連鎖
クラスカーストって言葉が冗談じゃないと思ったのは、高校に入学して一週間経った時のことだった。気がつけば、イケているグループと見下されているグループが見事に出来上がっていた。
不思議なことに、チョークで線でも引かれているかのように明確な領域が出来上がっている。簡単に踏み越えれそうな癖して、無意識のうちに体の制約を受けて近づくことすら難しい心の壁がある。
鈍感な俺ですら解っていたのだから、繊細な人間は初日に境界線を察知していたに違いない。この不可思議な教室の中を分断する領域を。若しくは蠢動していたのだろう。一生懸命、線を引くことに労力を費やしていたのだろう。
例えば、板野。右隣の席に座っている可愛い系の女子だ。絶やさない笑顔と
「あの子、変えること出来ないかな」
の板野が見据えていたのは、Kだった。教壇の前にカバのようなずんどりした体格を晒している女子だ。
「時々、ブツブツと呟いてるんだアイツ」
板野が俺を試すかのように話しかけてくる。クラスの中で特別に美人とか可愛いとか言うわけでも無い板野だが、一週間でイケてるグループ女子のトップとして仕切っている。誰にでも話しかけられる気さくさを醸し出す笑顔と観察眼の鋭さを武器としている彼女は、同じ中学校出身である俺の好感度向上を狙いながらKの使い道でも考えているのだ。
「板野さんが気にするほどのことじゃないんじゃない?」
「でもさ、クラスメイトとして雰囲気良くしたいじゃない?」
一瞬で俺の提案は否定される。板野の本質を知らなければ、いい人に聞こえそうな発言だ。だが、本当は違う。彼女の言う雰囲気良くとは、自分が心地良くなることを言う。女子からの尊敬と忠誠心。男子からの熱愛。本心ではそんなものが欲しいだけだ。
そのために、粗大ごみの冷蔵庫のような存在であるKを引き立て役として使用するか、グループの統率と忠誠のための生贄の山羊とするのか、それとも犠牲者を助けるヒロインを演じる道具とするのか、算段しているに違いない。
「彼女、一人の方がいいんだよきっと」
「まさか、そんなことあるはずないじゃん。可哀想だよ。だってさ、昨日、ちょっと横を通るときチラ見したら、変な本を読んでたんだよ。呪いの本みたいなやつ。三角とか丸とかが書かれているやつ。多分、寂しいから怪しい本を読んで気を惹こうとしてるじゃない?」
「だったらさ、自分のグループに誘ってやればいいじゃん」
「あ、そうか。そうだよね」
板野の返答に驚くが、表情を変化させないように腹に力を入れる。板野がKのことを自分のグループに誘うことなどありえないと思っていた。想定範囲にこの反応は無かったのだ。
すぐに訂正すべきだと思った。板野の考えていることは不明だが、楽しいことにならないはず。自分への忠誠心を確認するための踏み絵にでもする気なのだ。
まるで、ギャングだ。組織への忠誠を確認するために、無意味に人殺しをさせるようなギャング。言い逃れのない状況を作り出して組織の手駒とする。やっていることの違いはあれ、思想的に差などない。人を精神支配下に置くために動かされる駒だ。
だが、そのことを理解しながらも沈黙を保った。板野のことはよく知っている。中学時代に余計な口を挟んだために、クラスの女子どもから吊し上げられ、挙句の果てに助けたはずの女生徒からも罵倒され登校拒否になった学級委員長のことを思い出したのだ。
誰だって犠牲者などにはなりたくない。目の前に置かれている貧乏くじをわざわざ掴む必然性は無い。そんなものは、運の悪い人間に掴ませておけ。自分自身で不幸から逃れられないのは、力の無いものの宿命なのだ。
嘆息しながらKの後姿を睨み付ける。命を懸けて護りたいなどとは到底思えない容姿に、仕方がないことだと心の中で言い訳をする。
トボトボと歩いている犬が、暴走車に轢かれるかもしれないと察知したとしても、自らを危険にさらして助けようと考えないのと同じだ。出来れば事故なんか起きないでくれ、最悪でも死体が目の間に転がって来ないでくれ。そう自分勝手に祈るだけだ。
「自分さえ良ければいいの?」
