♪28 doting parent
マナーモードのままにしていた携帯が手の中で振動する。
晶からのSOSにすぐ応えられるようにと握ったまま眠っていたらしい。
「あれ、コガさん……?」
サブディスプレイには晶の名前ではなく『湖上勇助』と表示されている。
「もしもし……」
章灯は寝ぼけ眼で壁の時計に注目した。しかし、寝起きのせいかなかなか焦点が定まらず、7時のようにも8時のようにも見える。
「おい、ドア開けろ! 早めに行くって言ったろ! 鍵なんかかけてんじゃねぇぞ!」
起き抜けに湖上の怒声が飛ぶ。しぶしぶ覚醒しきっていない身体を起こして、携帯を持ったまま部屋を出た。
「早めにとは言ってましたけど、早過ぎじゃないんですか? コガさん1人ですか?」
「んなわけねぇだろ。そんなすぐに酒が抜けるかよ。オッさんに運転させて来たんだ」
「せっかくの家族旅行なのに……」そう言いながら、玄関の鍵を開ける。
ガチャリという音で開錠に気付いた湖上が勢いよくドアを開ける。ドアの向こうには溌剌とした表情の湖上と、うんざりとした顔の長田が立っていた。
「さぁーて、ウチのお姫様の容体はいかがかなぁ~」
そう言いながら玄関へ入る。歩きながら靴を脱ぎ、それを蹴散らかしながら。そしてもちろん揃えることもない。
「悪いな、章灯。朝っぱらから……」
「いえ、むしろ、せっかくの家族旅行中にすみませんでした。あの、奥さんとお子さんは……」
「ああ、あいつらはまだ旅館。コガの車で来たんだ。向こうで満喫したら帰って来るよ」
「何か本当にすみません……」
「良いって。章灯が謝ることじゃねぇし、俺だってアキは心配だしな」
そう言うと、長田も歩きながら靴を脱いだ。
成る程、このようにしていつもの状態になるわけだ。
コガさんは良いとしても、オッさんは息子さんの教育上よろしくないんじゃないのか……。奥さんも大変だな。
そんなことを思いながら、章灯は脱ぎたてのぬくもりが残る2人の靴を揃えた。
靴を揃え終えリビングに入ると、湖上の姿はなく、長田だけがソファに座っている。
「コガはアキの部屋だぞ」章灯が尋ねるまでもなく、長田が答えた。
「何か、コガさんいきなり変わりましたね。アキのことをいきなり『お姫様』なんて言っちゃったりして」
コーヒーでも淹れようとキッチンに向かいながら言う。
「もうお前に隠す必要なくなったからじゃね? アイツ昔っから本来はあんな感じだぞ。超絶親馬鹿っつーか何つーか」長田はソファの背もたれにだらしなく身体をあずけ、天井を見つめている。
水を入れたやかんを火にかけ、食器棚から3人のカップを取り出す。
「あ――……、あと、アキにバレました。ていうか、昨日の電話、聞かれてました……」
「はぁ? 早くねぇか? どうすっかなぁ……」長田は上を向いたまま両手で顔を覆った。
「はー、章灯。コーヒー淹れてくれ」
ホクホクとした顔で湖上がリビングへ入ってくる。
「いま淹れてますよ」そう言うと、「さすが気が利くじゃねぇか」とご満悦だ。
「アキ、どうだった?」心配そうに長田が尋ねる。
「寝顔もすげぇ可愛かったぞ」湖上はびしっと親指を立て、にこにこしながら答えた。
「そうじゃねぇだろ! 容体はどうだっつーんだよ!」
「オッさん、そんなに大声上げんなよ。アキが起きんだろ。だいぶ熱は下がったみたいだぞ。王子様の看病が良かったからかねぇ~」
そう言って、ニヤニヤしながら章灯を見つめる。
「俺、何もしてねぇっすよ」
トレイの上に3人分のカップを載せて、リビングに入る。
「コガ、早々とアキにはバレたみたいだぞ」黒いカップに手を伸ばしながら長田が言う。
「何? 早過ぎね? 何その急展開」湖上は黄色いカップを取った。
「俺らの電話、聞かれてたんだと」
「……マジか。――あれ? つうか、章灯、お前アキの飯ってどうした?」
「これからおかゆの作り方を……ネットで……調べてみたり……ですとか……」
章灯が伏し目がちにそう言うと、湖上は大きくため息をついた。
「仕方ねぇなぁ、俺が作ってやる」
黄色いカップを持ったまま立ち上がり、キッチンへ向かった。
「コガさん……、料理出来るんですか……?」
「何年親代わりやったと思ってんだよ」
湖上は優雅にくるりとターンを決め、空いた手でピースサインを作ってニヤリと笑った。
