。そういえば高遠が何か言っていたか。
歩調を緩め、どんなものかと店内を窺う。
大きな窓ガラス越しに見える、カフェとバーを足したようなさほど広くない店内は盛況のようだ。雰囲気も悪くないし、たまにはこういう店もいいかもしれない。それにしても窓際席は背格好といい服装といい、みんな似たような女性ばかりだな。ああ、でもあの一番端の席に向こうを向いて座っている、あの女性はどこか違う……って、それが葉だったときの驚きといったらなかった。
向こうもまさか会うとも思っていなかったのだろう、目をまん丸くしてぽかんとしたその表情までも可愛いと思ってしまう俺はもう、だいぶ葉にやられている。
向かいに座る高遠が船を漕いでいるのを確認すると店内へと向かう。起こして帰らせるにしろ送り届けるにしろ、手はあった方がいいだろう。純粋に手助けのつもりだったのに、葉は思ってもみないことを言う。
彼氏? いないと言っていたじゃないか。「こうた」って誰だ。どこのどいつが葉に名前呼びされてるんだ。俺なんて、何度言ってもすぐ「課長」に戻ってしまうと言うのに。大樹、とその三文字を呼ばせるのにどれだけ苦労していると思って――不思議そうな顔をして俺を見上げる葉をこのまま連れ帰ってしまいたい、そんな抑えられない衝動が一瞬にして湧き上がる。
……早とちりの勘違いだったわけだが。高遠の彼氏か、紛らわしい。あからさまにほっとした俺とにこやかに挨拶を交わす「浩太」には、俺の余裕のなさなどすっかり見透かされたようだ。実際、なりふりなど構っていられないのだが。
しかし、それでも。高遠を通じて交流があるのだろう、気の置けない会話や態度に嫉妬めいたものを感じてしまう。葉の一言が、態度や視線一つが気になって仕方ない。こんないっぱいいっぱいの自分では、彼女が安心して傍にいることはできないんじゃないかと情けなくなる。恋がすべてこういうものなのかどうかは知らないが、葉は確かに俺に初めての想いをくれる。
二人と一緒にタクシーで帰る、と言われなくてよかった。もうすこし、せめて駅までは一緒にいられる。ぱっと見は大丈夫そうだが、一緒に飲んでいた高遠があれだけ酔ったのだから、自分だってそれなりに飲んでるだろう。一人でなんて帰せるわけがない。
急に吹いた風に体を震わすと、葉は肩にかけたストールを胸の前で合わせた。気の早い人はすでにダウンジャケットなんか着ているというのに、持っているのは薄布一枚だけだ。
「そんな薄着で寒くないのか?」
「今日は風が冷たいですねえ。なんとなく、コートは十二月からって決めていて。今、着たら負けな気がするんですよ」
「何と勝負してるんだ……」
笑いながらごまかしているが、寒いのだろう。頬に触れば思った通り冷たくて、無理やりに俺のコートを羽織らせる。すごい勢いで遠慮されたが、譲らない俺に不承不承従った葉は、じゃあ代わりに、とキャメル色のストールを自分から外し、俺の首に巻いた……なんだこれ、柔らかくていい匂いがする。思わず口にしてしまうと、真っ赤になった葉に目を逸らされてしまった。失敗した。
気まずげに前を向く葉と、駅に向かって並んで歩く。普段通らないメイン通りから一本入った小道は人通りも少なく、公園のそばのせいもあって歩道の端には結構な量の落ち葉が積もっていた。
「今年は葉が落ちるのが早くないですか……この通りは特に多いですね」
「今日は風があるからな、一気に散ったんだろう」
「ふふ、いい音」
わざと落ち葉を踏んで歩く葉。少し踊るような足取りは軽く、俺の数歩先に進みカサカサ音を出す姿は無邪気な子どものよう。
「……楽しそうだな」
「欅に銀杏、桜。ああ、これは花水木。この公園は色んな種類のがたくさん植わっていていいですね。嬉しいです」
足先の落ち葉を一枚一枚指差しながら、嬉しいと不思議なことを言う。
「詳しいな、俺はイチョウとモミジくらいしか分からないな。葉は木が好きなのか」
聞くと、落ち葉を踏みながら、サイズの合っていないコートの裾を翻してくるりと振り返った。
「三枝家は、ご先祖さまがどこかのお城の庭師だったとかで、代々、子どもに植物にちなんだ名前をつけるんです。本家は今も造園業を営んでますし、樹は身近なんですよ」
「ああ、『葉』だもんな」
「花の名前はあらかた出尽くして。両親が一文字にこだわったのでこんな名前になりました」
「いい名前じゃないか」
「はい、気に入ってます」
にっこりと、満足そうに。普段ほとんど見せたことのない無防備な笑顔に鼓動が煩く鳴り出す。離れていた三歩ほどの差を詰めれば触れるほどの距離になった。