しゃがれた声が俺の頭蓋骨で反響した。冷たい氷を首筋に押し付けられたかのように体中がひんやりとする。反射的に周囲を見回すが、俺の動きに反応した板野が胡散臭そうに眼を細めただけで、誰も不自然な態度は見られない。
首を捻りながら視線をKに戻す。全身の鳥肌が収まっていくのを感じていると、Kと眼が合った。
俺より前方の席に座りながら、体は前を向いているはずなのに、視線が交差した。首が九十度、いや、百八十度は回っている。暗殺者が素手で人を殺す技術と同じだ。漫画のキャラクターなら笑える構図も、本物の人間の首が回れば違和感による恐怖しか残らない。
先ほどより強い悪寒に襲われて、椅子を背後に転倒させそうになる。後ろの席の女子生徒の文句に、軽口を叩きながら謝りつつも、全身の身震いを隠そうとすることで精一杯だ。
Kが狼狽する俺を見てニヤリと嗤った。髭のない七福神の恵比寿のような表情で、心の中を見透かしたかのように口元を吊り上げていく。
耐えられない。
Kの顔を直視できない。出来たとしても、このままではおかしくなりそうだ。腹に力を入れて強い意志で視線をずらし、机の模様をなぞることに集中する。
「どうしたの?」
板野の声に我を取り戻す。
いつの間にか、担任が来ていた。首が百八十度回ったKは存在しなかった。ただ、昨日と同じような日常が始まっただけであった。
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ハンティングに似ていると思った。
根拠なんか何もない。ただ、板野の姿は狙った獲物を仕留めていくハンターと重なった。彼女が人を狩る理由など何もない。強い存在が、弱い存在に力を知らしめる、自己誇示。それ以外の目的などどこにある。
「まずいんじゃないの?」
俺が呟くように言うと、板野が聞き咎める。
「何が?」
「いや、Kが、さ」
「何? Kの味方をするの?」
「いや、そんな気、全くないけど、ほら、自殺とかされたら大騒ぎになるだろ」
「確かにね、そんなことになったら苛めてた人は大変だよね」
よくそんなこと言う。口が滑りそうになった。だが、それは禁句だ。板野はあくまでも傍観者。クラスで一番男子からの人気がある河合という女の子が苛めたことになっている。どう転んでも損はしない。本当の黒幕は、掴もうとしたら逃げてしまう陽炎のような存在だ。
「でもさ、多分、大丈夫だよ。だって、Kって、打たれ強そうだったじゃん。多少の苛めとかあったとしても気にしてないよ。きっと」
軽く言うが実情と違う。初めのうちは気にしていなかったようだし、毅然とした態度をとっていたKだったが、一週間もすると言葉を発しなくなり、次の週には授業中に奇声を上げるようになり、先週には呪いのような言葉をクラスメイトに見境なく投げかけ、今週は学校に来なくなった。好意など鼻糞ほどにもないが、Kに悪いところがないと知っているだけに胸糞が悪い。
「なに、落ち込んだ顔してんのよ。Kは高校向きの体質じゃなかった。それだけのことじゃない。だってさ、人を呪うようなことばっか言ってたじゃん。あれじゃ、時間の問題だったと思うよ」
「板野の言ってることも理解できなくもないけど、あの呪言みたいなのがさ、気になってさ」
「なになに?」
板野は俺の顔を覗き込んでくる。
「まさか、呪いとか霊とか信じちゃうタイプ?」
「いや、そんなんじゃないけど、気味が悪いじゃん。ほら、河合さんだって、昨日から凄く表情が暗いじゃん」
「ちょっと、罪悪感があるのかもね。ちょっとやりすぎちゃったみたいな」
よく言う。やらせたのは、板野本人だ。クラスで人気があった河合の評価が下がった分、自分の評価が相対的に上昇したと計算しているに違いない。この数値変化で自分がトップに立ったとの自覚があるのか、いつもより朗らかに笑っている。
それにしても、河合の表情は暗い。昼休み中、ずっと机に向かって俯いていた。食事もほとんどしていなかったようだ。午後の授業が開始するからと席に戻る前から、大きな目を首根っこを掴まれて息苦しいかのように細めている。さらさらとした茶色かかった綺麗なセミロングの髪が、昨日からやけに乱れている。時々、不意に呼吸を荒げたかと思うと、机の中から取り出した手鏡で自分の表情を確認する。
