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果樹園の指と釣具店の声  作者: 宇部 松清
after debut 2009/7/16~
90/318

♪90 上書き

「ただいま! アキ!」

 帰宅するなり章灯(しょうと)は大声で(あきら)の名前を呼んだ。

 あの後、局長から提出した書類に不備があったと電話が入り、それを直すまで帰れなかったのだ。

 靴を揃える時間も惜しんでリビングに走る。いつものようにキッチンには赤いエプロン姿の晶がいた。

「おかえりなさい、章灯さん」

 よかった、いた……。

 とりあえず晶がいることに安堵する。

「アキ、あのな……」

「あの……」

「うがいと手洗いと着替えだろ? わかってる、いま済ませるから!」

 そう言うと小走りで洗面所に向かい、手早くうがいと手洗いを済ませる。行きよりも早く走ってリビングを通過し、電光石火で着替えを済ませると、再びリビングに戻った。晶はキッチンからリビングにやって来て、きょとんとした顔をしている。

「あのな、アキ、違うんだ。たしかに真里とは付き合ってたけど、あれは大学時代の話で」

 章灯は晶の両肩をつかみ、必死な表情で弁解した。

「はぁ。あの……」

「料理だって、あの時はそりゃアイツの料理がうまいって思ってたけど、いまは断然アキの料理がいちばんだから!」

「いや、あの……」

「何だ? あと何だっけ? あぁ、去り際のアレか? ないない! もし俺がそういう疑惑を持たれたって、アイツの手なんか借りねぇよ!」

「あの、章灯さん……?」

「俺は、お前だけだから!」

「ちょっと章灯さん、落ち着いてください」

「落ち着いてられるか! 俺、お前に嫌な思いさせちまって……」

 頭を垂れ、がっくりと肩を落とす。そんな章灯の肩にそっと手が触れる。


「そうだぞ、章灯。ちょっと落ち着けって」

 

 聞き覚えのある声に、この重量感のある手……。

「オッさん?」

 思わず顔を上げると、背後から満面の笑みの長田(おさだ)が顔を出した。「正解~」

「オッさんがいるってことは……」

「そりゃあ、俺もいるさなぁ」

 後方から湖上(こがみ)の声もする。

「何で……。だって外に車……」

 なかったよな? なかったよ。

「今日は嫁さんが車使うって言うからさ、電車と徒歩で来たんだぜ~?」

「車はなくても靴はあったろ? お前いっつもぐちぐち言いながら揃えてるじゃん」

「それとも~? そんなの目に入らないほど焦ってたのかなぁ~?」

 さっきのやり取りを全部見ていたくせに、何て意地悪な中年達なんだろう。

「まぁまぁ、座れよ章灯。まずは飯食えって。お前昼も食ってねぇんだろ?」

「どうしてそれを……」

 床に胡座をかいた湖上がニヤニヤしながらソファを指差す。「アキが、20分も早く現場に来たって言ってたからな。大方、アキが心配で昼飯削ったんだろうなぁって。ビンゴだろ?」

 何でこの人はこんなに勘が鋭いんだ。

「章灯さん、ちゃんと食べないとだめですよ」

 そう言いながら章灯の分の夕飯を運んでくる。メニューはオムライスだった。もしかして真里に対抗したのだろうか。ていうかまさかアキに言われるとはな……。

 テーブルの前に着席し、スプーンを握る。

「アキ、これって……」

 恐る恐る問いかける。

「オムライスですけど」

 それはわかるよ……。

「俺がオムライスにしろって言ったんだよ」

 湖上が得意そうな顔を向ける。

「何でまた……」

「何でって、上書きだよ。うーわーがーきっ。アキのオムライス食ったら真里ちゃんの味なんて忘れるって」

「上書きしてもらわなくても忘れてますって……。うまっ……」

 一口食べると、空腹も相まって手が止まらない。あっという間に完食してしまった。

「はぁ~、生き返ったぁ。やっぱうまいなぁ」

 満足げな表情で腹をさすっていると、晶が苦笑してティッシュの箱を差し出してくる。

「口の回り、真っ赤です」

 顔を赤らめてそれを受けとり、数枚抜き取って口の回りを拭う。

「子供みたいですね、章灯さん」

 今度はにこりと笑った。

 あぁ、良かった。笑ってくれた……。


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