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睡蓮に恋をする  作者: 小鳩子鈴
本編
1/12

 

 仕事で忙しい両親に代わって子どもの頃を共に過ごした祖父母はとても夫婦仲が良かった。つまらないことでしょっちゅう言い合いはするが、それを楽しんでいることが傍目にも分かるほどで、結局いつの間にか仲直りをしているような二人だった。


『ヒロキにもいつか天使が空から落ちてきてくれるよ。いいかい、見つけたら宝物みたいに大事にして、天国そらに帰りたがらないようにしてあげるんだぞ』


 仕事で訪れた日本で祖母と出会い、恋に落ち、そのままイタリアに連れ帰った祖父。宝物みたいに大事にされた祖母は、まだ学校にも上がる前の孫にそんなことばかりを教え込む祖父を困ったようにしながらも笑って見ていた。

 ただ、残念なことに孫の俺の元に “天使”はさっぱり落ちてくる気配もなかった。


 四分の一だけ残る異国の血は、この日本ではそれだけでも随分目立つものらしい。他よりも少し高い身長と色素の薄い瞳、多少彫りの深い顔。ようやく日本に落ち着いた両親の元に戻り、言葉や習慣にどれほど馴染んでも自分の異質さは人目を引いた。


「また別れたんだ? 悪い子じゃないと思ったけどね」

「……悪い子ではないんだろうな。合わないだけで」


 行きつけの小料理屋で男二人差し向かいで夕食をとる。狭いテーブルに並ぶのは季節の野菜、旬の魚を丁寧に仕上げたものばかりで店内はいつも繁盛している。勤める会社から近いこともあって、この店には足を運ぶことが多い。


「俺はそんなに難しいことを願っているつもりはないんだが」

「正気か。大樹ひろきの顔も血統も気にしない女なんて、そうそうお目にかかれるもんじゃないだろうに」

「血統って、俺は犬か何かか……好き好んでこの顔と体に生まれたわけでもないのに、そこだけ気に入られてもなぁ」

「うわ、贅沢言ってろよ」


 眉間に皺を寄せながらも面白そうに冷酒のグラスを傾ける榊山さかきやまに、恨みがましい目を向ける。俺と同じくらい高い身長と、長年続けている各種武術のおかげで体格こそは人目をひくが、どこからどう見ても純粋なる日本人の顔を持つ友人はこの近所の神社の跡取りだ。

 高校で同じ部活に入ったのをきっかけに始まった付き合いも十五年以上になる。


「お前はいいだろうよ、可愛い奥さんも子どももいるんだし」

「俺の天使はすぐ近くにいたからな」


 祖父の話をよく知っているこいつは、こう言って俺を揶揄いながらカウンターに立つ女将さんの方を見る。この小さいながらも充実した店を切り盛りしているのは、彼の義母と義妹だ。幼馴染の彼女を一度も離さず妻にした、その執着……いや、熱愛は祖父母的に賞賛に値する。

 敵情視察、という名の美味い店リサーチの恩恵にも預かっている身としてはあまり深く考えまい。何より二人の仲は祖父母並みに睦まじいのだから。請われて付き合ってみるものの、結局すぐに駄目になってしまう俺には何とも遠い話だ。

 榊山に促されてグラスを手にする。


「そのうち出会うって。取り敢えずは、課長昇進おめでとう。先を越されて面白くない奴らの歯噛みする顔が見えるようだな」

「おう。面倒くさそうだが、まあ、頑張るさ。暫くは色恋どころじゃないしな」

「はは、いつでも話は聞くぞ。ついでに祝詞も奏上しておいてやる」

「玉串料は友人割引でな」




 あいつの祝詞は効果無い。それとも玉串料をケチった俺が悪いのか。

 新人の部下のちょっとしたミスは、会社の信用問題にまで発展しそうな爆弾を抱えていた。当の新人は泣きそうな顔をしながらもなんとか歯を食いしばって後始末をしているし、動ける奴はみんな走り回ってくれている……傍観を決め込んでいる奴らはムカつくが、これで立ち位置がかえってはっきりした。