「あーあ、ダメかもね」
板野の呟きを聞き逃さない。いつものような笑みを浮かべて河合のことを見つめる板野は、クラスの管理人だ。
「何とかできないのかな」
「さあ、部外者が余計なこと……」
板野が言い終える前に河合が立ち上がる。俺たちのことをキッと睨み付けると、机の中から掌サイズの手鏡を取り出してから、ゆっくりと近づいてくる。
「あのさ、板野、話があるんだけど」
「何?」
「ちょっとここまずいから来てもらっていい?」
「えー、もうすぐ授業始まるよ」
「板野っ!」
河合が声を荒げると、騒々しさをまとっていたクラスが瞬時に沈黙する。再び、静けさが失われるまで板野は待ってから、やれやれと言わんばかりに両手を広げる。
「わかったわかった。ちょっと落ちつきなよ」
「落ちついてなんかられないって。いいから来て」
板野は立ち上がると今度は俺に視線を向けてくる。
「一緒でもいいかな」
「元からそのつもりだよ」
俺の意思など確認されない。河合は解っているとばかりに告げると、教室の出口に向かって歩き出す。
本来ならば、無関係のはず。傍観者を決め込もうと思っていた俺だが、二人に促されれば無視をすることはできない。内心、渋々と立ち上がり、二人の後ろをついていくことにした。
先頭を歩いていた河合が階段の踊り場に座り、溜息をつく。
「で、どうしたの? かわちゃん」
「あのさ、」
河合が前髪を右手で上げておでこを見せる。
「えっ、何? って、何それ」
板野が笑い出す。さすがに大声で笑うわけにもいかないのか忍び笑いだが、両手で腹を抱えながら額が膝のスカートにくっつくかと言わんばかりに体を折れ曲がらせている。
あまりの反応に、板野と河合を見比べてみるのだが、意味が解らない。河合の表情は暗いものの笑い飛ばすようなことはない。板野の行動が意味不明だ。
俺は困惑の表情を河合に向けると、今度は河合も笑い出す。声を引き攣らせながら、泣くかのように笑う。
「おい、一体どうしたってんだよ」
居心地が悪くなった俺は、板野の肩を揺さぶる。場違いを感じて教室に戻りたくなる。
「だってさ、あんなに真剣な話があるって感じだったくせして、額に文字とか書いてるんだもん。ネットで見る額に肉ってネタみたいなやつ。笑うしかないっしょ」
「別に、ギャグじゃないんだけど」
「だったらさ、余計に面白いじゃん」
「良かった」
挑発的な態度を見せる板野に対して、河合は今までのことがなかったかのように素の表情になる。
「なにが?」
「見えたんでしょ?」
「何が?」
「私の額の文字」
「そりゃ、当然じゃ……」
板野は口ごもった。親指を口元に近づけて軽く爪の先を噛む。何かを問うように視線で俺に訴えてくる。
「ねえ、見えた?」
河合が話しかけてくる。だが、俺には額の文字とやらは見えない。何が書かれているかなど理解できない。
だから、小さく首を振る。二人の話し合いがバカバカしい冗談にしか見えないことを無言で伝える。
「もしかして、二人でからかってるわけ? 何、もしかして、私が知らないうちにそんな関係になっていたの? あんたたち」
毒気を含んでいるが、あえて気づかない振りをする。ゆっくりと息を吸い込んでから、
「ついて来いって言ったのは板野じゃんか。冗談を言われているのだとしたら俺のほうだ。二人の茶番劇に付き合わされているならな」
「だったらさ、かわちゃんのこの額の文字は何て読むのよ……」
「い、ち、」
「大字って書き方の壱って漢字。覚えておいたら? って、その必要はないけど」
「何それ」
「だって、ともの額にも文字が浮かび上がってるもん。参って数字がね」
「さん?」
「そう。多分、あと三日で殺されるってこと」
「殺される? 誰に?」
「そんなのKに決まってんじゃん。だからあたしは反対したんだ。だって、Kなんかと関わったって良いことないってわかってたもん。あたしはあんな奴のこと相手にする必要なかったんだから」
「ちょっと、落ちつきなよ」
「落ちつけるわけないじゃん。死んじゃうんだよ。あたし、今日、死んじゃうんだよ? 板野だって、自分の額の文字を見てみなよ。ちょっとはわかるから」
