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果樹園の指と釣具店の声  作者: 宇部 松清
before debut 2007/12/12~2008/4/7
48/318

♪48 裸足の香

 件名:ホワイトデーについて

 本文:15日に貰ったものは15日に返すのが毎年の恒例だから、抜け駆けすんなよ。

    俺ら今日は行かないからな。

 

 帰宅途中の電車の中で、珍しく長田おさだからメールが来たかと思えばこんな内容だった。


 そうか、オッさん達の中では俺も15日に貰ったことになってるんだな。帰りにそれ用のお返しもコンビニで買って行かないと。


 そこまで考えて、いや、甘いものは駄目だろうと思い直し渋谷駅で降りた後、適当なファッションビルに入ってみる。華やかな店内に足を踏み入れると、客のほとんどが女性で、何となく千尋が恋しくなる。


 ……まぁ確かにこういうところに来る時は『女性』の連れがいた方が良いのは否めないけどさ。


 そう思いながらフロア内をぐるぐると歩き回ると、見覚えのある看板が目に入った。『Rosy(ロージー) Brown(ブラウン)』である。

「ここにも入ってるのか……」

 独立した店舗ではなく、テイストの違う他の店と無理矢理に併設されたカウンターの前でぽつりと呟くと、上品そうな黒髪の美容部員がにこりと笑って声をかけてきた。

「何かお探しでしょうか」

「あー、えーっと、ホワイトデーのお返しで……」

 ふわりとした柔らかな物腰に押されてつい口が滑ってしまう。


 俺はどうもこの店の雰囲気に弱いらしい。


「さようでございますか。アイテムはお決まりですか」

 そう言いながら、新作のカタログを開いて見せる。

「それが……まったく。ていうか、俺、あんまりこういうの良くわからなくて……」


 こんなことを言われても困るだろうな。


 そうは思うのだが、事実なのだから仕方がない。

「では、フレグランスはいかがでしょうか」

 古屋という名の美容部員は困った顔など浮かべることもなく、柔和な笑みでフレグランスコーナーからテスターとして置いてある香水を3つと細長い厚紙を3枚持ってきた。身体を捻ってその厚紙に一吹きすると章灯に手渡す。

「こちらは当店の名前が付いた『Rosy Brown』というフレグランスです。大人の女性の可愛らしさをイメージしております」


 大人の女性の可愛らしさ……。

 このバラの香りはちょっとアキには甘すぎるというか……。


 顔をしかめて首を傾げている章灯の様子を見て、どうやら違うようだと判断した古屋は別の香水を吹き付けた厚紙を手渡す。

「こちらは『BATHROOMバスルーム』です。お風呂上がりの爽やかさをイメージしております」


 ――おお、コレは良いかもしれない!

 ほんのりと香るシトラスの中に、洗い立てのリネンのような清潔さがある。


 章灯がうんうんと頷いているのを見て、古屋も微笑んでいたが、「一応、こちらもいかがですか」と言って、最後の1枚を手渡す。

「こちらは『bare(ベア) feet(フィート)』と言いまして、官能的な大人の女性をイメージしております」

 官能的、という言葉にどきりとしながら、最後の1枚を嗅いでみる。何の香りなのかはわからないが、いかにも『大人の女性』という香りで、こんなのを付けたら、と想像するだけで耳が熱くなる。


 ――いやいやいやいや、ない! これはない!


「あの、えーっと、その、2番目のやつを下さい」

 古屋がそっちを向いてくれることを期待して、カウンターの上のテスターではなく、フレグランスコーナーに置いてある『BATHROOM』を指差しながら言う。古屋も、顔を赤くして俯き加減でいる章灯のその意図を察したようで、かしこまりましたと言いながらすぐにそちらへ向かった。

 背中に軽く汗をかき、無意識で手に持った香り付きの厚紙を扇ぐように振ると、異なる香りが同時に襲ってきてむせそうになる。

 もう一度3種類を1つずつ嗅いで、自分の判断が正しかったのかを確認する。


 やっぱり、バラのやつはないな。


 そう思って、足元に置かれている小さなダストボックスの中に落とす。

 そして、『BATHROOM』の前に最後に手渡されたものを嗅いでみる。これ自体は嫌いな香りではないのだ。けれど――、


 これはきっとまだ早い、アキには。


 そう自分に言い聞かせる。


 こういうのはさ、もっと『そういうの』に慣れた女性っていうか……。


 ていうか、『そういうの』って何だよと思って、いつかあきらと『そういうの』をする時が来るのだろうかなどという余計なところまで思考を進めてしまい、せっかく落ち着いてきたのにまた耳が熱くなる。


