♪71 100日分の我慢
晶が目を覚ましたのは6時を少し過ぎた頃だった。
この時間だとあまり手の込んだものは作れません、と前置きしてから手早く3品ほど作り、章灯はこの時間でこのクォリティかよ、と唖然とした。
「で、結局、話って何だったんだよ」
何となく大事な話は食後に、という暗黙の了解があるにも関わらず、どうしても気になって聞いてしまう。
「食べ終わってからにしてください」
晶はそんな章灯をたしなめるようなトーンで言った。
「……わかったよ」
「かといって、急いで食べないでくださいね。良く噛んで」
「お前は俺の母ちゃんかよ」
章灯は拗ねたようにそう言うと、少し視線を逸らしてビールを呷った。
食事が終わるといつものように章灯は洗い物を片付ける。そして、その後ろには折り畳み椅子に腰掛ける晶の姿があった。水を止め、タオルで手を拭いてから首だけを晶の方へ向きながら問いかける。
「今日は、飲むか?」
アキのことだからな、少しくらいは飲んだ方が話しやすいと思うんだけど。ただ、飲みすぎるととんでもないことになるが。
「章灯さんが飲むなら、少しだけ」
そう言って、右手の人差し指と親指でつまむようなしぐさをする。しかし、その2本の間に隙間はほとんどなく、その『少し』というのもおそらくは『舐める程度』という意味だろうと思った。
章灯はそんなジェスチャーをする晶も可愛いと思って少し笑ってから「わかった」と言った。
テーブルの上には章灯用の水割と、晶用のカウボーイとミネラルウォーターが並んでいる。晶のはいつもより小さいグラスにした。
「さて、どうぞ」
3人掛けのソファに並んで座り、なるべく顔を見ないようにして切り出した。
晶はテーブルの上のカウボーイに手を伸ばす。やはり、素面だと話しづらかったようだ。ごくごく薄めに作ってあるので、全部飲み切ったとしても泥酔することはないだろう。
晶は両手でグラスを持ち、しばらくそれをじっと見つめていたが、小さく頷くと目を瞑って一気に飲んだ。
「――え? おい、ちょっと……!」
いや、確かに薄くは作ったけど! 飲み切っても平気だろうとは思うけど! 一気はねぇだろう!
「アキ、水もちゃんと飲めよ!」
章灯が慌ててミネラルウォーターのグラスを渡すと、それは控えめに一口飲んだだけですぐにテーブルの上に置いてしまった。
「アキ……?」
いつもなら、『同じ量を飲め』という言いつけを守ってこれも一気に飲むはずなのに、と訝しげに思っていると、晶はソファの上に正座をし、身体ごと章灯の方を向いた。その勢いに圧倒され、章灯も晶の方へ身体を向け、右足だけをソファの上に乗せた。
晶は怒ったような顔でじっと章灯をにらんでいる。
やべぇ、俺、何かしたっけ……?
「章灯さん!」
「――は、はいっ!」
膝の上に握り拳を置いて、身を乗り出す晶に対し、章灯の身体はややのけ反った。
何かわかんねぇけど、怒ってる……。
何だ? ここ最近飲んで帰ってきたからか?
それぐらいしか心当たりないぞ、俺?