河合が板野に手鏡を突きつけると、板野は顔をそむける。それでも無理やりグイグイと圧力を加えられると、板野は珍しく笑顔を消して口元を結ぶ。あまり見せない不貞腐れた表情を見せながら、片手で前髪をかきあげる。
「何もないじゃん。冗談キツイって」
板野が大きく息を吸い込んでから自分の胸を撫でる。
「そもそも、Kが死んだなんて考えすぎじゃない? ちょっとやりすぎた感じはあったけど、死ぬほどのことじゃないじゃん。明日あたり、ケロッとして来るかもしれないし。そうじゃなくても、今頃、どこの学校に転校すればいいのか考えてるだけかもよ。それにさ、そんなに気になるなら、電話してみればいいじゃん。今、何してんの? って」
板野が捲し立てるように言うと、河合はクスクス嗤い始める。徐々に嗤い声は大きくなり、最後には叫び声をあげるがごとく嗤う。
すると、さすがの板野も気分を害したのか、河合の首襟を掴み。無言で圧力をかける。それでも嗤い続けている河合を突き放すかのように押す。無造作に見えて力が入っていたのか、河合はひんやりとしたリノリウムの床に倒れこむ。
「いい加減にしなよ」
板野が言うと、
「殺してもいいよ」
とゾッとする声で応える。
「今まで、板野、あんたがいたぶってきた人間と同じようなやり方で私を殺してみたら? どうせ、今日一日の命だし、失うものなんて何もないし」
河合は焦点の合ってない目で板野に詰め寄ると、板野の両肩を掴む。
「い、痛いって。ちょ、ちょっとかわちゃん。落ちつきなって。さっきは、悪かった。私が全部悪かった。だから、さ、落ちつこうよ。考えすぎちゃってるんだよ。Kのこと。全然悪くないって。かわちゃんは何もしてない。問題になるようなことなんかない。だから、さ、死ぬとか死なないとか、殺すとか殺されるとか、そんな物騒な話は忘れちゃって、ね。そ、そう、深呼吸がいいよ。大きく息を吸って……」
「バカ板野。あんたがいたからこんなことにっ!」
河合が板野を押し倒す。呪われたゾンビのようにあからさまな殺意を見せて板野の首を絞める。あからさまに様子がおかしい。このまま放っておけば、間違いなく板野は殺されてしまう。
さすがにこの状況を無視することなどできない。
俺は反射的に手を伸ばす。河合の両手を外そうとする。しかし、女子のものとは思えないような強い力で板野の首を絞めている。細い腕でどうしてこれほどの力が出るのかと訝しがりながら指先から剥がそうとする。でも、第一関節しか動かない。尋常ではないパワーで板野の息の根を止めようとしている。
「ごめん!」
躊躇している余裕などない。俺は河合に謝ってから本気の力で脇腹を殴る。
こんなことしたくない。だが、目の前で同級生が殺すのも殺されるのもまっぴらごめんだ。取り返しのつかないことになる前に、あばら骨の一本を折ってでも阻止する必要がある。
「無駄なこと止めなさい」
しゃがれた声がした。
以前に聞いたことがある。背筋を凍らせるような声。反射的に身を引きそうになる。逃げ出したい気持ちを抑えつけて、口から泡を吹いている板野を助けにかかる。
全く動揺を見せない河合のこめかみを渾身の力で殴る。すると、さすがに体重差の効果が出たのか、河合は首を絞めながらも床に倒れこむ。
「河合さん。自分で何をしてるかわかってる?」
俺は呼吸を整えながら話しかけると、河合は板野を掴んだまま立ち上がる。人形でも捨てるかのように板野を放り投げてから強烈な殺意を向けてくる。
「ざ、ん、ね、ん、じ、か、、、、、ん、、、、、、、ぎ、、、、、、、、、、、れ」
河合はゆっくりと呪うかのように言葉を吐きかけると、人差し指を俺に向けてくる。
「み、、、ん、、、、、な、、、、、、、し、、、、、、ね、、、」
俺が止める間もない。河合に俺は突き飛ばされる。しかし、その動きは予想済みだった。倒れこみそうになるのを踏ん張り、階段を駆け上がる河合を追いかける。
大丈夫。屋上は鍵がかかっていて出られない。錯乱した彼女の好意を止めることができるはず。心の中で言い聞かせて、階段を上りきると、
「何処へ?」
俺は立ち止まる。
