♪23 WONDER”C”恵比寿スタジオ
「おや、飯田君じゃないか」
渋谷区恵比寿にある『WONDER”C”恵比寿スタジオ』の廊下で、後ろから声をかけられた晶はびくりと肩を震わせた。場所が場所なだけにさすがに例の『女の恰好』はしていなかったのだが、それでも基本的な変装はしていたはずだったのだ。聞き覚えのある声にぴんと背筋を伸ばし、ゆっくりと振り向く。「小出町さん……」
御年68のその男性は、トレードマークであるべっ甲縁の眼鏡の奥にある瞳を細め、にこりと笑った。
小出町慶といえば、主に幼児向けアニメソングの楽曲を手掛ける大御所作曲家である。晶も駆け出しの頃は世話になった――と言いたいところだが、正直なところ、音楽的な部分で彼から教わったことはほとんど無い。せいぜい、作曲家の○○は酒癖が悪いから飲みの席では近づくな、であるとか、作詞家の〇〇と組む時は絶対にアップテンポの曲は作るな、といったこの業界内での泳ぎ方くらいである。彼自身、そこまで面倒見が良い方ではなく、どちらかといえばかなりアクの強いタイプにカテゴライズされる御仁なのだが、それだけに晶とは波長が合うらしい。
「何もそんなコソコソしなくたって、堂々と入ればいいじゃないか」
「いえ、その……」
「ほぅ。もしかしてサプライズというやつかい」
「あの、えっと……」
「ほぅ。そういえば彼は君の歌しか歌ったことが無いんだったね」
「……はい」
「じゃあ、アナウンサーとしての彼の歌を聞きたい、ということかな」
「はぁ……」
「ふむ。確かに飯田君の姿を見たらユニットの方のスイッチが入ってしまうかもしれないな。……よし」
小出町は勝手にペラペラとしゃべり、一人で納得した。晶はそれにただ乗っかるのみである。それでも話が晶の都合よく進んでいくのは、やはり『波長が合う』からなのかもしれない。
「変装してるつもりかもしれないけど、僕から言わせるとね、甘い。甘すぎるんだよ」
「はぁ……」
どうだい、これならバレないだろう? と小出町は得意気に顎髭をさする。
晶は彼が愛用しているざっくりとしたアイボリーのニットカーディガンを羽織り、中に大量のタオルを詰めて身体のラインを変え、膝には厚手のブランケットをかけた状態で車いすに座っている。黄色味がかった眼鏡をかけ、大きめのマスクを装着し、これまたざっくりと編まれたニット帽まで被って。
暑い……。
ただでさえガンガンに暖房の利いた室内である。小出町の好意により、乾燥防止にと設置された加湿器のすぐ近くにいる晶は、自身の汗とその湿った空気でふやけそうだと思った。
小出町の親戚の子と紹介された晶は、極度の人嫌い且つ病弱という設定のお蔭か、誰からもべたべたと囲まれることなく、章灯のアフレコ姿を見学することが出来た。
宣伝用の公開アフレコはテレビで見たのだが、カメラが入っている時と今回のように入っていない時ではやはり何かが違う。特に普段からカメラの前でしゃべる仕事をしている章灯は、つい番組を盛り上げる側のアナウンサーとしての顔がちらちらと出てきてしまうのだ。それに、当然だが物語の要となるようなシーンは流れない。そう、例えば――、
『下賤の者め! 余の姫に触れるな!』
『だ……っ、誰だっ!?』
『柑橘城11代目当主、甘夏章之進だ。我が妻、エリ姫を助けるため、ただいま参上仕った! 覚悟!』
虚弱で泣き虫だったという柑橘城の殿様が、幼い頃に一度だけ会った男勝りのお姫様に見合う男になるため、必死の思いで身体を鍛え、そして十数年後、許嫁となった姫を助けるというシーンである。
レコーディングの時のようにガラス一枚隔てた向こうにいる章灯は、レコーディングの時とは異なって多くの人の中にいた。本職の声優達と比べれば決して完璧とは言えないけれど、ヒロインである千石英梨と比べれば――いや、歴代のゲスト声優と比べても上位に食い込むほどの演技力である。
章灯さんは本当に何でもそつなくこなすなぁ。
しみじみとそう感じる。
『姫、エリ姫、御無事だったか』
『章……じゃなかった、章之進様……』
『章で良い。姫は余の妻なのだから』
『章……。随分とたくましくなったのね』
『どうだ。姫に見合う男になれたかのぅ?』
『どうかな。馬には上手に乗れるようになった?』
『もちろん。ここまで我が愛馬ハッサクと共に参ったのだからな』
『ふうん。刀だけじゃなく、弓も打てるんでしょうね』
『もちろん。姫の望みとあらば、我が柑橘城から藤色城まで矢文を射って見せようぞ』
『あはは、いらないよ。その様子だと、もう蛇も大丈夫そうね』
『――ぐぅっ! 蛇だけは……』
『なっさけないわねぇ。蛇を克服するまで結婚は無しよ!』
『そ、そんなぁ!』
頼り甲斐のある青年に成長した章之進だったが、ここぞというところでいまいち恰好つかない。まるでテレビの中の章灯さんのようだと晶は思った。いや、それは失礼かな。




