後
人懐こく話好きの佐々木が原因だろう、三枝の話は瞬く間に広がった。
鼻で笑い全く興味もないような高遠の様子からも、彼女が結婚するという噂の信憑性は低いと思う。だが “急に綺麗になった” 最近の彼女の様子を思えば、完全に否定することもできない。実際、親しげな男性の車に乗って行くところをこの目で見てしまっている。
「高遠さん今日飲みに行きませんか、週末ですしパアッと」
「悪いけど用事があるの。それに佐々木くんが誘いたいのって、私じゃなくて葉でしょう」
ばれてましたか、と悪びれもせずに笑顔で返す佐々木の背中を張り倒してやりたい。画面から目を離さずに高遠は眉毛だけで後輩を睨む。器用だな。
「だって、ねえ。せっかく同じ会社にいるんだから、お近づきになりたいなぁって男どもはいっぱいいますよ」
「葉はね、髪切る前から可愛いの! 今頃のこのこ出てきても遅いっていうの」
「まあ、そう言わず。仕方ないですよ、隣の課なのに三枝さんちっとも外に出なくてほとんど会えないんですから」
そう。彼女は別名 “二課の座敷童” と言われるほどにフロア外に出ることが少ない。さらに、わざわざ用を作って訪れても、大抵は在籍している渡辺課長に遮られて彼女と直接話すことはほとんど不可能だ。あのガードの固さはお前は彼女の父親かと問いたくなる。俺だってここ数年でも会話なんて数えるほどしか……なんだか、急にすごく焦る。
他の男に見せたくない、近付かせたくない。感じるこれは独占欲か。自分のものでもないのに。
高遠にすげなく断られて残念そうにしながら、取引先から直帰する旨を告げて佐々木は出て行った。タン、と弾むようなキーボードの音に視線を送ると高遠と目が合った。
「課長、データ送りましたから承認処理お願いしますね。それで今日の分は終了です」
「わかった、お疲れ」
「課長の方がお疲れの顔してますよ。今日は早めに上がったほうがいいんじゃないですか?」
「……高遠が早く帰りたいんだな」
「上司を差し置いて帰るのは心苦しいので、ぜひに。実を言うと歯医者に行きたいんですよ」
渋い顔で片頬に手を当てて、詰め物が外れたと言う高遠。実際、今日は仕事も落ち着いていて特に残業する予定もない。結果的に退社時間早々に帰ることになった。
珍しい上司の定時退社に浮かれ気味の部下たちに先立って外に出れば、視線の先によく知る後ろ姿。あの画廊の少し向こうで手に持ったカードのようなものを見つめ、ひらりと振ると鞄にしまおうとしている。この前の夜のことも噂のことも頭から消え、気付けば声を掛けていた。
だいぶ強引だったとは思うが、戻り鰹に絆された三枝は結果的に一緒に食事をとることを了承した。三枝のような人間は、付き合っている彼氏がいるなら決して頷くことはないだろう。少し心が軽くなった。
連れて行ったのはいつもの小料理屋。店内は顔見知りばかりだったが、見回して榊山がいないことを確認する。あいつは突然来ないとも限らないが、取り敢えずしばらくの間邪魔は入らないだろう。
美味い料理と少し入った酒のおかげか、三枝は終始機嫌良さそうにしていた。綺麗な箸づかいで次々と完食していく食べっぷりは気持ちが良い。こっちまでいつもの五割り増しくらいで美味く感じる。
今まで付き合ったなかで、こんなに一緒に食事をするのが自然に感じられる相手はいなかった。
女将さんと榊山の義妹がそれとなくこちらを面白そうに見ているのがわかる。だが、そんなのも気にしていたのは最初だけで、俺の視界と意識は全部三枝が持っていった。一口食べるごとに見たこともないような満足そうな笑みを自然にこぼす……しまった、何だこれ、すっごい可愛い。高遠、疑って悪かった。何でこんなに幸せそうに食べるんだ、本当に可愛い。
三枝を見るのに夢中で、食べ終わる段になって会話らしい会話をしていないことに気付いた。少しでも長く引きとめたくて話題を探し、そういえばと話を振れば路上で声を掛けた時に見ていた絵葉書を見せてきた。高校の同級生だと言い、手渡された案内葉書には明日からあの画廊で個展を開くとある……社長が言うところの “一流” か、大したものだ。
