♪43 『ORANGE morning』
「もうそろそろ良いですか」
そう言いながら晶がカセットテープを渡して来たのは1月10日のことである。
章灯は何やら嫌な予感がしながらも、そのテープを受け取った。
「良いって、何がだ?」
「こないだ『時間かければ大丈夫』って言ってたじゃないですか」
「言ったけどさ……。それとこれとどう関係があるんだよ」
章灯はテープを様々な角度から眺めた。どこからどう見ても、いや、まずそもそも晶から渡されるテープなんて1つしかないのである。
「だいぶ明るい曲なので、あの状態の章灯さんに詞を書いていただくのは酷かなと思いまして」
やっぱりそうだよな……。いや、わかってたけどさ。
「てことは、結構前に出来てたのか?」
「はい。もう歌とコーラス以外は録り終ってます」
「――は?」
「なので、レコーディングまでにお願いしますね」
「レコーディングまでに……って、今日入れてあと3日しかねぇじゃん!」
「はい」
「はい……って……。まぁ、やるしかねぇけどさ……。これも12日にレコーディングするってことだよな?」
「そうです」
晶はそう言うとキッチンへ向かい、やかんに水を入れてコンロにかけた。コーヒーでも淹れるつもりなのだろう。
「てことはデビューシングルに入るってことだよな」
「そうです」
棚から赤いカップと青いカップを取り出す。
「それ、いつ決まったんだ?」
「タイアップが決まった直後です。『POWER VOCAL』をそっちで使うことになったので、他に『シャキッと!』のエンディングを作らなくちゃならなくなったもんですから」
「タイアップ決まったのって3日だよな? んで、俺が荒れたのは4日だぞ……。お前、いつ作ったんだ、コレ?」
「4日です。構想はあったので早く出来ました。章灯さんが帰って来たらすぐ渡そうと思ってたんですけど」
「相変わらずのハイペース……だな……」
「で、部屋にこもってるってわけか」
「そうです」
晶から『テープを渡しました』というメールを受けて、久しぶりに湖上が夕飯を食べにやって来たのはその翌日のことである。
「結構時間かかったな」
「そうですね」
「で、アキは何を以て章灯が復活したと判断したんだ?」
「それは……秘密です」
「えぇっ、アキが俺に秘密を……?」
『あとは時間かければ大丈夫だから。ありがとうな、アキ』
そう締めくくったその翌日は土曜日で、年始で出社したばかりだというのに『WAKE!』以外の仕事がなくなった章灯は1日のほとんどを部屋から出ずに過ごした。部屋の中で何をしているのか、もちろん晶には皆目わからない。
昼食の準備をしようと11時半頃にキッチンへ向かうと、調理台の上に置いておいた朝食が手付かずのままであることに気付き、珍しいこともあるものだと晶は思った。章灯は休みの日でも割と早起きで、朝食はしっかり食べていたからだ。しかし、こういうことも稀にはあったので特に気にも留めず、昼食の準備に取り掛かる。一度に二食分食べるのはさすがに厳しいだろうと思い、おかずを1品増やすにとどめたが。
しばらく地下室でギターを弾き、コーヒーでも飲もうかとキッチンに向かうと、調理台の上の食事は変わらずにそこにあった。目印を付けておいたわけではないにせよ、それは1ミリも動いていないように思えたし、量も減っていない。ラップを剥がした形跡などももちろんなかった。壁時計を見ると、3時である。
さすがにコレはおかしいと、温め直したものをトレイに乗せ、章灯の部屋をノックした。
「……あいよ」
返事が割と早く返ってきたところを見るに、どうやら起きてはいたらしい。
恐る恐るドアを開けてみると、布団に包まってふて寝をしている章灯の姿があった。
「ご飯、食べて下さい」
「……後でな」
「朝も昼も食べないで、もう3時ですよ。章灯さんの『後』って一体何時なんですか」
そう言うと、晶は一度トレイを床に置き、布団を無理やり剥がした。
「寒いじゃねぇか。何すんだよぉ」
「はいはい。食べたら温まりますから」
懇願するような章灯の声を軽く流し、晶は丸まって寝転がっている彼の上に覆いかぶさった。そして、ずい、と章灯の背中の下に手を差し込む。
「――え? ちょ、ちょっと……? アキ……?」
