♪30 My weak point
「あの……声出しても良いんですよ?」
固く握った拳を口元に当て、懸命に声を殺している章灯に向かって、晶は恐る恐る声をかけた。
数ヶ月前を彷彿とさせるようなやり取りである。
しかしこれがその当時と大きく違う点といえば、用意された飲み物がノンアルコールであるという点と、晶の表情にあの時のような余裕がないという点であろう。確かに当時も今回も言い出したのは章灯なのだが、それこそ生きるか死ぬかの背水の陣で臨んだ前回とは異なり、今回は特にそれ系の仕事が入ったなどという差し迫った状況でもなかった。
――なかったのである。
それなのに、だ。
デッキに差し込まれているのは晶が震えあがった『Is This~?』のリメイク版である。
シーンは後半に差し掛かり、アンナがビルギッタと何度も人格を入れ替える中で、第3の人格『公正の人』を生み出したところだった。どうやら晶はこの人格入れ替わりの瞬間が特に怖いらしく、真っ赤に充血した両目を見開いて口から涎をだらだらと流しながら頭を小刻みにカクカクと動かす様は、演技だと思っても相当に不気味である。
一度見ている彼女でさえ件のシーンになるとびくりと肩を震わせるのに、章灯はというと、ぐっと歯を食いしばって画面を睨みつけるようにしてぴたりとも動かない。今回は度付き眼鏡にイヤホンといった『小細工』の類も一切用意してないのに。それなのに、だ。
これぞステラ・クィーンの真骨頂ともいえる(らしい)ほぼ救いのないもやもやとした締め括りで、何とも言えない気分のままエンドロールを眺める。晶は何に緊張していたのか全身の力を抜いてソファの背もたれに身を預け、ふぅ、と息を吐いた。
まさか章灯さんがこれを最後まで見れるとは。
それでもさすがに彼もかなり気を張っていたと見えて、まだ視聴時のままの姿を保っている。まさかこの余韻を楽しむ余裕すら出て来たというのだろうか、と何だか頼もしくさえ思った。
この分だともしかしたら今後も一緒にこういう映画を見られるかもしれない。
そう思うと心が躍る。
せっかく余韻に浸っているところだが、エンドロールも終わったことだし、感想の1つでも伺って良いだろうか。
そう思って、章灯の肩に手を乗せた。そして軽く揺すりながらその名を呼ぶ。
「章灯さ――……?」
石像か何かのようにガチガチに固まっていた彼の身体は、彼女のそんな微かな接触でぐらりと真横に倒れた。
「えっ? しょっ……!? 章灯さんっ!?」
「……いやぁ、悪い悪い」
リビングの中央、ローテーブルの下に敷いたラグの上で正座をし、章灯は気まずそうに頭をかいた。その視線の先にはソファの上で膝を抱えて座り、ぷいと顔を背けた晶がいる。
「アンナがパン屋のおじいちゃんにバールで殴りかかったところまでは覚えてるんだけど」
「……結構後半ですね」
「……はい」
「あの時のアンナは『ビルギッタ』なんですけど……。ということはちゃんと見てたんですね。頑張りましたね」
「うん、まぁ……頑張った」
内容は誉めているのに、責められているように感じてしまうのは口調のせいだろう。
「私、目開けたまま気絶するなんて漫画とかアニメの話だと思ってました」
「いや、俺も」
「あと一歩で救急車呼ぶところでしたよ」
「ほんとマジですまん。ごめんなさい。コガさんナイス判断」
章灯がソファの上にばたりと倒れた時、気が動転していた晶は119番を思い付く前に湖上に電話をかけたのだった。彼はいつも通りに酔っていて、状況から判断して――というよりも、ただの冗談のつもりで「とりあえず頬っぺたにビンタしてみろ」と言っただけなのだが。
本当に良いのだろうかと右手を構えた状態で119番の存在に気付き、これで駄目なら救急車だ、と思いながらぱちんと一発。「いってぇ!」という彼の声が受話口から聞こえたのを確認してから湖上は「馬鹿が」と呟いて通話を切った。
「もう、無理しないでくださいよ」
何もそこまで、と晶が続けると、章灯はなおも気まずそうな顔をしてぽつりと言った。「いや、アキがそんなに恐がるのって珍しいから、ちょっと興味出て」
「興味? いま、興味、と? 章灯さんがホラー映画に興味を?」
「おう」
「驚きました」
「……だろうな。驚いたって顔してる。可愛い」
「まっ……、またそんなことを……!」
「良いじゃねぇか」
さんざん情けないところを見せたところである。もうここまで落ちたら怖いものなんてないのだ。
「でも興味が出てきたってことは、ちゃんと見られる日も近いですよ、きっと」
「そうかなぁ。今回はたまたまだと思うけど」
「のんびり行きましょう。いつまでも待ちますから。でも――」
そこで晶は目を伏せ、小さくため息をついた。
「何だよ、どうした」
「いえ、そうなるともう章灯さんの弱点なんて何もないんだなって」
「いやいや何でちょっと残念そうなんだよ。っつーか、まだまだあるっての。例えば――」
料理とか。
「目玉焼きとお粥は作れるようになったじゃないですか」
梅干とか。
「でも梅酒は飲めますよね?」
干してねぇだろ。――ああ、そう! 食レポ!
「こないだコガさんがだいぶ上手くなったって言ってました」
くっそ。――あと楽器! 何も弾けねぇ!
「タンバリン、上手に叩いてたじゃないですか」
「……アキ、俺に甘すぎねぇ?」
「そうでしょうか?」
さらりと返す晶に対し、なぜか悔しさが込み上げてくる。どうにか負かしてやりたいとよくわからない闘志がみなぎってきた。とはいえ、それは自分の弱点を曝け出すという、平時であればまず必要のない作業であるわけだが。
「そうだ! とっておきのがある!」
「どうしたんですか?」
急に立ち上がった章灯を晶は不思議そうな顔をして見上げた。首を傾げて上目遣いに見上げる彼女は何だか子猫のようにも見える。
「俺の最大の弱点は――」
ExtraChapterⅥは、明日完結します。