略歴によると美大は出ておらず、海外で名のある画家に師事して幾つかの賞をとっているようだ。素直に凄いと思って眺めていたら、三枝は驚くことを口にした。
「ずっと付き合ってたんですけどね、四年前に別れました」
“四年前” その言葉に記憶が蘇る。あの画廊の前、泣いていた晩……そういうことか。
未練はなさそうにからりと話す三枝。でもその口調がかえってまだ何か心に残しているようで、俺はこの会ったこともない葉書の男に苛立ちを覚えた。別れた経緯は知らないが、入社した頃の三枝が他人と距離を取っていたのはこのせいだろう。
ああ、そうだな。こうなって、自分でもはっきり分かる。俺はこの目の前の三枝葉に完全に惚れている。
手元の葉書にある画家の名前を目に焼き付けた。
まるで自分に言い聞かせるように、個展には行かないときっぱり言う三枝……四年も放っておいた男に、今更出番はやらない。社内の噂について聞けば、あの日迎えに来たのは義兄だと、恋人も結婚の予定もないと言う。それなら、全力で捕まえるだけだ。
ただ、どんな絵を描く男があんな風に三枝を泣かせたのか、気になった。
土曜で休日出勤でもないのに俺は会社の近くにいる。あの画廊の前には胡蝶蘭や百合などの清楚で華やかな花がいくつも置かれ、スタッフも一人ドア前に立つという気合の入れよう。そして室内はそれに見合った混み具合だった。肩がぶつかるほどではないが明らかに店側の人数は足りていない。そこここで商談もしており、一見様の俺はおかげで一人ゆっくりと観ることができた。
そう広くないギャラリーの中は別空間だった。飾られた大小の油絵は風景画がほとんどで、どこか東欧あたりの路地や街並みを書いたものが多い。
……絵一枚で、こんなにも違う空気を醸し出せるのか。芸術の善し悪しなどはわからない、しかし迫力というか、何かエネルギーを感じさせるものだった。
絵の脇に添えられた題名のプレートに貼られた小さな丸いシールは売約済みの印だろう、かなりについていた。
奥の方ではちょっとした人だかりが一枚の絵の前に出来ていた。興味を持って覗くと、小ぶりな大きさの絵で人の頭が邪魔してよく見えないがどうやら人物画のようだ。ここまでずっと風景ばかりの画家はどんな人物を描くのか。気になり辛抱強く空くのを待つ俺の耳に、客と販売員の声が届く。
「珍しいね、彼の人物画なんて」
「渡欧してから公には描いていないですね。こちらは奥様にお願いして特別に出して頂いたものです。あいにく販売はできませんが」
「おや、それは残念だ」
なかなかにいい絵だ、手にできないのは惜しい。そう言い後ろ髪を引かれるようにしながら席を移った客の後にするりと入り込み、額ばかりが大きな絵の正面に立つ。
薄衣を軽く纏い、窓辺に立つ後ろ姿の裸婦像。夜明け前のような暗闇の中、そこだけ光が差すように白い背中をこちらに向けて微かに振り返るその姿は、
「……三枝」
息が止まるかと思った。実際少し止まっていただろう。隣に立つ老婦人の感嘆のため息に我に返った。
指先を肩の上にかるく置き、こちらを……きっと画家を見ているのだろう瞳。肖像画や写真のように精緻ではない、誰と分かるように描いてあるわけではない。それでもそれは確かに三枝だった。
今よりも少しあどけない顔。何た言いたげな唇。この絵は、どう見ても。
突然後ろから伸びてきた筋張った腕が絵を壁から外した。
「誰、これ出したの」
柔らかだが憤りを隠しもしない声音で冷たく言い切ると、そのまま絵を隠すように抱える男。長い前髪に半分隠れた眼光は鋭く尖っている。
「っ、先生。これはお早いお越しで……迎えの者は、」
「そんなのいいから。これ、どういうこと」
「お、奥様より許可を、いただきまして」
「……ふうん」
興味なさげに呟くとそのまま事務室とプレートのついたドアの方へと進んで行き、オーナーらしき男性が慌てて後を追った。微かにざわついた店内も、彼らの姿が見えなくなるとじきに元に戻った。
「……話、通してなかったのか」