「酷い顔色だな、高遠たかとお

「人のこと言えた顔ですか、課長こそ鏡見てます? 先方にまた行くんでしょう、顔洗ってから出てくださいね」


 女性社員で数少ない、俺に全く関心の無い事務方の部下は目の下にべったりと隈を貼り付けていた。何なら給湯室で蒸しタオルでも作るかと俺に勧めてくるが、それが必要なのは確実に自分の方だろう。

 彼女のデスク周りはいつになく荒れ、定時きっちりにさっさと帰社した隣の何も無い机とは大違いだ。事務担当は二名体制だが実質働くのは彼女ひとり、という現状に今更ながら憤りを覚える。


「悪いな……もう一人が使えるやつなら違うんだろうが」

「あのお嬢サマなら、私の精神衛生上もいない方がマシってもんです。後始末が増えるだけですし――こっちの処理は大体目処がつきました。残ってるのは後回しにしておいた分の入力ですから」


 そう言うが、とても今日中に終わる量でないことは一目でわかる。しかも明日の始業までには終わらせなくてはならないタイムリミット付きばかりだ。

 縁故入社で月末には退職が決まっている使えない同僚をさくっと断ずる間も、キーボードの上を走る手は休まない。


「……この前、二課となりに入った子は随分優秀だそうですよ。渡辺課長がホクホクしてました。コネって噂でしたけれどヘッドハンティングの間違いじゃないですかね」


 残念でしたね、使えないお嬢サマに顔で選ばれちゃって。そう言う部下に反論する気力もない。俺にそういうつもりはなく、いっそ迷惑と思っているのを分かっての事だ。結婚相手を物色する為に入社した大口取引先の姪は、所属部署もご指名でやってきた……仕事を覚える気持ちもない新人の教育係はさぞやストレスだったことだろう。


「……戻ったら手伝うし、済んだら皆で美味いもの食べに行こう」

「厚ーい肉をじゅうじゅう焼いたのが食べたいです」



 榊山ゆうじんのリストから二、三店の候補を思い出しながら、泊まり込みを覚悟して帰社した時には、部下の机は綺麗に片付けられていた。なんとなく、残された空気が清々しく感じる。

 俺のデスクに貼られたメモ書きによると仕事は無事に終わったらしい。


「嘘だろう、あの量が……?」


 二課の途中入社の新人が助けてくれたとあった。詳しくは明日、と。自分のPCの承認画面で見ると確かに膨大な量の入力が済んでいる。その多くの処理者欄にある “三枝” の二文字。

 どうしても、その顔は思い浮かばなかった。




「すっごい速いんですよ、しかも正確。それに、可愛い」


 昨日までが嘘のように晴れ晴れとした表情の高遠は、朝から随分ご機嫌だった。


「なんであの子、一課うちじゃないんですか。今からでも引っ張ってきてくださいよ」

「そうは言うが、向こうも人手不足だしなぁ」

「まあ、いいです。お礼の食事会には誘いますからね」

「それは勿論。実際、助かったしな」


 社外に出ることも多い自分と、二課のスペースから一歩も出ないことも珍しくないその新人、三枝さえぐさようとは顔を合わせる機会もないに等しかった。高遠を通して誘った食事会も、大したことはしていないからとやんわり断られたという。ようやくその顔を見ることができたのはあの夜から半月も経ってからだった。

 帰社時間を幾分過ぎて戻った会社のエントランス内で背の高い女性社員が一人、ふわりと立っていた。見覚えのない顔だが、少なくない社員全員の顔を覚えているわけではない。特に勤務中に制服を着ている女性は私服だと雰囲気までも変わる。

 自動ドアを抜けた自分に気付いたが、俺の胸元に下がる社員証で来客ではないことを確認すると軽く会釈をしてそのまま興味なさげに目を逸らした彼女に、何故か気を惹かれた。


 何の変哲もない普通のジャケットにパンツのセットアップ、セミロングをざっくりとまとめた髪。街を歩けば、電車に乗れば、いくらでもいるような格好をしているのにどうしてか目が離せない。

 わざとらしくない程度にゆっくりと通り過ぎようとするところに、社員用階段の上から高遠の明るい声が掛かった。


「葉、ごめんねお待たせっ」

「急がなくていいよ、千香ちゃん」


 “葉” “千香ちゃん”? 社内でその目立つ容姿から僻まれる立場にある高遠が、誰かとこんなに親しく呼び合うのを初めて聞いた。俺に気付いた高遠は近寄りながら話し続ける。


