♪28 伝えたい言葉は
「はーい、山海君お疲れ様ぁ」
小出町の気の抜けたような声で、章灯はヘッドホンを外した。そしてガラスの向こう側にいる小出町と晶――もとい昌明に向かって頭を下げる。
「それじゃあ僕はこの後少し作業があるから」
そんなことを言ってえびす顔の老紳士は章灯に手を振った。小出町と章灯のちょうど間辺りにいる晶はというと、とりあえず章灯がこの場を去ってくれないことには変装を解くことも出来ないため、何となくそわそわしている。
「昌明君はどうする? 僕が終わるまで待ってる?」
そんなことを聞かれたところで、晶に出来るのは、首を『YES』の意味で縦に振るか『NO』の意味で横に振るかくらいである。そして横に振ったところでこの状態では何もすることが出来ない。足が不自由だという設定にしてしまった以上、ではさようならと立って歩くわけにはいかないのである。
当然の結果として、晶は首を縦に振――ろうとした。
「もし良ければ、その辺りを少し散歩しないかい?」
すとんと腰を落とした章灯の顔が目の前にある。
彼は実に穏やかな笑みを湛えてそこにいる。
「良いね。良かったじゃないか、昌明君」
「……!?」
「たまには外の新鮮な空気を吸うのも良いだろう。昌明君、甘えると良いよ。ぐるりと回ったらまたここに戻っておいで。どうせ1時間2時間で終わるような作業じゃないんだ、多少遅くなっても、僕はここにいるから」
あれよあれよという間に車椅子を押され、昌明に扮した晶は章灯と共に外に出た。
「寒くない?」
その言葉に晶は首を横に振る。傍目にはニットのカーディガンに膝掛けをしているだけにしか見えないだろうが、体型を誤魔化すため、中にはタオルがぎゅうぎゅうに詰められているのである。それでも病弱だという(設定の)昌明を気遣ってか、スタジオを出て最初に見つけた小さな喫茶店の中に入った。
カランというベルの鳴るドアを開けると、ふわりと暖かな風が冷えた頬を撫でる。店内は香ばしいコーヒーの香りで満たされ、落ち着いたジャズが流れていた。「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」以外の声を発さない店主の渋さも良くマッチしている。客層も小綺麗な恰好をした老紳士や老婦人が多く、若者といえるのはたったいま入店した章灯と晶を除けば、カウンター席で静かに読書をしている学生風の女性のみだ。どうやらここでは自分達はマイノリティらしい。
それはそれで好都合、と奥へと進み、昌明のために椅子を1つ避けるとそこへ車椅子を滑り込ませた。そして自分が席に着いたタイミングでやって来たウェイトレスからメニューを受け取る。ざっと目を通してみたが、雰囲気の割には特にコーヒー一杯の値段が馬鹿高いというわけでもないようである。
「何が良い? 好きなもの頼みなよ」
メニューをくるりと回してテーブルの上に置く。昌明はそれをちらりと見ただけで控えめに首を振った。何せ声を発するわけにはいかないのある。じっと俯いたまま固まってしまっている昌明を見て、章灯はウェイトレスと視線を合わせてから困ったように笑い、開かれたままのメニューの一つを指差して「本日のコーヒーと、あと、これを――これで。お願いします」と言った。20代後半と思しきそのウェイトレスは「かしこまりました」と笑顔で答え、メニューを回収して店主のいるカウンターへと戻っていった。
彼女が去った後も、そして、トレイの上にほわほわと湯気の上がる2つのカップを乗せた状態で再びやって来た後も、向かい合った2人は無言だった。
章灯は充分にその香りを楽しんでからカップに口を付け、昌明の方はというと、まるで飲むことをためらってでもいるかのように両手の指先だけをカップにくっつけている。しかしさすがに熱いと見えてくっつけたり離したりをリズミカルに繰り返す。それが何だかピアノを弾いているようにも見えてしまう。
「どうだった? 俺の歌」
その言葉で弾かれたように昌明の肩が震えた。10本の指先は完全にカップから離れ、彼に向かってぴんと伸びている。
危うく答えてしまいそうになるのをぐっと堪える。
AメロからBメロに変わる直前の一瞬の掠れ声であるとか、
サビ前のぞくりとするようなファルセットであるとか、
ぴんと張られた弦が震えた時のような美しいビブラートであるとか、
泣くのを堪えるのが随分大変だったこととか、
伝えたいことはたくさんあった。それでも――、
『とても良かったです』
本当に伝えたいのはそんなシンプルな一言なのかもしれなかった。
そんな簡単な言葉を吐き出すことも出来ず、昌明――晶はひたすら俯いていた。




