表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
果樹園の指と釣具店の声  作者: 宇部 松清
Extra chapter Ⅳ my girl (2011)
194/318

♪1 空洞を埋めるもの

 告知通り、今回は自称『日本一セクシーなベーシスト』こと湖上勇助が主役の話です。

 更新はいつもどおり、平日月~金(祝日除く)の10:00となっております。

 回を重ねるごとに長くなってしまっている番外編ですが、ぜひ最後までお付き合いくださいますようお願い申し上げます。

 大したことは呟いていませんが、Twitterの方も見ていただけると嬉しいです。#果樹園の指と釣具店の声

「疲れた疲れたーっと」

 そんなことを呟きながら共用ホールのオートロックを解除する。集合ポストに入っている様々なチラシを、ざっと目を通してからそれ専用のゴミ箱へと突っ込んだ。個人宛のものは何一つ無い、不特定多数へ向けた数打ちゃ当たるのセールスチラシである。独身なのに家なんて買うかよ。

 エレベーターに乗り、5階を押す。右手に持っているのは国産ビールとつまみが入ったコンビニ袋。左肩には商売道具であるベースが入ったハードケースをかけている。

 大きな観葉植物の鉢がいくつも並んだ廊下をとぼとぼと歩くと、どこの部屋からか美味そうな夕餉の香りが漂ってきて、そういうものを作って待っていてくれる者がいないことに寂しさを感じ、やはりどこかで食べてくれば良かったかなと後悔した。腹が膨れていればきっとここまでは辛くない。隙間があるから、空洞があるから、感傷ってやつが入り込んでくるのだ。

 いっそいまここで食ってやろうか。

 そう思って手に下げたコンビニ袋を顔の前まで持ち上げ苦笑する。自分の奇行には慣れっこになっている大家もさすがに呆れるだろうか。


 湖上こがみ勇助。

 来月の20日で42を迎えるサポート専門のベーシストである。

 独身、血の繋がらない娘が2人。


 この年になると『独身』という言葉が殊更身に染みる。孤独死なんてものが社会問題になっているからなおさらだ。まだまだそんなことを考える年でも無いというのに、行き遅れるのではと心配していた方の娘も何とか結婚相手が見つかったということで肩の荷が下りきってしまうと、後は自分の人生しか残っていないのであった。

 孤独死ったって、別にあいつらに見捨てられたわけでもねぇし。

 ただ1人で暮らしているというだけで、自分には可愛い娘が2人もおり、(うち1人は可愛くないが)可愛い婿もいる。すぐ近くには親友とも戦友とも呼べる仲間もいるし、行きつけの店だってたくさんあるのだ。

 そうそう、孤独死ってのはさ、そういうやつらが1人もいねぇ爺さんがなるもんだ。俺には関係ねぇよ。

 そう言い聞かせながらもぽっかりと空いている心の隙間には先ほどの美味そうな香りが入り込んで充満してしまっている。そしてそれは自分の部屋に近づけば近づくほど強くなり、きっと隣のオバちゃんだと思って湖上は「参った」と頭を掻いた。

 ポケットからカギを取り出し、鍵穴に差し込む。「――お?」

 どうやら自分はうっかり施錠をするのを忘れて出てしまっていたらしい。朝バタバタしてたからな、と思いながら、仮に空き巣に入られたとして、盗られてやばいものがあっただろうかと部屋の中のものを思い出す。仕事道具であるベース類は貴重なもの、高価なものは事務所に置いてあるので、家にあるのは練習用の割と安価なやつが2台だ。金庫なんてものは無いし、貴金属の類もさほど高価なものはない。でも――、

 写真とかDVDは困る。

 かおるあきらが小さかったころの写真。その中には皐月も写っていて、変わらぬ笑顔を向けてくれているのだ。そして、皐月が演奏しているところを収めたDVD。もちろん発売なんてされていないから、もし空き巣がSATSUKIのファンだったりすれば何にも勝るお宝である。

 ただ写真については郁と晶も同じものを持っているし、DVDにしたって事務所に保管されているものをダビングしたものだ。もしものことがあっても複製することは可能だ。

 いや、待て待て。本当の本当に世界でただ1つしか無いものがあるじゃねぇか。

 それはあの2人が自分に向けてプレゼントしてくれた絵や折り紙等の作品、それから作文にテストの答案、そして成績表。意外に几帳面なところのある湖上はきっちりとファイリングして保管してあるのだった。

 あれは絶対に盗られたらまずい! ……って言っても、そんなのを盗ってく泥棒なんていねぇか。

 わずか数秒で様々な考えを巡らせていた湖上は、いい加減にしろと催促する自身の腹の音で我に返り、誰ともなしに「わかってるよ」と呟いてドアを開けた。

 が――。


「あ、お帰りなさぁ~いっ」


 開けた瞬間にふわりと漂ってきたのはさっきまで湖上を悩ませていた夕餉の香りである。何だよ発生源はここかよ。などとのん気に思っている場合ではないというのに、目の前の光景があまりにも非日常すぎて、処理が追いつかなかった。

 晶からプレゼントされて愛用している黄色いエプロンを身に着け、お玉を片手に駆け寄って来たのは、薄茶色の長い髪を後ろで1つに結わったセーラー服の少女である。


 誰だ、お前。


 そんな単純な言葉すら出て来ないほどの衝撃。

 空き巣? これはまた随分新しいタイプの……。いや、それとも新手の詐欺? えーっと、勝手に上がって夕飯を作り、食べたら怖ーいお兄さんがやって来て……、とか?


「ねぇ、どうしちゃったの? 早く食べようよ。あたし、お腹空いちゃった。待ちくたびれたんだから」

 もしかして幽霊? もういっそそれくらいの方が納得出来るというところまで考えていた湖上の手を、少女はぐいと引っ張る。

 何だよ、クソ。実体あるんじゃねぇか。てことは幽霊じゃねぇじゃん。

 ここまで来ると幽霊の方が良かったと思いながら、湖上は彼女に引っ張られるがまま、部屋の奥へと入っていった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