「あ、課長お疲れ様です。早かったですね」

「お疲れ……上がりか?」

「はい。そういえばまだ会ったことありませんでしたか? こちらは例の時に大っっ変お世話になった、二課の三枝葉さんです。葉、こっちがウチの片桐課長」

「あ、初めまして。三枝です」


 高遠に促されてようやくこちらを見上げる。切れ長の目元は涼しげというより、何故か寂しい色をしていたように見えた。


「それじゃ、予約に遅れそうなんで失礼しますねっ。行こう、葉」

「うん。お先に失礼します」


 今日は食べるぞと意気込み、小走りで先を行く高遠に笑いながら腕を引かれていくその顔に、さっき一瞬見えた憂いはなく……俺はただ、二人の出て行ったドアの向こうを見つめていた。


『すっごい可愛い子です』


 高遠は満面の笑みでそう言っていたが、どう見ても平凡な顔立ちだった。背は高く姿勢もいいからスタイルはよく見えたが……女同士の “可愛い” は、よく分からない。感性の違いか。それにいつの間に名前で呼び合うほどに親しくなっていたのか。

 まあとにかく、仕事は出来るが社内で孤立しがちな部下にいい同僚ができたらしいことは、歓迎できるだろう。そのままフロアへと戻った。




 数日後の帰り道。オフィス街から駅までには所々に店舗がある。なんの気はなしに歩いていると前方に知った後ろ姿を見つけた。背の高さ、伸びた背筋、あの夜と同じ服装……三枝だ。歩くのが速いとよく言われる俺はじきに追いつくだろう。そういえば結局なんの礼もしていないことを今更ながらに思い出した。

 食事でも誘うか。食べるのが好きだと高遠も言っていたし、あの店なら味も間違いがない。今日急には無理だろうが話くらいは、そう思って近づこうとした時、三枝は一軒の画廊の前で足を止めた。


 長いことやっているこの画廊は、その世界では割と有名らしい。取引先の社長に絵画好きがいて、そんなことを聞いたことがある。ここで個展を開けたら一流だと。

 綺麗なものは好きだし時間がある時には美術館なんかも行ったが、価値と言われれば全くわからない。定休日の画廊の前で、掛かる絵をじっと見つめる三枝は絵が好きなのだろうか。もうすぐ声をかけられる距離になろうとする時、彼女が静かに涙を流していることに気が付いた。




「今日はどうした、やけに大人しいじゃないか。例のトラブルはすっかりカタがついたんだろう?」

「そっちはな……ああ、わっかんねぇな」

「何が」


 榊山は突き出しの鮪の山かけの小鉢を三つも取って聞いてきた。勝手知ったるといえどもあまり自由に振舞うとまた義妹から追い出されるぞ。カウンターの端っこに椅子を引き寄せて座った義兄を案の定、義妹は軽く睨んでいる。こいつらも幼馴染だけあって本当の兄妹のように仲が良い。


 結局、あの後何もなかったかのように歩き出した三枝に声をかけることも躊躇われ、そのまま駅へ向かう後ろ姿を見送った。次の日、わざわざ用件を作って二課に行ったがPCの向こうにちらりと見える三枝は全く変わったところが無く、高遠にそれとなく聞いても何も分からなかった。

 あれから一週間、時折見かける三枝は仕事ぶりも何も変わりがない。それならそれでいいと思うのに、なんでこんなにモヤモヤしてるのか。どうしてあの顔が忘れられないのか。会社での姿が無理をしているように見えるのは気のせいか。


 聞かれるままにそんな事をとりとめも無く話していたら、目の前の男は面白そうに口元を歪めた。


「お前、しっかり惚れてるじゃないか」

「は?」

「よかったなあ、天使が落ちてきてくれて」


 背中をバシバシと叩かれ、カウンターの向こうからは彼の義妹までが愉快そうに揶揄ってくる。


「片桐さん、ようやく初恋ですか? 拗らせそうですねぇ」

「三十も超えて遅い目覚めだな。しかも自覚が全くないときている」

「おい、何言ってる」

「彼女はいても、お前から申し込んだことは一度もなかったもんな。ちっとも続かないし。もしや男のほうが好きなのかと少し心配していたぞ」


 本気で嫌そうな顔をしていたのだろう、冗談だと笑って酒を注いできた。天使? 初恋? 俺が、三枝を?


