♪36 turning point、なるか?
「はぁーっ、皮膚呼吸してるって感じする~」
トイレで私服に着替え、メイクを落とす。晶はもちろん女子トイレである。ほぼ利用者がいないらしい裏口のトイレではあったが、用心のため『点検中につき使用禁止』の折り畳み看板は立てさせてもらっている。
「……コガさん、アキって、普通に女子トイレなんですね」
落とし忘れがないか鏡に顔を近付けて入念にチェックしている湖上に章灯が声をかける。
「今日は早く終わったし、私服を女物にしたみたいだからな。でも、テレビ出演とかで長期拘束になると男子トイレを使わざるを得ねぇんだよなぁ。まぁ多目的トイレがあればそこ一択なんだけどな」
「まぁ、それが一番安全ですよね」
「もし男子トイレしかねぇ場合は、必ず俺らのうちの誰かと行かせるようにしろ。さすがに人が入っているとまずいからな。先に入って偵察するんだ」
「まぁ、アキの方で余裕があれば楽屋で女の恰好させて女子トイレでも良いんだけどな」女なのに女の恰好ってのもおかしな表現だな、と長田は笑った。
最後にお互いの顔をよく確認してきちんと落ちているかチェックする。よし、と言って3人は男子トイレを出た。
「女ってのは大変だよなぁ。毎日こんな風に塗ったくってんだろ? 耐えらんねぇわ。毛穴詰まりそう」
頬をさすりながら長田がつぶやく。
「まぁ、さすがにここまでは塗ったくってないでしょうけどね」
「アキはいつになったら色気づいて化粧とか覚えるんだろうなぁ……」
湖上は目を細めてなかなか開かない女子トイレのドアを見つめている。
「まぁ、好きなやつでも出来れば自然と覚えるんじゃないですか」
何気なく章灯が呟くと、2人の視線が一気に集まった。
「いや……、だから……俺とかじゃなく……」
うんざりした顔で否定していると、ギィ、という音がして女子トイレのドアが開いた。
女子トイレから、恐る恐る、といった体で出て来た晶は、ぴったりとした黒いタートルネックのセーターに緑色のフレアスカートという恰好である。手にはさっきまで来ていた衣装が入った大きめの紙袋とコートを持っている。
いまだに女物を身に着けるのが恥ずかしいのだろうか、顔は俯いたままだ。男3人はそれを察して誰もそこには突っ込まない。
「衣装持ってやるよ」
そう言って晶の返事を待たずに紙袋を奪う。
「やっさしーい! 章灯!」湖上がニヤニヤと笑いながら茶化す。
「別に! アキの手は大事な商売道具ですから! この衣装結構重いですし!」
「えぇ~? じゃ何で俺らのは持ってくんねぇの~?」
長田はわざとらしく指をくわえて首を傾げた。俺も俺もと湖上は挙手をし、それに同調する。
「お2人はどう見たって俺よりムキムキだからダメです。第一、俺が持たなくたって、どうせどっちかが持つじゃないですか!」
拗ねたような口調で言うと、2人は、それもそうか、とやけにあっさり引いた。
それは『俺よりムキムキ』に対してなのか、はたまた『俺が持たなくてもどうせどちらかが持つ』ことに対してなのか……。
来た時と同じように長田の愛車に乗り込む。運転席は長田。助手席には湖上。後部座席には章灯と晶である。
疲れたなぁ、などと言いながら湖上は社長に結果報告のメールをしているようだ。
ホッとした気持ちで深呼吸すると、ふと嗅ぎ慣れない、でもどこかで嗅いだことのあるような香りが漂って来た。何気なく隣を見ると、晶は相変わらず下を向いたままである。
作曲モードにでも入ったのだろう。そう思いながら車外に視線を移す。車は新宿駅を通過して大型デパートの前を通り、赤信号につかまって停まった。
あ、昔ここに彼女と来たなぁ。アイツ元気でやっているかなぁ。
過去の彼女との思い出にふけっていた時、その思い出の中の香りが隣からふわりと漂ってくるものと重なった。
もしかして……? いや、でもアキに限って、まさか……。いや、でも……。
ひとしきり悩んだ後で意を決して、晶の肩を突き、前の席の2人になるべく気付かれないように軽く俯きながらごくごく小さな声で話しかける。
「アキ、もしかして、化粧してね?」
ずっと俯いていたのでバレていないと思ったのだろう、晶はびくりと肩を震わせ、上目遣いで章灯を見つめ、ささやくような声で「……変ですか?」と言った。声がいつもより小さくなることを想定して耳を近付けていなければ、絶対に聞きとれないほどのヴォリュームである。ほとんど呼気と言っても良い。
「正面から見てないから変かどうかはわかんないけど……。でも珍しいな」
「せっかく、皆さんが女物の服を買ってくださったので……」
「お返しに、みたいな……?」
小声でぼそぼそと章灯が言うと、晶は小さく頷いた。
「だったら、ちゃんと見せてほしいんだけど……。コガさんもオッさんも絶対見たがるって」
「わかってます……。でも……」
「まぁ、いきなり2人に見せるのは恥ずかしいか」
晶はこくり、と頷く。
「……じゃ、俺とちょっとだけ別行動するか? 外で顔上げる練習しようぜ。もしおかしいとこあったら店に入って直してもらえば良いだろうし」
章灯が提案すると、膝の上に置いていた手を一度ぎゅっと握り、小さく頷いた。
晶の頭が動いたのを確認して、運転席の長田に話しかける。
「オッさん、ほんと悪いんすけど、駅の方に戻って降ろしてもらっていいすか?」
ちらりと助手席を見ると、湖上は珍しくいびきをかかずに眠っている。道理で静かなはずだ。
「おー、良いぞ。ちょっと待ってろ」
そう言うと長田はもと来た道を戻るため、右折レーンに入った。
「そういや章灯は休み最終日だもんな。ゆっくり買い物でもして来いや」
ミラーでちらりと視線を合わせ、歯を見せてニィっと笑う。
しばらく走り、再び新宿駅に近付く。
「あ、オッさん、もうここで大丈夫です。そんで、あの、アキも連れて行きます。こいつもたまに外の空気吸わせないといけないんで」
別にやましいことをするわけでもないのに、なぜか早口になる。長田は一瞬「お」という顔をしたが、茶化そうとしたのをぐっとこらえたらしく、「はいよ、遅くなんねぇようにな」とそれだけ言って、車を停めた。
意外と追及されなかったことにホッとしながらも、長田の気が変わらないうちに晶の手を取って車を降りた。
「――あいつら何かぼそぼそしゃべってたな」
「……おう」
「お前、割って入りたくてうずうずしてたろ」
「……そりゃ、俺はアキの『親父』だからな」
「アキが親離れする日も近いんじゃねぇの?」
「……嬉しいやら悲しいやら、複雑だな」
「アキ、女になって帰ってくんのかな……」
「……言うな馬鹿野郎」
中年2人となった車内では寝たふりから覚めた湖上と、秘密のやり取りを目ざとくチェックしていた長田がしんみりと語っていた。