勢いよく名前を呼んだきり、怖い顔でにらみつけたまま、晶は動かない。
「あ……アキ? 何か……怒ってるのか……?」
この沈黙に堪え切れず、おそるおそる問いかけてみる。
「アレか? 最近帰りが遅かったし……、お前の飯全然食えてなくて……とか?」
晶は口を固く結んだまま首を横に振った。
「もしかして、飲み会なんて嘘で、浮気してると………思ってたり……?」
まさかな、と思いつつ言ってみると、晶はハッという顔をした。まるで「そういうこともあるのか!」と言わんばかりの表情である。
「――いっ、いやいやいやいや! それはない! それは絶ッッ対ないから!」
慌てて両手を振って否定すると、晶は安堵の表情を浮かべる。本当に、随分表情豊かになってきたものだ。
「あのさ、そろそろ話してくんねぇかな……。俺、責められてるみたいで結構辛いんだけど……。俺、何か悪いことしたか……?」
ソファの背もたれに腕を置いてその上に額を乗せる。
「違うんです……。その……」
晶の口から出た『違う』という言葉にホッとしながら顔を上げた。目の前には、赤い顔をして今度は泣きそうな顔になっている晶がいる。
「どうしたんだ。話しづらいことなら、別に無理しなくても――おぉ?」
晶の顔が『泣きそう』から『泣いている』に変わり、章灯は動揺した。
何だ何だ。一体今日はどうしたんだ。
「良い、良い! 今日はもうしゃべらなくて良い! ていうか、泣くほどのことなら、無理に話すな! もう聞いたりしねぇから!」
右手を押し当てて必死に泣くまいと耐える晶の背中をとんとんと叩きながら、なだめるように言う。しかし晶は首を横に振る。
「すみません……。章灯さん……」
震えた声で、絞り出すようにそう言った。
「気にすんな。缶詰めの後だし、疲れてんのもあんだろ。話は落ち着いてから聞くからさ」
「そうじゃなくて……」
「――ん?」
「辛い思いをさせて……、すみませんでした……」
「は? いや、気にしてねぇって。あんな顔でにらんでくるから、俺何かしたかと思ってさ……」
「そうじゃないです……」
「えぇ? さっきのじゃないのか?」
話しているうちに晶の涙は止まったようで、声も少しずつ安定してきた。
「あの……、いつも我慢させてしまって……。その……、コガさんが……」
そう言うと、晶は真っ赤な顔をして下を向いた。
「コガさん……。いつも我慢……。――アキ、何吹き込まれたんだ、あのおっさんに」
「その……、章灯さんの『我慢』は……、私がギターを100日我慢するのに匹敵するって……」
「ひゃ……っ? 100日ぃ?」
章灯が驚いて声を上げると、晶は俯いたまま小さく頷いた。
「まぁ、俺はギタリストじゃないからその表現はいまいちピンと来ねぇけど……。それはアキにとっては耐え難いものなわけだ」
「……1日でも無理です」
「お前……。1日ぐらいは頑張れよ……」
「だから……その……」
「何だ? まさか、そんなの俺に悪いから抱いてくださいなんて言うんじゃねぇだろうな」
晶はまた俯いたまま小さく頷く。つまりは、そういうことだったのだ。
章灯は大きくため息をつき、背もたれに頭を乗せ、天井を見つめた。
「……そんなんで俺が喜んでお前を抱くと思ったのかよ」
上を向いたまま両手で顔を覆う。
「……コガさんの節操ねぇ下半身と一緒にすんじゃねぇよ。お前のためなら俺は100日だろうが200日だろうが我慢出来るっつーの。馬鹿野郎」
「章灯さん……」
「だってお前まだ怖いだろ? 酒を一気に飲んだのもそういうことだよな?」
「それは……」
「コガさんめ……余計なこと言いやがって……」
章灯は身体を起こし、今度は背中を丸めて顔を覆った。
「違うんです、章灯さん……」
「……何が違うんだよ」
「確かに、コガさんに言われたのもありますけど……。その……」
章灯は相槌を打たなかった。晶は言葉を探すのに時間がかかるからだ。黙って次の言葉を待った。
晶はしばらく言葉を探していたが、話すより態度で表した方が早いと判断したようで、ソファの上に膝立ちになり、背中を丸めて下を向いている章灯の身体を横から抱きしめた。
「アキ……?」
「すみません。言葉が思い浮かばなくて……」
章灯がそのままゆっくりと身体を起こすと、晶は少し手を緩めた。身体を捻って向かい合うと、章灯が手を出すより先に晶の手が伸びて来て両頬を挟まれた。
この後の展開は知ってる。アキのことだから頭突きでもするような勢いのが来るはずだ。
しかし、その予想は裏切られ、章灯は2度驚くこととなる。
1度目は、唇がゆっくりと重ねられた時に。
そして2度目は、晶の舌が侵入してきた時だった。
しかし、さすがにその後はどうしたら良いのかわからなかったようで、すぐに唇を離すと、顔を赤らめて俯いた。
「……夕飯の後に続きをすると言いました」
「言って……た……な、そういえば……」
「コガさんに言われたからというだけではないんです……。私だって……」
「アキ……?」
「章灯さんにもう我慢してほしくないです」
その声だけは、やけにはっきりと聞こえた。