動揺している章灯を無視して全身にぎゅっと力を入れると、自分の身体と一緒に章灯を起こす。とはいえ、彼女一人の力で章灯を起こせるわけはなかったのだが。
「よいしょっと」
上半身を起こした章灯の背中に枕を挟み、壁にもたれさせると、床の上のトレイをベッドの上に置く。
「私に食べさせられるのと、自分で食べるのと、どっちが良いですか」
呆れた顔で見下ろされ、章灯は「自分で食べます……」と言う他なかった。
夕食も晶が声をかけてやっとしぶしぶ布団から出るといった有様で、翌日の日曜も、昨日よりはましという程度だった。
月曜日、仕事が始まれば大丈夫かと思い、眠い目をこすって『WAKE!』を見てみると、画面の中の章灯はいつも通りで安心する。ここはさすがプロといったところだろう。しかし、帰宅するとまた部屋にこもってしまう。仕方なく晶は夕食を持って部屋を訪ねることになった。
そんな日々を過ごし、やっと昨日、自主的にリビングで一緒に夕食を食べられるようになったのだった。
「本当に本当に本当にごめん!」
出来立ての夕飯を前に、章灯は晶に深々と頭を下げる。
「良いですって、もう。年末お世話になりましたから、チャラですよ」
そう言って、湯気の上がっている揚げだし豆腐を口に運ぶ。
「それより、せっかく久し振りの出来たてなんですから、熱いうちに食べて下さい」
その言葉で顔を上げると、ほわほわと上がる湯気の向こうに少し困ったように笑う晶の顔がある。
「……そうだな。いただきます」
「どうぞ召し上がってください」
これで後はビールの1本でも飲んでくれれば『復活』と見て良いだろう。
晶は心の中でやれやれと呟いた。
彼の名誉のためにも、こんな姿を湖上にだけは言う訳にいかないだろう。
寂しそうな目を向ける湖上を置いてキッチンへ向かうと、日本酒の瓶とグラスを持って再びリビングに戻る。
「あ、『久保田』!」
湖上はお気に入りの日本酒が目の前で注がれるのを見てすっかり機嫌を直したようで、にこにことそれを見守っている。
章灯さんにも『こういうの』があれば良いんだけどなぁ。
そう思ってため息をついた時、ゆっくりと章灯の部屋のドアが開いた。
「出来たぁ……。間に合ったぁ……。アキぃ~、飯ぃ~」
そう言って、その場にへたり込む。
「お疲れさまでした、章灯さん。だから食べてからにすれば良いってあれほど……」
晶はそう言いながら腰を上げ、キッチンへ向かう。
湖上は日本酒のグラスを持ちながら、膝歩きで章灯のところへ行くと、手に持っていた紙を奪い取った。
「ほほぉ、こうきましたか……」
わざと目の前で読んでみるも、章灯はぐったりと脱力したままである。無反応の彼を見て、湖上は「お前、もう恥ずかしがんねぇの?」と不満気な声を漏らした。
「腹減りすぎて、いまそれどころじゃないっす……」そう言いながら這うようにしてテーブルへと移動する。
空腹で倒れそうになっている章灯の元へ、夕飯を乗せたトレイを持った晶が小走りでやってくる。
「章灯さん、どうぞ。大盛りにしときましたから」
晶がテーブルの上にトレイを置くと、いただきますも忘れ、章灯は満面の笑みでそれにがっついた。
「一仕事の後にアキの飯があるってのは、やっぱり最高だな。沁みるわ、いろいろと」
「……やっぱり章灯さんはそういう顔で食べてくれないと。こっちも作り甲斐がありませんよ」
何があったか知らねぇけど、何だかんだ言って距離縮まってんじゃねぇのか、こいつら。
湖上は歌詞と2人を交互に見つめながら日本酒をちびりと飲んだ。
朝の情報番組のエンディングにふさわしい『ORANGE morning』と題されたその曲は、いまいち気が乗りきらない週明け、だれがちな週半ば、そして限界の近付く週末と、どのタイミングで聞いても活力が湧いてきそうな、いわゆる『応援歌』に仕上がっている。その中にはスパイスとしてかすかに恋愛要素も散りばめられており、仕事に追われる社会人のみならず、恋愛に忙しい学生からの支持も得られそうだと湖上は思った。
良くもまぁ身体的にもスケジュール的にもギリギリな中で、ここまでのものを書き上げたもんだ。
空になったグラスを見つめ、湖上は頬杖をついた。視線を上げると、幸せそうに飯をかき込む章灯の姿が見える。それをじっと見つめている晶の頬はほんの少し緩んでいるように見えた。




