♪8 大事な耳
「おぅーっす、勇人!」
アニソンフェス前日の午後7時である。
国産ビールの6缶パックと、恐らく勇人への手土産であろう買い物袋を持参した湖上が長田家を訪ねた。
たまたま両親が不在時に忘れ物を届けるなどという、ちょっと疑ってみれば怪しすぎる晶の来訪の次に湖上がやって来たとあって、さすがの勇人もこれは何かあるのではと思い始めている。とはいえ、晶の方は完全に偶然だったのだが。
「勇助君、どうしたの? 明日本番でしょ。いいの? 練習しなくて」
そう言いつつもちゃっかりと買い物袋の中の菓子を受け取る。
「そんなん終わったに決まってんだろ」
大きな手で勇人の頭を上から押さえつけるようにわしゃわしゃと撫でると、彼はそれから逃れようと身をよじった。
「ちょっ……やめっ……」
しかしそれを湖上が許すわけもなく、とうとうヘッドロックの体勢にまで持ち込まれ、勇人は逃げる術を失った。
やっとのことで湖上の手から解放されると、さんざんに乱れたヘアスタイルを手櫛で整えた。いっちょ前に色気付く年頃なのである。
「勇人またでかくなったな。そのうち父ちゃん超すだろ」
「いま155。父さんよりもまずは晶君だよ」
「アキは小せぇからなぁ」
「小さくないよ。恰好良いもん!」
「何だよ恰好良さに比例すんのか。そんじゃ俺くらいになると巨人レベルじゃねぇか」
「勇助君は晶君の次かな」
「ちぇー、何だよぉ。アキより下かよ」
湖上は口を尖らせたが目尻は下がっている。自分の娘が誉められて嬉しくない親などいない。
「何やってんだお前ら、玄関で。コガ、ビール温くなるぞ」
リビングに続くドアからひょっこりと顔を出し、湖上に向かって手を伸ばす。湖上はその手にビールを託し、勇人に勧められた客用スリッパを履いた。
「咲が出てるからつまみはこれしかないぞ」
そう言ってスナック菓子を袋のまま出すと、湖上は「上等上等」と言って早速持参したビールを開けた。
「珍しいな、俺はてっきりアキん家に行くと思ってた」
「行ってきたぞ。飯食いに」
「飯だけ食ってこっち来たのかよ」
「だけじゃねぇぞ。ちゃんと打ち合わせもしてきた」
「何だよそれ。俺抜きでか」
「ぐへへ。立ち位置の確認だからな。ケツに根っこが生えてるオッさんには関係ねぇんだ」
「あっそ」
2人のやり取りをチラチラと気にしながら、『全く興味はありません』といった表情で携帯ゲームに興じる振りをする。それは勇人のクラスでも流行っているアクションRPGだったが、イベント発生中の台詞選択画面で止まったままだ。カーソルは一番上の台詞のところで点滅している。
ほら、やっぱりドラマーなんて打ち合わせにも必要ないくらいなんだ。やっぱりギターやベースの方が絶対恰好良い。
「あぁそうそう、オッさんよ。アキがなぁ、イヤモニの調子が悪いってよ」
「おいおいマジかよ。さすがにいまから新しいの用意すんのは厳しいな。予備はねぇのか」
「予備は無くもねぇんだけどよ、アキだぜ?」
「あぁ――そうだな。合わないやつをつけるくらいならいらねぇって言うか。まぁ、何とかなるだろ」
イヤモニ、つまりイヤーモニターというものの存在は勇人も知っている。勇人がまだ小学校に入り立ての頃、健次郎の鞄に入っていたそれを興味本位で持ち出して壊し、咲に叱られたことがあったのだ。
「勇人、これは父ちゃんの大事な『耳』なんだ。これが無いと、父ちゃん仕事出来なくなっちまうんだぞ。それから、そもそも、人の鞄を勝手に開けたらダメだ。わかるな?」
やや感情的に叱る咲に対し、健次郎は必ずしゃがみ込んで勇人と目線を合わせ、大人と話す時のようなトーンで諭す。そうすると、何だか自分も一人前の男として認められている気がして、勇人は、絶対に同じ過ちをすまいと、心に誓うのだった。
そんな大事な『耳』の調子が悪いと聞き、勇人の心は落ち着かない。
大丈夫なんだろうか。父は何とかなるだろなんて軽く流したけれども、そもそも、それを大事な『耳』なのだと教えてくれたのも父なのである。
最早ゲームへの興味は1%もなく、2人の動向にのみ意識を集中させていた勇人は、その話の続きを待った。そうは言っても、2人共長いことこの世界でやって来たプロなのだ。何かしらの策はあるはずなのだ。
あいつらがどうしてもって言うから。自分はまぁ、行っても行かなくてもいいんだけど。
そんな体で行くつもりだった明日のフェスだったが、何だかんだで楽しみにしている自分がいる。
だから、出演者である晶も万全の態勢で演奏をしてもらいたい。
早く、早く安心させてよ。何か策があるんだろ? 勇助君、父さん!
「ま、オッさんのイヤモニさえ生きてればな」
「おうよ」
そう言って中年2人はガハハと笑い、各々の飲み物を呷る。
はぁ? 父さんのが何だって? いまは晶君の話だろ?




