その後のふたり(旧web拍手SS)
みっちりと中身の詰まった姿はすらりとして、ひんやりとなめらかな白い肌は吸い付くような手触り。洗い水を滴らせる艶やかなそれを両手でそっと横たえた。
この後しなければいけないことは分かっている。でも、こんな綺麗なものに傷をつけるなんて――包丁を手にしたまま、ため息がこぼれた。
「……葉? そんなにお気に召したか、その大根」
「どうしよう、切るのもったいないっ。さすが産直!」
「切らないと鍋に入らないじゃないか」
少し呆れたようにしながらも楽しげに笑う課長、もとい、大樹さん。こちらに向けたその笑顔がなんだかやけに嬉しそうに見えるのは、私の気のせいではない……と思う。
晴れた週末、少し遠出しないかとドライブに誘われた。向かった先は県外のお蕎麦屋さん。地元でとれる蕎麦粉を使い、店主が丁寧に打った蕎麦は香り高く歯応えも良い。奥様の手によるお出汁のきいた蕎麦つゆともぴったりの相性で、非常に美味しかった。蕎麦湯のお代わりまでいただいて満足した帰路、休憩で立ち寄った道の駅が産直併設だったのだ。
郊外の産直って、どうしてあんなに魅力的なんだろう。葉物野菜は緑の色濃く肉厚だし、コロコロとした芋類も、バケツの中でしゃっきり立っている切り花も、ぎゅっと袋に詰められた豆も、みんなキラキラとしている。しかもお安い。
洋服よりバッグより野菜にテンションが上がる自分に、ちょっと如何なものかと思うけれど。これは仕方ないよ、うん。だって食べるのも作るのも好きだもの。
駐車場の隅に停めた移動販売車で若いお兄ちゃんが轢き立てコーヒーを売っていて、それもすごく好みの味だった。持ち帰り用に紙コップにしたのが惜しまれるほど。見晴らしの良い屋外に足湯まで併設されていて、別れを告げるのが非常に惜しい道の駅だった。
そんなところの物産コーナーでひときわ目を引いたのが、この大根。ずっしりと重く、スーパーでは落とされてしまう葉っぱも付いている。しかしご立派すぎる大きさに、さて一人では食べきれないか、実家いや、姉に半分……とか逡巡していたら、うちで作って一緒に夕飯にすればいいじゃないかとあっさり言われた。
「あ、帰ってからじゃ疲れて作る気にならないか?」
「いえ、それはないですけど」
私は運転もせずただ助手席に座って、景色見てお蕎麦食べただけだし。じゃあ決まり、と私の手から大根を奪って、いそいそレジへ向かう大樹さん……何かその楽しげな背中に思わず頬が緩み、慌てて片手で顔を隠した。
そして肉も魚もないというからスーパーにも寄ったら、今度は鰤が呼んでいた。というわけで、大樹さんのマンションの広くお綺麗なキッチンで、絶賛ブリ大根調理中だ。
普段滅多に自炊しないくせに意外と台所に調理器具が揃っているのは、もともとご両親も一緒に住んでいらしたから。少し早めにリタイヤされたご両親は、夢だった北海道で数年前から暮らしている。リビングに飾られた写真立ての中でラベンダー畑をバックに微笑むご夫婦に、春になったら遊びにおいでと朗らかに誘われていて、大樹さんは既にその気らしい。
綺麗な色をした鰤に塩を振って、さっとお湯にくぐらせて。面取りをした大根と一緒にくつくつと煮る。魚に火が通ったところで一度取り出して、大根が柔らかくなるまでまた煮込む。大根に味が染みていい色になった鍋に鰤を戻し、さっと温めたらもう食べごろ。
刻んだ大根の葉っぱはご飯に炊き込んでゴマを散らして菜っ葉飯。お豆腐の味噌汁と、箸休めになますを作ったら大根尽くしになってしまった。作るのは好きだけど、どうも献立は苦手だ。一日二十品目とか聞くけど、あれ、無理でしょう。まあ、栄養は一食じゃなくて数日で取れればいいと思うことにして、合理的と自分を慰める。
大きな伊万里の浅めの鉢にどん、と鰤大根を盛る。上品に小鉢に分けるより、この方が美味しそうに思えてしまうのは、実家がこの『各自で取り分けスタイル』だったからなんだろう。
「あ、課長これ運んでくれま……」
「『課長』?」
あう。やってしまった。
片眉を上げた大樹さんはすっと近寄ると、鰤大根の皿を受け取りそのまま調理台に戻して、代わりに前に出したままだった私の手を握った。反対の手で腰を引かれてグッと距離が近づく。
「はい、今日三回目。今度はどこにする?」
「〜〜っ」
残念そうにしおらしくしているけれど、その瞳を見たら楽しんでいるのが丸わかりだ。急にとろりと甘くなった空気に居たたまれなさが募る。指先を絡めるようにして、私の指に光るリングをそっとなぞる……だから、その表情は、反則。
「ペナルティーは甘んじて受けないとな、葉」
年末に行ったイタリアでもなかなか『課長』呼びが抜けない私は、ひとつ約束をする羽目になった。言い出したのはおじいさまだ。僕のサヨコもそうだったよ、と懐かしそうに愛しそうに言われて、おじいさま直伝の方法を採用されてしまった。
呼び損ねたら、キス一回。同じ日に同じところには出来ない。しかも、するのは……私から。
ええい、もうっ。気をつけていてもどうにも長年の習慣はなかなか抜けなくて。課長、と呼んでしまう度にそれまでは少し不満気にしていた大樹さんが、今じゃ逆に待ち構えている気がする。
「おでこと頬は済んでるから、」
私をその腕に囲ったまま、指先で額をつつき頬を撫でて、
「……ここでもいいけど?」
ゆっくりと親指の腹で下唇をたどる。やたら何かが出てるような雰囲気を纏わせるこの人はぜっっったいに、面白がっているっ。
呼び違えた私が悪いんだけど、それは分かっているけれど、してやられた感でいっぱいだ。
わくわくが聞こえてきそうな笑顔で待ち構える大樹さんに、見当違いの八つ当たりを心の中でして。指先で耳をくすぐりながら頬に置かれた右手を取って逆に握り返した。不思議そうに見下ろす大樹さんのことは気付かないふりで、そのまま引き寄せて形のいい爪先にそっと――ちゅ、と音が出たのは不可抗力だ。
息を呑む声に、唇を指先に残したまま見上げればいつになく赤く染まった顔があって、見事に視線がかち合いこっちまで熱くなる。一瞬腕の力が緩んだ隙にさっと甘い拘束から抜け出すと、皿を手にキッチンを脱出し、必死に心臓を落ち着かせる。
「……冷めちゃいますよ、食べましょう」
後ろでしゃがみこんでいる気配がするけど、知らないんだから。
旧web拍手 完結記念お礼小話(初出2017.1.27)