「アキ、入るぞ」
控えめにノックをし、おそるおそるドアを開ける。
晶はまだ寝ているようだったが、呼吸は昨日よりも落ち着いている。床に散らばっているものに気を付けながら近付き、顔を覗き込んでみる。昨日ほど真っ赤ではないように見えるのだが、カーテンを閉め切った状態ではいまいちわからない。
開けたら起きちまうかな。
でも、もう8時半だし、薬もあるから飯食わせないと……。
それでも、出来るだけ静かにそろそろとカーテンを開ける。窓が現れるのと同じペースでゆっくりと日の光が部屋に差し込んでいく。光が晶の顔に届くと、眩しいのだろう、目をぎゅっとつぶって必死に抵抗しているようだ。それを見てたたみ掛けるように、声をかける。
「アキ、飯、食えるか?」明るくなった状態で顔を覗き込むと、やはりだいぶ顔色は戻っている。手の甲で頬に触れてみると、熱も少し下がっているようだ。
日の光に、自分を呼ぶ声、さらには冷えた手のトリプルコンボで晶は目を開けた。
「章灯さん……。おはようございます……」
「おはよ。飯なんだけど」
「ああ、いま作りますね……」
そう言って身体を起こそうとする。余程『飯=自分が作るもの』だというのが染みついているらしい。
「違う違う、そうじゃなくて!」章灯は晶の背中に手を差し入れ、起こすのを助ける。
「飯はコガさんが作ってくれたぞ。何かすげぇ美味そうな雑炊。食えるか、って話」
「コガさんの……雑炊。食べます」
「どうせ飯食ったらまた汗かくだろうから、着替えは食い終わってからな。……その辺はコガさんがやってくれるから安心しろ。お前のシーツ、交換しとくからな」
背中を押して立ち上がらせると、1人で歩かせてみる。
リビングにはコガさんがいるし、俺がいなくても大丈夫だろう。
そう思って、章灯は汗まみれのシーツをはがす作業に入った。
後ろでドアが開く音がして、心の中で、後は任せたと呟く。
「コラァ! 章灯ぉ! お前何アキを1人で歩かせてんだ!」
長田の怒声で振り向くと、ドアを開けたところで晶はしゃがみこんでいた。
「――えっ? アキ、マジか」
慌てた様子で長田が駆け寄ってくるのが見える。
俺が目を離した一瞬の隙に……。
「大丈夫ですから」
「んなわけねぇだろって。仕方ねぇなぁ。……よっこらせっと」
長田は晶の腕を取って自分の首にかけると、膝の裏に腕を通し、ひょいと持ちあげた。
「もうバレたみたいだし、良いだろ、この持ち方でも」
「え? ちょっと、オッさん……?」軽々と晶をお姫様抱っこして、すたすたとリビングへ運ぶ。
湖上がその姿を目ざとく見つけ、ちぇっと舌打ちをした。
「良いか、アキ、俺だってまだそれくらい出来るんだからな! 出来ねぇのは章灯くらいのもんだぞ」
忌々しそうにそう言って、晶の部屋でシーツをつかんだまま呆然としている章灯を指差す。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 俺だってアキぐらい持ち上げられますって!」
「そぉ~かぁ~?」湖上は力こぶをアピールしながらニヤニヤと笑っている。それを見た長田が、晶をソファに下ろした後で同様に筋肉をアピールする。
「そ、そこまでの筋肉はありません……けど……」
章灯はシーツを引っ張りながら、もごもごと語尾を濁した。
「人の身体で遊ばないでください」
晶は呆れた顔でつぶやいた。声も昨日よりはしっかり出ている。この様子だとインフルエンザではないのだろう。
「――どうだ? アキ、久しぶりの俺の雑炊は」
湖上は晶の隣で胡坐をかき、にこにこしながら顔を覗き込んでいる。
何だよ、いきなりもうべったりじゃねぇか、この親父は……。
章灯は昨夜の残りの味噌汁と、湖上が『お情けで』握ってくれたただの塩結びを頬張っている。
「美味しいです……が、食べづらいです。コガさん、近すぎです……」
晶はややうんざりした顔をしている。
「コガ、うぜぇ親父は嫌われるぞ」
すっかり冷めたコーヒーを飲みながら長田はニヤニヤと笑っている。
「うるせぇなぁ。自分の娘が可愛くて何が悪いんだよ」
湖上は口をとがらせて晶から離れた。
「お前の娘じゃねぇだろうが!」
長田が突っ込みを入れる中で、晶は黙々と雑炊を食べている。食欲はあるようでとりあえず安心した。