「完璧怒ってたよな、先生」
奥様の独断か、と小さく囁きあうスタッフ。残りの展示を軽く流して画廊を後にした俺が外に出ると、ちょうど目の前に一台の高級車が停まったところだった。
運転手が開けたドアから降りてきたのは、いかにもな和服の老人とこれまた高級そうな服を着た孫くらいの若い女性。さすが一流どころは客層も違うと横目で見ていると、助手席からもう一人降りてきた。身体に合ったスーツをきっちりと着こなす、幾分白髪の混じったその人がよく知った顔だったことに驚く。
「おや、片桐君か。絵を見にきたのかい?」
「っ、専務。いえ、案内をもらいまして後学のためにと」
「そうだな、話の種にもなるだろう。河野社長も好きだしな」
それだけ言うと軽く目で別れを告げ、専務は同乗者の方へ戻って行く。飛んできた画廊のオーナーの挨拶を軽く流して中へ入っていく一行を目の端に止め、俺はその場を後にした。
「なんで私、課長と二日連続で夕飯ご一緒してるんでしょうね」
少しふくれながらも口角は上がったままだし、その箸は休まない。にこにこと笑うのも食事が美味しいからであって俺に笑いかけているわけではないということくらいはわかる。多少警戒心は解いてくれたようだが、そこまで自惚れてはいない。
まあ、いい。食べ物につられているうちに俺に慣れてくれれば。
俺の告白に、過去の別れの経緯を話す三枝はやはり誠実なのだと思う。画家の恋人、資産家の援助の条件。かちりかちりとピースが埋まる。
三枝の転職、突然の正社員採用にはその資産家が関わっていると考えておかしくないだろう。とすれば専務は内情を知る協力者か、それとも言い方は悪いが見張り役か。そこまでする必要があったのか……きっとあったと、絵を見てきた今なら思える。
あの画家が、本気で三枝を好きだったことはあの絵が何より物語っていた。付き合っているときに描かれたものか、別れてから描いたのか、それは分からない。
だが、展示を引き下げる迷いのない手、守るように抱えた腕。隠していた愛しいものを勝手に晒された怒りを取り繕いもしない瞳。
あいつは、まだ、三枝を好きだよ。
そう言えばどうするだろうか。ここから飛び出して、あの画廊まで走るのだろうか……いや、それは無い。今そう出来るならば、四年前にその手を振り払っていないはずだ。悪者になって、傷つけあって、一人で泣いて。
三枝は、あいつの絵の中に生きる道を選んだ。そしてあいつも、三枝の居場所を絵の中に残した。一生残る毒のように、抜けない棘のように……そういう愛しかたもあるのだろう。心に血を流しながら決めたであろうその選択を否定はしない。ただ、俺には出来そうも無い。
だってそうだろう、好きな人には優しくしたいし隣で笑っていてほしい。それこそ、じいさんたちのように一緒に歳をとっていきたい。そして、ばあちゃんのように手を握って愛してると言って終に別れるまでずっと一緒にいたい。
そして、その相手は三枝が、葉がいい。
「後ろ向きじゃない、もっとお似合いのひと」って何だ。時間はかかっても、一人で前を向いたじゃないか。葉みたいなやつなんか他に知らないよ。
口付ける手のひらに祈りを込める。どうか落ちてきて、この手の中に。大切にするから。
家へと走り去る後ろ姿を見送って車内に戻ると、涙目で真っ赤になって慌てた葉の顔を思い出す。
「……はは、可愛いな」
思わず口に出た自分の声に驚く。ウインドウに映った自分の顔は明らかに惚けていて、たまらなくなってハンドルに顔を埋めた。
じいさん、やばい。ワクワクなんかやっぱりしない。心臓が持ちそうにないほどに脈打っているじゃないか。
ふと時計を見る……時差はマイナス八時間、ちょうどいい頃だ。家に戻ったらじいさんに電話しよう。教えないとな、俺の天使を見つけたって。遅いと笑うだろうか、喜ぶだろうか。
葉のあんな泣き顔は十分だ。美味いものをたくさん食べさせて、もっとずっと笑わせよう。じいさんと三人でテーブルを囲む姿が目に浮かぶ。
俺の育った国、広く高い青空。きっとあの国の空は、葉に似合う。