♪85 湖上VS夕実
「コガさん、電話来てますよ」
テーブルの下で振動している湖上のスマートフォンを見つけた晶が親切にもそれを手渡してくる。
ラグの上なら鳴ってもバレないかと思ったのに、何でこういう時に限ってこいつは……。
そう思いながらもそれを受け取る。画面には『飯田果樹園』と表示されているが、おそらく冬樹ではないだろう。湖上は正直出るのをためらった。あきらめてくんねぇかなぁ、なんて思ったりもした。
「出ないんすか?」
隣に座った章灯ののん気な声にも押され、しぶしぶ立ち上がってまだ振動しているその画面に触れた。
「はい、こが……」
「ちょっと! 何よ! 何も書かれてないじゃないの!」
湖上が名乗りきる前に夕実の罵声が届く。玄関の方へ向かう途中だったが、あまりのボリュームで身体がびくついた姿を2人に見られてしまった。慌ててリビングを出る。
「なぁ、アキ、いまの聞こえたか……?」
「きちんとは聞こえませんでしたが、女の人の声でした」
リビングに残った2人は『あの湖上』が女からの電話であんなに慌てふためいている姿を見て、顔を突き合わせた。
「コガさん、何かやらかしたんじゃねぇの…?何か怒ってるような感じだったよなぁ……」
「たしかに何か叫んでる感じでした……。でも、何をしたんでしょう……」
「女の人があんなに怒るってのはさ……、たぶん、アレじゃね? コガさんに弄ばれたとかそういう……」
「まさか、……と言いたいところですが、考えられなくはないですね」
晶は呆れた顔をして「そろそろ身を固めたらいいのに」とつぶやいた。
章灯はそれを聞いて、俺だって早く固めてぇんだけどな、と思った。
「無理だって手紙に書いただろうが! 第一、あんな量どうする気だ。まさか、商業利用する気じゃねぇだろうな」
3歳年上の冬樹だろうが、5歳年上のこの嫁だろうが、敬語で接する義理はない。ドスの利いた声でそう言うと、夕実は少しひるんだようだった。
「いっ、いいじゃない! 自分の親戚なんだから! もう来年のネーブルとセット販売するって予約まで受けちゃってるんだから、困るのよ!」
やっぱりそういうことか……。この女、ほんと馬鹿だな。
「あのなぁ、ダメに決まってんだろ、そんなの。アンタ馬鹿か。それにな、アンタ『親戚』って言ったけど、アンタとは他人だからな。血の繋がりなんて一切ないんだからな」
「うるさいわね! 旦那の甥っ子なんだから、親戚よ! もう一回送ってあげるから、さっさと書かせなさいよ!」
ああ、ダメだ。言葉が通じないタイプの馬鹿だ。湖上は大きくため息をついた。
「親戚親戚うるせぇな! てめぇが晶や郁に何をしてくれたっつぅんだ?」
「な……っ、何よ! 大声出して! この野蛮人! オレンジ送ってあげてるじゃないの! ただじゃないのよ、アレだって!」
「お前が送ってんじゃねぇだろうが。送ってんの冬樹さんだろ。わかってんだよ、バーカ」
「……な、何よ! 旦那が送ってるなら同じことでしょうよ!」
「同じじゃねぇよ。旦那の手柄はてめぇの手柄じゃねぇぞ」
湖上のその言葉で夕実の声が詰まる。
「で、でも、本当に困るのよ、いまさら取り消しなんて出来ないし……。ね? 今回だけだから、お願いよぉ」
おうおう今度は泣き落としかよ。お生憎様だが、俺には可愛いお姉ちゃんの涙しか効かねぇんだよ。
「出来なくはねぇだろ。それに、どうせそれも冬樹さんに内緒でやってんだろ? バレたら何て言われんだろうなぁ? いよいよもって離婚じゃねぇの? いい年して若い男に入れ込んでんじゃねぇぞ」
「な……、何でアンタが知ってんのよ!」
「冬樹さんにはさ、離婚に強い弁護士紹介しといたからさ、ちょっとはおとなしくしとかないとやばいんじゃね? あの人あれで結構抜け目ないぜ? あんまり見くびらない方がいいと思うけどな」
「ちょっ……、べ、弁護士って……何よ……。そんなお金あるわけないじゃない……!」
「俺が出した」
「はぁ?」
「いままでのオレンジの代金だ。もう送らなくていい。オレンジくらい金を払えばこっちでも買えるんでな」
な……っ、と短く叫んだきり静かになった電話の向こうに向かって、「金輪際関わってくんな」と吐き捨てて一方的に電話を切った。
「これで静かになるだろうか……」
ぽつりとつぶやいて振り向くと、リビングへ続くドアの隙間から縦に並んだ2つの顔が見えた。
「盗み聞きならもうちょっとそれらしくやれよ……」
すまなそうな顔で仲良く並んでいる2つの顔に、湖上は苦笑した。