『見つければ分かるよ。ヒロキの心は嘘をつかないから』


 ……じいさん。恋は、楽しくてワクワクするって言っていなかったか? とんだ嘘つきだな。


「でも、その彼女の方も訳ありっぽいですね。まずは様子見ってとこでしょうか」

「そうだな。まあ彼女、転職してきてまだそんなに経ってないんだろ。もう少し会社に慣れるまで待ってみたらどうだ?」


 二人の言葉に従ったわけではないが、結果としてそれから進展は無く長過ぎる数年が過ぎた。俺自身が仕事中心でプライベートまで気が回らなかったこともあるし、三枝はどうも他人と距離を置いているようだった。社交的でないとまでは言わないが、自分から進んで噂話などに入っていくことも無く、高遠の他には特に仲の良い相手もいない。

 本来二名が必要なはずの事務方の席は、彼女の手腕のおかげで孤軍奮闘させられている。文句の一つも言っていいはずなのに、そんな扱いにも不満はないようだ。


「やる事があるのは嬉しいって、本人はそう言ってますけれどね。いい加減誰か補充しないと葉が辞めた時に大変ですよ」

「っ、辞めるのか?」

「そうなった時に困る、っていう話です。渡辺課長によく言っておいてくださいね。それでなかったらいい加減、一課うちに下さいって」


 それは何度も上申している。そしてその度に却下されている。確かに、三枝は産休に入る社員の代わりだった。しかしうちの会社の慣例に従うと、本来ならばまず社内から人員を回すはずで、いくら経験者とはいえ突然中途で採用されることは少ない。しかも正社員。このため、入社当初は縁故採用が噂されたのだが、全く血縁関係者がいないことや、彼女の仕事ぶりなどから根拠の浅い思い込みと払拭されていた。たまたま、気が向いて採用したのが思わぬ拾い物だったのだろうと。

 それでも、時たま二課を訪れる専務の姿を見るようになったのは三枝が来てからだ。何かはあるのだと思ってしまう。


 慌ただしい毎日に追われているうちに日々はあっという間に過ぎていく。そういえばどうなったと榊山に聞かれることも随分減った。

 会社で顔を見ると胸がざわつく。だが会わない日が続くとやるせなくなってくる。不可思議な心を抱えながらも、変わらない毎日と変わらない三枝に妙な安心を覚えていた、そんな日のことだった。


 ……髪が。髪型が変わっている。ひとつに纏めてばかりいた髪をばっさりと切った三枝。艶やかで柔らかそうなストレートの黒髪はそれだけで、何故か今までと印象が違う。顔が変わったわけではないのに、確かにあった他人を寄せ付けない膜が少し薄くなった気がする。

 高遠と一緒にいる本人は注目を浴びているのは隣の友人だと信じて疑わない様だったがそんな事はない。その証拠に同じフロアの男性社員の在社時間が微妙に長くなっている。お前らさっさと顧客まわりに行け。


 憤る資格なんてないのはわかっている、そもそも俺だって「隣の課の課長」っていうだけだ。でも、どうして。何かあったのか……何が。誰が。

 なんとも言えない気分でいる自分がよく分からない。部下を連れて戻った会社の前に佇む三枝を見つけた時、周りは音を失くした。


 夕闇の中淡く浮かび上がる白いブラウス、風にふわりとたなびくスカート……どうしてか、睡蓮の花のようだと思った。突然に変わっていく三枝に動揺を隠しきれない。手首に光るブレスレットを見つめる柔らかい笑顔に、隣の佐々木が小さく息を飲んだのが分かった。

 話しかけると慌てた様子で返してくる。


「あ、あの、人を待っていまして」


 人? 誰を待つと言うのか、そんな服装で。そんな表情かおで。どうしてそこで待たれるのが自分ではないのか。髪を押さえる手をどけて、その顔を見ていたい。その手をとってこのまま連れて行きたい。この気持ちは何だ。



「デートですかね。それにしても……三枝さんってあんなに綺麗だったんですね」


 ……名前を呼ばれ、名前を呼び、心底ほっとした表情の彼女を乗せて走り去る銀色の車。惚けたように呟く佐々木の声が耳に残った。




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