鍵のかかった分厚い屋上への扉以外に何もない。壁は人が来るのが少ないからか他より汚れがクリーム色だ。リノリウムの床だけが特徴的で、工事の時にペンキでもこぼしたのか所々白く彩られている。
念のため、扉を開いてみようとするが、予想通り鍵がかかっている。何度も取っ手をガチャガチゃと回しながら押したり引いたりしてみるが、動く気配はない。体重を乗せて体当たりをしてみると、予想以上の大きな音がして、先生に見つかってしまうのではないかと内心ひやひやしてしまう。
「戻るか」
宿題を故意にサボる時の苛立ちがある。けれども、ここにいても問題は解決しない。自分に言い聞かせるように独り言を呟いてから、一段飛ばしで階段を下りる。気絶させられるまで首を絞められた板野がいる。リアクション的に河合を追いかけてしまったが、板野を助けることを優先するべきだったかもしれない。
考え出すと止まらない。足を滑らしそうになりながら板野のところに戻る。
「なにやってるの?」
板野は何事も無いように立っていた。いつもと同じようににこやかな表情をしていて、数分前に泡を吐いた人間とは思えない落ちつきがある。
「何って、河合さんに……」
首を絞められただろ。とは言いづらくて口を濁す。どう切り出せばいいのか悩んでいると、板野は無頓着に、
「かわちゃん? 今日、休みじゃなかったっけ?」
と言う。
「ちょっと待て。さっきまで、Kのことで」
「K? 学校に来てない人の話をするの止めよ」
「だけどさ、そんなこと言っても」
「いいじゃん。次に学校に来た時は問題ないよ。そうする、うん」
もう、話は終わりと言わんばかりに、背中を見せる。
「教室、戻ろ」
俺が横に並ぶと板野は歩き出した。横から顔色を伺うが変化はない。何事も無かったように思われる。ただ、目の下に痣がある。参と書かれた文字が見間違いようのなく存在している。
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「河合さん、もう三日も来てないけど大丈夫かな?」
朝のホームルーム前、俺は板野に話しかけた。
「河合? 誰それ?」
板野は首を傾げた。演技している様子など全くない素の表情だ。
「ほら、河合さん、グループ一緒じゃなかったっけ?」
「えっ? 何言ってんの? 河合なんてこのクラスにいないじゃん」
「またまた、冗談ば……」
俺は前方の河合の席を探す。だが、不思議なことに席自体が存在しない。
「ど、どうしたの?」
無意識のうちに立ち上がってしまった俺は、クラスメイトの視線を受けて椅子に座りなおす。
「いや、疲れてるのかな? 最近、現実と非現実が交差している気がする」
「何それ。ちょっとだけ文学的な表現かもね」
板野が涼しげに言う。悟られないように横目で表情を盗み見る。昨日と変化があることを確認する。
間違いない。弐だった痣が壱になっている。河合がおかしくなった状況と全く同じだ。それなのに、板野には変化はない。
気にならないと言えば嘘になる。だが、気にしても仕方がないことだ。疲労による幻影なのかもしれない。自分に言い聞かせようとしていると、板野がゆっくりと立ち上がる。
「ちょっと来てもらっていいかな」
「ホームルーム始まるぜ」
「ちょっとだけでいいから、お願い」
板野に頼まれて断るわけにはいかない。ホームルームなんかサボったって何の問題もない。低血圧なのかムスッとした表情をしているヒステリーな女性教師を見なくて済む分、気が楽かもしれない。
二人で教室を出ていくとき、一部のクラスメイトの視線が気になったが、彼、彼女らは何も言ってこない。あまり、意識する必要はないか。そう考えながら階段を上がっていく板野の後ろを歩く。
「ねえ、呪いとか霊とか信じちゃうタイプ?」
「まさか。高校生にもなって信じてたらアレだろな」
「ま、普通の反応はそうだよね」
板野は屋上の扉の前で立ち止まり、クルリと振り返る。狙い澄ましたかのようなあざとい動きだが、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
「ねえ、人を呪ってみたいと思ったことある?」
「別にないな。それほど恨むようなことされたこと無いし」
