♪18 『月がきれいですね』
「章灯さんにずっと隠していたことがあります」
家の近くの和食屋で天ぷらを食べ、さぁ後はコンビニにでも寄ってから帰ろうか、という段で、晶は立ち止まった。その表情は険しい。
――ついに来たか。
覚悟なんて全然出来ていない。
こんな顔をしているのだ、どう考えても自分にとって好ましい『隠し事』のわけはない。
あぁ、俺は今日、アキに捨てられてしまうのだ、と章灯は観念したように目を瞑った。
「もう少しで着くから、家で聞く」
やっとそれだけ言い、力なく笑って歩き出す。手は繋いだままだった。この手は離れてしまうのだろうか。そう考えると鼻の奥がつんとする。
全く女々しいやつだ。
心の中でそう毒づいて、込み上げてきた涙が零れないように上を見た。
「……月、きれいだな」
誤魔化すようにそう言ってみる。聞き取れるか否か、というくらいのごく小さな声で。さすがの晶にもきっと届いてはいないだろう。『I love you.』 を『月がきれいですね』と訳したのは夏目漱石だったか、等と思いながら。
――事実、確かに月のきれいな夜だった。そして、彼女を愛しているということもまた。
家に帰り、うがいと手洗いを済ませ、先に軽くシャワーを浴びる。部屋着に着替えると、再びリビングに戻って晶を待つ。髪が濡れたままの晶がやって来たのはその15分後のことだった。
「お待たせしました」
「そんなに待ってねぇ。つうか、いいのか、髪? 乾かしてから来りゃよかっただろ」
「あ――……、いえ、良いです、このままで」
「そうか……?」
「大丈夫です。すぐ乾きますから。えっと、それで、あの……」
「まぁ立ち話もなんだから、座れよ」
首にかけたタオルをいじりながらもじもじしている晶に精一杯優しい声をかけ、自分の隣をぽんぽんと叩いてみせた。それに晶は泣きそうな顔で首を振る。
「準備……してきますので」
震える声でそう言うと、章灯が一体何の準備なのかと問いかける前にリビングを出て行ってしまった。
準備と言ったが、果たしてどれくらい待たされるのだろうか。
テレビでもつけようか。いや、これから大事な話をするわけだから、さすがにそれはないだろう。じゃあ本でも――いや、いまの精神状態では内容なんて確実に入ってこない。ならいっそ酒でも――。
そう思って立ち上がり、すたすたと冷蔵庫へと向かう。何も泥酔するまで飲むわけじゃなし、ほんの少し、これから感じるであろう様々な痛みを緩和してくれたらそれで良い。そのつもりで冷蔵庫の扉を開いた。が――、
「……無い」
確かビールが1、2本くらいは入っていたと思ったのだが、どこを探しても見当たらない。あるのはオレンジジュースと牛乳、それからミネラルウォーターくらいである。
「昨日飲み切ったんだっけか」
昨夜の記憶はある。ただそれは晶との会話のことであって、自分がどれだけのギネスを空けたかという部分は朧気だ。
「仕方ない」
そう呟いて扉を閉めるのと、ノートパソコンと大量の紙の束を抱えた晶がドアを開けたのはほぼ同時だった。ソファに座っていたはずの章灯が消えていることに気付き、不安そうにキョロキョロしている。
「悪い、こっちにいた。何か飲むか? ――まぁ、ノンアルコールしかねぇけど」
「……いえ、大丈夫です」
晶はちらりと章灯を見やり――、そして目を伏せた。
大丈夫と言われたものの、念のためにとミネラルウォーターのペットボトルとグラスを2つ持ってリビングに戻る。中央にあるテーブルの上にはノートパソコンと紙の束――それは譜面だった――が置かれていた。章灯はペットボトルをラグの上に、2つのグラスをテーブルの端に置いた。
ソファへと戻った章灯はテーブルの上の譜面に視線を落とした。少しは読めるようになったとはいってもそれは自分の歌う部分だけであって、ギターのコードなどはさっぱりである。とりあえずいま彼が読み取れることといえば、いつも渡されるものよりもだいぶキーが高そうだということだけだった。
「アキ、隠してたことって――」
「はい」
「これのことか?」
「そうです。ただ、これだけでは無くて、その、これは副産物というか――」
副産物? と首を傾げる章灯の目の前で、晶はパソコンを操作し、ミュージックプレイヤーを起動させた。そして一度ためらうような素振りを見せてから――再生をクリックした。