 ――しねぇよ! 相棒に手を出せるかよ! ……出せるかよ。


「お客様、ご用意が出来ました」

 結局、『BATHROOM』の方は嗅ぐ間もなく古屋に呼ばれ、章灯は手に持っていた2枚の厚紙をダストボックスへと落とした。

 何もやましいことはないというのに手早く会計を済ませ、小さな紙袋を持って足早にその場を立ち去る。

 ガタゴトと電車に揺られ、そういえばアキは香水なんて付けるんだろうか、と思った。


 いやいや、いまさらすぎるだろ。まぁ、気持ちだから、こういうのは。



 家に着くと、駐車スペースにはもちろん晶と自分の車しかなく、ちょっとホッとする。

「ただいまー……」

 少し緊張しながら玄関の扉を開ける。やっぱり脱ぎ散らかされた2足の靴もない。その代わりに、また引きこもっていたのだろう、きちんと揃えられた晶の靴と――。

「……来客?」

 晶の靴の隣にはきちんと手入れされたパンプスと、章灯よりもやや小さいサイズのスニーカーがこちらも綺麗に揃えて置いてある。

「アキにも訪ねて来るような友人がいるんだなぁ」とぽつりと呟き、香水の入った紙袋を鞄の中に入れ、さっきよりもやや小さい声でただいまと言いながらリビングのドアを開ける。

「お邪魔してます」

「お帰りなさーい」

 家主よりも先に笑顔で出迎えたのは、その家主と似た顔を持つ人物と、その彼氏である。

 よりによって何で今日来るんだという怒りはあったが、初めて見る『男』の千尋の衝撃が大きく、その感情は一時的に消し飛んだ。

「千尋君……。こうして見ると本当に『男』だな」

 章灯はパーカーにジーンズ姿の千尋をまじまじと見つめて言った。髪もさっぱりと短い。


 やっぱりいつものはカツラなんだな。


「へへー。だって今日はかおるちゃんとデートですから~」

 そう言って郁に抱き付くと、彼女は露骨に迷惑そうな顔をした。

「千尋、人前ではあんまりくっつかないでちょうだい。すみません、山海やまみさん。ここへはネーブルを届けに来ただけなんです」

「ネーブル?」

「ネーブルオレンジですよ。聞いたことありませんか? ウチの親戚、果樹園なんです」

「ああー……、そういえば……」


 そうだよ、だから俺ら『ORANGE ROD』なんだって。


「ネーブル置いたらさっさと帰れ」

 そう言いながら赤いエプロンの晶がキッチンから歩いてくる。いつもより表情が険しい。

「お帰りなさい、章灯さん」

 しかし、自分に向けられるその声は普段と変わりない。

「お前なぁ、せっかく来てくれたのにそりゃないだろ」

「そうだよ晶ちゃん」

「千尋、『ちゃん』付けは止めろ」

 晶は普段からあまり抑揚をつけずに話すが、それでも最近は慣れてきたからか、その中にも何となく様々な感情を読み取ることが出来るようになってきた。


 でも、今日はまた随分と無機質というか、棘のある言い方だな。


「だってさぁ、晶ちゃんてば、ちゃーんとおっぱいがあるんだも~ん。ぐふ」

「……だったらいますぐさらしを巻いてくる」

 そう言って晶はすたすたと自分の部屋に向かった。大きな音を立ててドアが閉まり、リビングにしばし気まずい沈黙が流れる。

「章灯さんごっめーん、せっかくのホワイトデーなのに、晶ちゃん『男』になっちゃうかも~」

 へらへらと笑いながら顔の前で両手を合わせる。その表情からは『反省』など欠片ほども読み取れない。


 こいつ、絶対わざとだろ……。


「もう、千尋はいつも一言多いのよ。本当にごめんなさいね、山海さん。私達、もう帰りますから……」

 郁はそう言うと千尋の手を取って立ち上がった。

「え? いや、もうちょっとゆっくりしていけば……」そうは言うものの、内心、晶が気になってしょうがない。

「良いんです、それより、晶のところに行ってあげてください。たぶん、引っ込みがつかなくなってるだけだと思いますから。さぁ」

 郁に促され、晶の部屋の前まで行く。「お邪魔しました」という声が聞こえ、ちらりと玄関を見ると、こちらに気付いた郁がぺこりと頭を下げた。郁はへらへらしながら手を振る千尋をにらむと、もう一度頭を下げて出て行った。

 ふぅ、とため息をついて晶の部屋をノックする。

「……はい」

 ノックをしたは良いものの、何を話したら良いのだろう。そういえば何も考えていなかったのだ。

「いまさらし巻いてんのか?」

「……これからです」

「服は?」

「……まだ着てます」

「そしたらさ、その状態でちょっと待ってろ。良いか、何もするなよ」

 そう言って小走りで自分の部屋へ行くと、千尋と一緒に買った服が入っている紙袋を持って、さっきよりも早く走って晶の部屋まで戻った。

 

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