「同じく。そもそも、呪いとか、つまんね。っつーの。自分の力で何とかするのが面白いんじゃん。なのにさ、この私が呪いにかかるとか、マジ意味わかんない。つか、ざけんなっての」
板野は文句を言いながら、屋上への扉を叩く。
きっと騒々しい音がする。息を呑むが、小さな音がしただけであった。
「なんか、ね、苦しめるために三日なんだってさ」
板野の言っていることが理解できなくて顔をマジマジと見る。
「ねえ、最後まで聞いてくれる? もう、今日が最後だから、さ」
「最後?」
「ほら」
板野はスカートのポケットから手鏡を出して自分の頬の数字を確認する。痣を伸ばすかのように何度も繰り返し、指で伸ばしてからうんざりそうに僅かに俯く。
「実はね」
板野に手鏡を渡される。受け取るべきか悩むもなく手の中に受け取ってそのままズボンのポケットに押し込む。
「喰われてるの」
板野は右手で左手の人差し指を掴むと思いっきり引っ張る。すると、白い液体のようなものが飛び散る。床の上で飛び散ってピチピチと跳ね回る白いものを何度も踏みつけると、奇妙な鳴き声が感じられた。
「実はさ、足の指とかもう無いんだ」
今度は、左手の中指を掴んで引っ張る。第二関節から千切れた指から液体が飛び散ることはない。その代わりに、千切れた先で複数の白い何かがチンアナゴのように蠢いている。
「気持ち悪いでしょ。最悪じゃない?」
板野はセーラー服を捲る。思ったより痩せている。などと思ったのもつかの間。白い蟲のようなものが溢れ出してきて、一部が床に落ちる。板野は後ずさりする俺を気にする様子もなく、たばこの火でも消すかのように白いものを踏み潰していく。
「どうして?」
俺が尋ねると、板野はクスクスと嗤う。
「今更、そんなこと聞いても仕方ないじゃん。どうやら、この呪いは苛めた人に移っていくみたいなの。だからさ、」
「ちょっと待て。俺は板野さんを苛めてなんかない」
「あのさ、わかってるよね。私のこと。それなのに、さ。つまり、私を苛めていたってこと」
「そんなのおかしいだろ。論理的に正しくない」
「どうでもいいのよ。要するに、苛められたって思うだけでいいのよ」
板野は自分の顔面を剥ぐ。ピンク色の筋肉が見えたかと思うと一瞬のうちに白いものが埋め尽くし蠢きまわる。瞬時に増殖していくのか、それとも体内の中から出てくるのか、方面を覆い尽くしていた白いものは水滴のようにポタポタと床に落ちる。
いくつかは行く先を迷ったのか、俺のほうにゆっくりと近づいてくる。
「今更、逃げるなんて言わないよね」
板野は俺に抱きついてくる。白いものが勢いで俺の唇に付着する。手で払いのけるのと同時に板野を突き飛ばすが、負けじと襲い掛かってくる。
「ごめん」
俺は前蹴りを板野に入れて屋上への扉に向かって弾き飛ばすと、階段を駆け下りる。さっき見た白いものが背後から飛び掛かってきて、体中を食い破られそうな妄想に取りつかれる。足を滑らせて転げ落ちそうになるのを堪えながら必死に教室に戻る。
不機嫌そうな女性教師を無視して自分の席に到着すると、隣には別の女子が座っていた。板野ではないクラスメイト。もちろん、顔は知っている。けれども、話したこともない女子だ。板野の席は何処に行ったのだろうかとクラス中を見回すが、余っている席はない。
落ちつけ。落ちつけ。
俺は深呼吸しながら心拍数を安定させる。冷静さが戻ってきたところで、小さい動きでクラスの人数を確認する。
間違いなく、三名分減っている。
つまり、俺の勘違いだ。元々、三人少なかった。Kも板野も河合も俺の幻想だ。何らかのストレスが生み出した幻想。もしくは、漫画にある寝落ちだ。
少し安心して口笛を吹きそうになった。女性教師に再び睨まれて口をとがらせた状態で何気なくポケットに手を突っ込む。
硬いものが当たった。違和感があるから取り出すと手鏡だった。自分の顔に向けると鼻の上に痣があるのに気付いた。手で隠しながらよく見てみると字みたいな痣になっている。不思議だ。どうして、痣は漢字の陸に見えるのだろう。
天井を見ながら手鏡をポケットに突っ込むと、不意に指先に痛みが走った。
豆のようなものができている。何だろう。軽く押すと指先から白い何かが飛び散った。
了