「課長の……『大樹』さんの名前も植物が入ってますね。ご両親が?」
「ああ、いや、漢字を当てたのは両親だが、名付け親は祖父だ」
「ああ、おじいさま。そういうの、いいですね」
俺の名を口にして柔らかく微笑む葉に気が遠くなりそうだ。まるで思ってもみない一皿がすごく口にあった時のような幸せそうな笑顔が、なんだって今日はこんなに見られるのか。
またくるりと向きを変えた葉は勢いが良すぎたのか軽くふらついて、慌てて抱きとめればすっぽりと腕の中に収まった。女性にしては高い背だが、細い肩に自分との違いをまざまざと感じさせられる。
……しまった。離したくない。自分が着せたコートの硬い布地がものすごく邪魔だ。
「すみません、課長、滑りました」
「大樹」
「かちょ「大樹」……大樹さん、あの、もう大丈夫です」
「……離したくない」
好きで、大好きで仕方ない女が腕の中にいる。葉が少しでも嫌がったらすぐにでも手を離すつもりだったが、されるがままにおとなしく抱かれている……耳元でガラガラと何かが崩れていく音が比喩でなく聞こえた。多分それは理性だったり自制だったり箍だったりするのだろう。
「ふふ……あったかいですね」
ああ、もう。反則だ。こんな時にそんなこと。ここが往来だとか、まだ返事をもらっていないだとか、そんな瑣末なことは俺の頭から綺麗さっぱり抜けていった。
俺の腕の中に葉がいる。これだけが事実だ。
「葉、」
「……ふ、くぁ……」
急にくたりと力が抜けた体がこちらにもたれかかる……もしやと思って見下ろせば、盛大にあくびをしていた。
「……ねむい」
……そりゃないだろうっ。俺の盛大なため息に、きょとんとした顔をゆっくりとあげた。
「もしかして、だいぶ酔っているか?」
「酔っ払っちゃったのは、千香ちゃんでーす」
ああ、うん、これは酔っている。よく見れば目尻の赤く染まった瞳はとろんとしてるし、鞄を持つ手もぷらぷらとしてどうも覚束ない。高遠といい葉といい、酔うと寝るタイプか! この二人で飲みに行くのはもしかしなくても危なくないか。
俺の心配と焦りをよそに、心なしか滑舌が悪くなった葉がぼそぼそと呟く。
「……大樹さんが急にあらわれるから、いけない」
「迷惑だったか?」
え、別に尾行ていたわけじゃない、本当に偶然だったんだ。慌てて聞けばふるふると顔を横に振る。潤んだ瞳も上気した頬も酒のせいだろうけれども、とりあえずその半分隠すように目元に添えた手を引き剥がしたくなる。
「だって、かお見たら、安心しちゃって。今までひとりで、ちゃんとあるけてたの、に」
あああああ、もう、なんだこの可愛いの。普段こんなこと言わないのに、酔ったせいか。一緒に食事する時も運転する俺に遠慮してるのか、たいして飲まないし。
いつもは俺の言葉に戸惑ってばかりの葉に、今夜は反対にすっかりやられている。落ち着け、落ち着け、俺。
「っ、そんな事言ってると、どうなっても知らないぞ」
「平気ですよう、大樹さんはそんなこと、しませんから」
「う」
「信用してるんですよ、これでも」
特大の釘を刺された。
ほんわりと笑う葉が、とつと俺の胸に当てた手を伸ばしゆっくり離れて歩き出す。急に風が吹き込む腕が寒い。また踊る様な足取りで落ち葉を踏みながら歩く背中を、後ろから抱きしめた。
「大樹さん?」
「……好きだ」
葉に羽織らせた自分のコート、俺の首元の葉のストール。混ざり合う匂いに気が狂いそうだ。抱き潰して壊してしまわないように、落ち葉を舞い上げながら吹き抜ける風に顔を埋めた。
しばらくの沈黙の後、回した腕にそっと葉の指先が乗る。
「……もう少しだけ、待ってもらえますか」
顔を上げれば、葉は空を見上げていた。樹の黒い枝の隙間にいくつかの星。そっと緩める腕の中、振りかえった葉と向き合う。酔っている、確かにそうだけれど真っ直ぐに俺に向く眼差しに、妥協や諦めは見えない。その瞳に映る余裕のない自分の顔に驚く。
「葉」
「ごめんなさい、こんなのずるいって分かってるけど、私まだ」
「困らせたいわけじゃない。俺が葉を好きなだけだ」
「……大樹さんも、ずるい」
泣きそうになる肩を抱き寄せれば、そっと身を預けられる。葉の願いならどんな事でも叶えてやりたいけれど、あまり長くは待てそうにない。こんな時は星に願いをかければいいのか。そんなことを思いながら、愛しい人を腕に抱くこのひとときに酔いしれた。
――流れ星がなくても、いつか。