02
ひやりと冷気を伝える石の床、薄暗さの中に規則的に配置された燭台と白い装束の人影たち
彼の置かれた状況は、今まさに呪術的な何かがあったばかりのような
どう考えても望まない非日常へと足を踏み入れてしまったとしか思えない、全く持って歓迎できない状況でございました
周囲を囲む人々の纏う白い装束には金や銀の糸で何かの偶像のような趣向を凝らした刺繍が施されており、彼の眼には何かの聖職者のように見え、そしてその見解は間違いではなかったのでございます
『…どういうことじゃ……明らかに事前に確認しておいた容姿と異なっておる』
『そなた、アマノリュウセイではないのか?』
「え? な、なに、何て言ってんだ??」
『…言葉が通じておらぬぞ、召喚陣に組み込んだ加護が付与されておらぬ』
双方を混乱が襲ったその時でございました
『きゃんきゃん!(言葉ならぼくが通じるよ!)』
『む? この声は一体どこから』
「え? 何だいまの…犬の吠え声にだぶるように子供の声が…」
『きゃんきゃんきゃん!(お父ちゃんぼくっぼくだよ! 正宗だよ!)』
「…おとうちゃ……え?! お、お前なのか正宗!!」
声の主はがたがたと音を立てる腕の中のキャリーケースの中から呼びかけているようでございました
それは勇人青年が家族に迎える為にキャリーケースの中で彼と一緒に電車を待っていた可愛らしい柴犬の仔でありました
勇人青年が慌ててケースの中から幼獣を出すと、おお、と周囲から動揺するかのような声があがります
『これは…あの犬が話しているのか?』
『…どうもそのようじゃな』
『そなた、我らの言葉が分かるのじゃな?』
『きゃんきゃん!(分かるよっ ぼくちゃんとわかるよ!)』
「ど、どうした、なにが分かるんだ」
幼獣が言葉を話すという異常事態に気付く心の余裕も無くうろたえる勇人青年を置き去りに、白装束の人々と幼獣正宗の言葉は途切れることなく交わされ続けました
『そなたの飼い主…あぁ、いや、父君…か? そなたの父君に我らの言葉を伝えてもらいたいのだが、頼めるだろうか?』
『きゃうんわん!(いいよっ なんて言えばいいの?)』
『うむ、では"そなたはアマノリュウセイ"ではないのか、と訪ねてくれるか』
『きゃんきゃんっ(わかった!、ねぇねぇお父ちゃんっお父ちゃんはアマノリュウセイじゃないのか、ってこの人たちが聞いてるよ)』
「アマノリュウセイ? いや、俺はそんな名前じゃないけど…」
『きゃんわおうっ!(違うって!)』
「…なぁ、もしかして、その、アマノリュウセイ…って奴がここへ来る筈だった…とか?」
この時、勇人青年は"血の気が引く"という感覚を身を持って経験したのでございましょう
青ざめたその顔は、青いというよりは寧ろ白く、白装束の人々の憐憫の眼差しは、彼の精神をより追い詰めるものでしかありませんでした
嗚呼、なんと憐れな青年でございましょう!
普通より鈍ければ、この顛末を察することもなく、その心はより緩慢に事実を受け入れることも可能であったに違いございません
けれども彼は人並みに状況を察する能力があり、楽天的というわけでもなく、どちらかといえば堅実で日本人の典型ともいえる気質の彼は"招かれざる客"という自身の立場を明確に察してしまったのでございます
『その顔色では察してしまったようだな、そなたの想像通り本来であれば此処にはそなたではなく別の者が呼ばれる筈であった』
『すぐに送り帰してやりたいが、今すぐというのは無理なのだ』
『そなたが落ち着いたら、この召喚のそもそもの理由と今すぐ還してやれぬわけを教えよう』
『きゃうっわんわん!(お父ちゃんげんきだして!いますぐはむりだけど帰れるって!! お父ちゃんが落ち着いたらちゃんと話してくれるって!)』
「あぁ…ありがとな、大丈夫だ、続きを話してくれるように言ってくれるか?」
勇人青年に促された幼獣の通訳で双方に自己紹介を含め得ることのできた情報は、彼にとって悪いものではなく、けれどもだからと言ってけして良いものでもございませんでした
彼らの言葉によれば、この地"セラスヴァージュ"はその果ても見えぬほどに広大な世界の大陸の一つであるとのことでございます
『他の大陸については詳しいことは分からぬが、この地セラスヴァージュでは"澱み"の集まる箇所が幾つか存在し、そのままそれを放置すれば魔物の進化を促すのだ』
魔性の性を保ったまま進化した魔物はやがて一箇所に集まり共喰いを始めるのだそうでございます
まるで勇人青年の故郷に伝わる蠱毒のように、最も強い者が屠った死屍を取り込み更なる進化を遂げ、遂には魔物の王と成り果てるのだと…
「…じゃあ、それを倒すためにアマノリュウセイを?」
あの駅のホームで彼が意図せず押し退けてしまった人物、恐らく本来呼ばれていたであろう青年を思い浮かべ、勇人青年は青褪めました
招かれざる者である自分は、望まれた存在である彼に比べ恐らく何一つ特出した能力を持っていないことを、考えるまでもなく勇人青年は理解していたのでございましょう
図らずも彼らの希望の芽を摘み取ってしまったと察してしまったその身は、氷の塊りを幾つも飲み込んで腹の底が重く冷えていくかのようでございました
けれども、彼の不安は的中することはありませんでした
『魔物を倒すことは彼の役目ではない』
『魔王を倒すこともまた役目ではない、果たすべき役目は巫女が負っておる』
「みこ…?」
火、水、風、土を司る代々の巫女の方々の御力によって澱みの集いし地を聖なる楔で戒め、集約するそれらを浄化拡散する、というのが彼らの言う巫女の方々の役目でございました