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『睡蓮の恋』の二人への、たくさんのリクエストありがとうございます!
時系列は本編後、おまけの後日談前
程よく混雑した店内は、機嫌よく食べたり飲んだりする人たちでいっぱい。忙しくテーブルの間を行き交うウェイター、生ハムとたくさんのグラスが吊られたカウンター越しに見えるオープンキッチンでキビキビと動く厨房スタッフ。すぐ隣のテーブルにも確かに座っているはずなのに、雑然とした音に紛れて聞こえるのは自分たちの声だけ。こんな空間がなんだか心地よくて、グラスも進みお喋りも弾む。
慌ただしかった一週間の終わり、金曜日の夜。個人的に抱えてた大きめの案件が決着した一課の千香ちゃんに連れられて、会社からも近いこのスペイン・バルに入ってから1時間ちょっと。オススメのタパスのオリーブもアヒージョもイカの揚げたのもオムレツも美味しかったし、店員さんも感じが良くて満足だ。
仕事の愚痴から今年の冬のコート、昨日見た夢の話まで、気心の知れた女友達とのお喋りはジャンルも時系列も縦横無尽。千香ちゃんが、課長とのことを聞いてくるのには参ったけれど、今のところ食事に行っているだけだ。ご不満そうにされても、食事だけだ。いつもちゃんと送ってくれるし、送り狼だってない。ないったらない。
確かに、週の半分くらいは一緒にご飯食べてるけれど、それだけ。毎回さらっと口説かれてるような気もしないでもないけれど、まあ、それは気のせいだろう……ということにしている。
そんなことより、今の状況の方が問題ありだろう。
「千香ちゃん、大丈夫?」
「んん……も、眠いかも……」
乾杯ビールを一気に飲み干した千香ちゃんが次々とワインやらサングリアやらを注文するのを目を丸くして見ていたが、やっぱり止めればよかった。あまりにも普通に機嫌よく飲んでるから、こんなに酔っているとは少しも気づかなかったよ。
「だあって……何だか楽しくってぇ」
「うん、分かる、楽しいね。でも一人で帰れないでしょ、今日うちに泊まろ?」
千香ちゃんは実家暮らしだけれども、今日はご両親は親戚の家に泊まりにいっていて留守だと話していた。弟くんは他県で就職しているし迎えは無理だ。何とか帰ったとしても、このままの千香ちゃんを一人にするのは少し心配、だって、玄関で寝ちゃいそう。タクシー呼んで私のアパートに行くのがいいだろうなと、テーブルに片肘をついたまま半分落ちかけている千香ちゃんを見て、そう決めた。
会計をするのに店員さんを呼ぼうとしたところで、私のスマホが鳴った。カバンから取り出せば、ディスプレイに光る名前に少なからず驚かされる。
『もしもし、葉ちゃん? 俺だけど、今は千香と一緒?』
「浩太くん? どうしたの、今日は出張で泊まりだって聞いてたよ」
浩太くんは千香ちゃんの幼馴染の彼氏だ。千香ちゃんと仲良くなってから、何度も一緒にご飯を食べたりしているので私もよく知っている。学生の頃からとかなり長い付き合いの二人だが、結婚はしていない。実家がご近所で家族ぐるみの付き合いがあり、幼稚園・小中高まで一緒。当然のように両家どころか同級生たちすべてにも公認カップルの二人にとって、婚姻届を出したり披露宴をしたりというのがすでに “今さら” なのだと言う。
「なんか、きっかけがないのよね〜」
さっきもそう千香ちゃんは笑ったが、そういう問題でもないような気もする……まあ、本人たちがいいと言っているのなら私が口を出すことではないけれど。千香ちゃん、美人だし仕事できるしさっぱりしてるし、会社でも人気あるんだよなあ。なんだかんだでお互いラブラブだから浮気しないって信頼してるんだろうけど。こんなに長く一緒にいてずっと仲良いのって、かなり貴重だと思うんだけどな。
『ああ、うん。そうだったんだけど、予想外に早く終わったから帰ってきた。それで千香に何度もかけたけど通じなくってさ、確か今日二人で飲むって言ってたと思って』
「そうなんだ。あのね、一緒にいるんだけど珍しく酔っ払っちゃって、私の家に連れて帰ろうかと思ってた」
『え、マジ? 分かった、迎え行くよ。店どこ?』
ちょうど最寄駅に着いたところだというから、十分もあれば着くだろう。気を取り直して会計をして、浩太くんが来るまでそのまま店内で待たせてもらうことにした。
「千香ちゃん、もうすぐ浩太くんが来るからね」
「へ……浩太ぁ? うぅ、ん、え?」
