♪10 失踪、あるいは
ほとんどの場合鞄の中に入れっぱなしになっている晶のスマートフォンは、最近では時計の役割すら御免になった。彼女にとってはやはり時計の方が見やすいらしい。晶がスマホを手に取る時というのは、誰かに連絡を取りたい時と調べものをする時だけである。スマートフォンとはつまり『PHONE』であるわけだから、それで良いのだろうが、問題は彼女が必要になった時にしか電源が入らないという点にある。ましてやあのまま出掛けたとなると恐らく、鞄の中に仕事用のタブレットも入ったままのため、調べものはそっちを使用することになるだろう。ということは、彼女が自ら誰かと繋がりたいと思わなければ、その電源はいつまでも入らないということだ。
何度かけても同じガイダンスしか流れて来ない自身のスマートフォンを恨めし気に見つめ、章灯は大きなため息をついた。
たださすがに、今日のことを引きずっている云々というのは長田の憶測なのである。例えそれに湖上が同意したとしても。だから、まぁそう遅くならずに帰ってくるだろう、と章灯は高を括っていた。いや、括っていた、というか、そう自分に言い聞かせていただけかもしれない。
結局その晩、晶は帰って来なかった。
章灯は一睡も出来ず――とはならなかったものの、それでも少々寝不足の気はある。
いくら晶といえども、彼女は立派な成人女性で、車の運転も出来るし、所持金もある。現金が無くてもカードは持ってるだろう。あれで意外と――というのは失礼かもしれないが、何せ対外的には『男』で通しているのである――一人で飲食店に入ることだって出来るのだ。それだけに。
そう、それだけに。
この突然の『失踪』が確実に彼女の意思のもとで行われているという事実が苦しい。もし事故に巻き込まれたのだとしたら、それはそれで大事だが、警察なりに協力を仰ぐことも出来るだろう。しかし、彼女が、彼女の車で出て行ったのだ。貴重品の類も(恐らく)持って。
「失踪なんて言うんじゃねぇよ。大事みてぇだろ」
湖上は面倒くさそうにそう言った。育ての親がそう言うのだ、さては晶の居場所に心当たりがあるなと尋ねるも、
「俺が知るかよ」とつれない返事である。
「大事みたいって、大事ですよ! アキが帰って来ないなんて……」
「いやいや、失踪つったら何かもうアレだろ? 警察に届だすやつじゃねぇか。アキの場合はアレだ。そう! 家出だ、家出! ――いてぇっ!」
ひらめいた! とばかりの晴れやかな顔で言い放った湖上の後頭部を丸めた雑誌で容赦なく殴ったのは長田である。
「馬鹿かてめぇは!」
「何すんだよオッさん! あっ! どーりでいてぇと思ったらめっちゃくちゃ分厚いやつじゃねぇか! 誰だ! 式場探してんの!」
「誰でも良いだろ! 少し黙れ馬鹿親父!」
「オッさん、落ち着いてください」
晶の失踪――もとい『家出』に対し、章灯以上に動揺しているのは長田であった。章灯のように生放送の収録がない彼は、昨夜22時頃に「アキがまだ帰って来ないんです」という章灯からの電話を受け取り、妻子に断って車を飛ばして三軒茶屋の山海宅へとやって来たのである。章灯が不在の時に晶がひょっこり帰って来るかもしれない。晶には晶なりの考えがあるのだろうし、良い年の大人に対して頭ごなしに叱るのは好ましいやり方ではないだろう。そう思って、リビングで一晩、まんじりともせずに過ごしたのである。ちなみに、式場を探しているのはもちろん章灯と晶なのだが、さすがに厳しいだろうという結論に至った。
基本的に、晶には、時間や場所を決めて対面でのやり取りが必要になるような仕事は来ない。彼女への仕事の依頼というのは大体がマネージャー経由で回ってくる上に出来上がったものも直接渡さなくても良いようになっている。なので、晶は決められた期日までにどんな方法をとってでもそれを提出さえ出来れば良いので、どこで何をしていても自由なのである。
「ほんで、仕事はきっちりやっつけて行くんだもんなぁ」
「そういえばあの日やたらと地下に仕事道具持ち込んでました」
「そんじゃ益々家出じゃねぇか」
都内の結婚式場すべてを網羅しているその雑誌を興味深げにパラパラと捲っていた湖上がポツリと言った。
「何でだよ」
「何でわかんねぇんだよバァーカ」
それを拾って喧嘩腰で返す長田に湖上は小馬鹿にするように鼻で笑った。こういう態度をとるからこの2人はよく取っ組み合い一歩手前の喧嘩になるのだと章灯はため息をつく。この2人を止められるストッパーはいまいないのだ。
「だから、失踪っつーのはよぉ、もー仕事とかそういうのも一切考えられなくなってほっぽり出してやるもんだろ。やることやってんだから、そりゃ家出だろうがよ。いや、旅行の方が良いかな」
「りょっ……!? はぁあっ?!」
「コガさんさすがに旅行は言いすぎじゃないですか?」
思わず章灯も口を挟むが、しかし言われてみればそれも一理あるかもしれない。
「良いじゃねぇか。アキはいままで反抗期っつー反抗期もなかったんだ。もう大人なんだし好きにやらせてやりゃ良いじゃねぇか」
湖上があっけらかんと笑うと何だか大丈夫な気がしてしまうのだった。ぴんと張り詰めていた空気がほんの少し緩んだ気がする。
ただ、現状として晶の行方はわからず、状況は全く好転していないのだが。