「コガさん、アキにばっかりべったりしたら郁さんが焼きもち焼くんじゃないですか?」
「馬鹿野郎! 郁もめちゃくちゃ可愛いに決まってんだろ!」
呆れ気味に指摘した章灯に、湖上は声を張り上げる。
「――でも、郁には早々に親離れされちまったんだよなぁ……」
しかしすぐにしょんぼりと肩を落とした。
「まぁ、音楽って共通の仕事してるし、アキは『嫌でも』縁切れねぇよなぁ~」
長田が『嫌でも』を強調して意地悪な笑みでそう言うと、湖上はハッとした顔で晶を見つめる。
「もしかして、そうなのか? 俺に構ってくれるのは、仕事仲間だからなのか?」
いまにも泣きそうな顔で迫る『育ての親』に晶は辟易している。
というか、これは若干引いているな……。
章灯は冷静にそう分析した。
「オッさん、あまりコガさんをからかわないでください。コガさんも少し落ち着いてくださいよ」
雑炊をすっかり平らげ、レンゲを器の中に入れて、晶は2人の顔を交互に見た。そして章灯が用意した薬を飲むと、ふぅ、と息を吐いた。
「コガさんは本当のお父さんのように思ってますし、ベーシストとしても尊敬してます。そもそも一緒に仕事したくて楽器を覚えたんですから、コガさんの方が嫌だと言うまで離れませんよ」
晶は湖上の目をしっかりと見つめ、きっぱりとそう言い切った。良いなぁコガ、と長田がぽつりと漏らすと、それを聞いてか今度は長田の方を向いた。
「オッさんも、もちろん尊敬してますよ。人としても、ドラマーとしても。大事な『おじさん』です」
晶の優しい言葉に、中年2人は口元を押さえて感動を隠し切れない様子である。
良いなぁ、2人共。
俺も何か言ってもらいたいけど、まだそこまでの付き合いじゃないしなぁ、と寂しい思いで味噌汁を啜ると、いつの間にか湖上と長田がこちらをじっと見つめていた。
「な、何ですか……?」
「ほらぁ~、アキ、章灯拗ねちゃってるぞ?」湖上はなぜか口を尖らせている。
「待ってるぞ。これは章灯待ってるぞ」長田は腕を組んでうんうんと頷いている。
「――え? いや、別に。俺、待ってなんか……」
それでもほんの少し、ほんの髪の毛1本分くらいの期待を込めてちらりと晶を見ると、真剣な顔でこっちを見つめていたが「章灯さんは……」と、そう言ったきり、首を傾げて固まってしまった。
「良いって、良いって。無理に言わんでも!」
実際はだいぶショックだったが、それを押し殺し、笑顔を作った。トレイの上に自分と晶の食器を乗せ、いそいそとキッチンへと運ぶ。
いたたまれねぇ、俺……。
「――アキ、章灯は結構ショックだったと思うぞ……」ひそひそと湖上が耳打ちする。
「ただでさえお前が女だって知って動揺してるんだからな」逆側から長田も耳打ちする。
「それはわかってます……。ていうか、私だって動揺してます」
「……久しぶりにアキの口から『私』って聞いたな」
「……だな。いやー新鮮。可愛いなぁ、女のアキも」
顔を突き合わせてニヤニヤとしている中年2人を見て晶はため息をついた。
「まぁ、それは置いとくとしてもだ。とりあえずレコーディングまでにはもうちょっと距離を縮めろ。……せめて、一昨日くらいまでの距離に」
真面目な顔で長田が言うと、晶はこくりと頷いた。
「――そうだ! レコーディングといえばさ、あのスケジュールはねぇよな。何だよ、発売の1ヶ月前って。フツーに考えて無理だろ」
「まぁ、いろいろあんじゃね?」
「それにしてもだよ! だったら1月か2月にやっときゃ良いだろって話。曲はもう出来てんだから! どんだけやっつけなんだって」
苛立つように話す湖上とは対照的に長田は冷静だ。
「あれじゃないですか? 社長お得意の……」
「――やっぱりアキもそう思うか?」ため息をつきながら呆れ顔の長田が言う。
「ああ、くそ。そのパターンかよ。……てことは、レコーディングまでにとは言わず、もう急いで関係修復に努めろ、アキ!」
「わかってますよ」
湖上に肩を叩かれ、晶は大きなため息をつくと、黙々と後片付けをしている章灯を見つめた。晶に続いて中年2人も熱い視線を向ける。
「男を見せろよ、章灯」膝の上で頬杖をつきながら長田が呟く。
「へぇ~っくしょいっ!」
何だ? アキの風邪が移ったか? こんな短期間で?
至近距離で噂をされていることも知らず、章灯は左手の甲で鼻を掻いた。