ぽやんぽやんと返事をする千香ちゃんは半分夢の中。そろそろかなあと窓辺の席から外を眺めれば、ちょうど店の前の通りを歩く人と目が合った……か、片桐課長!? お互い驚いて、課長は私の前の席の千香ちゃんを見て何か納得した顔をすると、くるりと来た道を戻って店のドアを開けた……って、いやいやいや、ええ、来るの? こっち? ちょーっと待って、ついさっきまでのガールズトーク、いやガールズの定義とかそういうのはおいておいて、のメインゲストその1が来ちゃあダメでしょうっ。どんな顔して、ああ、狭い店内がこんな時は恨めしいっ。
「高遠が潰れてるの珍しいな。大丈夫か?」
「酔ってるのに気付かなくて……もうすぐ、彼が迎えに来てくれるので」
突然のイケメンの出現に隣のテーブルの女の子たちも、パエリアのエビの殻を持ったまま課長をガン見している。ああ、そうだよねえ、顔だけでなくその高い背もスタイルの良さも、鑑賞に値するよね。こうやって客観的に見ると、課長が私になんやかんや構ってくるのは、やっぱり間違いなんじゃないかなって思う。
確かに、課長とご飯食べたり話したりするのはすごく楽しい。楽しいだけじゃなくて、心地よいというか、安心するというか……近くに寄られたり、じっと見つめられたりするとと心臓がうるさくなるので距離は必要だけど。
だって、釣り合いってものがあるでしょう。こんな素敵な人。何かの気の迷いに違いない。仕事もできて容姿も良くて性格……は、まあ多少頑固で強引だけど、人の嫌なことをして面白がるような悪趣味なところはないし。
子どもの頃に買ってもらったトミカが捨てられなくて今も大事に持ってたりとか。
付き合った人は沢山いたけれど、自分からした告白は無く、誰も半年以上続かなかったとか。しかも課長に昇進してからは仕事ばっかりでそっち方面はさっぱりだとか。
高い身長が威圧感を持たせることがあるらしく、実はコンプレックスなのだとか。
敵認定すると容赦ないけれど、内に入れた相手はすごく大事にするとかって、あの小料理屋でよく一緒になる課長のお友達が、聞いてもいないのにそれは楽しそうにこっそり教えてくれた。
こんな人。私じゃなくても。
「っ彼?」
「はい、浩太くんが」
「浩太!?」
え、なに。何故にそんな驚いて……あれ、なんか怒ってる?
「あ、ああ、来ましたね。おおい、こっちだよー」
店の入り口でキョロキョロと店内を見回している浩太くんに、課長の影から手を出してひらひらと振ると、すぐに見つけてくれた。ガールズトークのメインゲストその2の彼はさっぱりとしたスーツ姿で、手には脱いだコートとビジネスバッグ、それに小さめのボストンバッグ。サクサクと席の間を縫って歩き、すぐにこちらのテーブルにたどり着いた。
「お帰りなさい、お疲れさま。本当に出張帰りそのままなんだね」
「ほんと、本当。帰れてよかったよ。おお、見事に寝落ちてるな。千香、ちーかー?……って、あれ、こちらさんは?」
ようやく私のそばに立つ課長に気付いた浩太くんは、厳しい眼光の課長に若干怯みつつも笑顔を向けた。大人ですね、その自然な営業スマイル素敵ですよ。課長、何に威嚇しているのかよくわからないけれど、少し見習ったらいかがでしょう。こんな不機嫌顔、珍しいなあ。
「あれ、二人会うの初めてでした? 課長、千香ちゃんの彼氏の浩太くんです。浩太くん、こちらはちょうど通りかかった、千香ちゃんの上司の片桐課長」
「中島浩太です、はじめまして。よくお話は伺っていますよ」
「……え、彼氏…って、高遠の?」
「他に誰が居るんですか」
「千香がお世話になっております」
すっかりテーブルに伏せた千香ちゃんの髪をぽんぽんと優しく撫でながらにっこり笑う浩太くん。急に気が抜けたようになった課長は機嫌よく浩太くんと握手なんかしちゃって。ちょうど呼んだタクシーも着いたし、荷物をまとめるとお店の人にお礼を言って外に出た。
「葉ちゃんも帰るんでしょう、一緒に乗ってく?」
「大丈夫、方向違うし、私は電車で帰るよ。千香ちゃん、またね?」
むにゃむにゃ言う千香ちゃんと浩太くんが乗ったタクシーが去ると、当然だが残されたのは私と課長。ええと、この沈黙をどうしろと。軽く溜め息をついた課長の声が思ったより近くから降って来て地味に驚いた。
「はあ、情けない……葉、帰るのか?」
「食べたし飲んだし、帰りますよ」
「……送る」
歩みを促すように軽く当てられた手に、背中がひくりと震える。社内では苗字で呼ぶくせに、一歩外に出ると名前で呼んでくる。まるで特別なもののように聞こえるその声音に慣れてはいけない……この気持ちを、自覚してはいけない。
私がまた誰かと、なんて、流れ星にだって乗せられない願いだろう。
見上げれば明るい街灯と店の明かりに紛れて、雲ひとつない透明な墨のような空にいくつかの星が瞬く。急に吹きつけてきた冷たい風に慌ててストールの前を合わせると、もつれそうになる足に力を入れた。
中華料理店でも巻いていた、葉の “ちょっといいストール” はロロ・ピアーナ(伊)ではなくフカキ(日)