♪17 鈍感と淡白
「先輩、今夜ご飯行きませんか」
隣の席の汀明花がそんなことを言ってきたのは、晶との共同生活スタートから10日ほど経った12月22日のことである。
章灯はその日の業務を終え、机上の整理整頓をしていた。
食べ歩きが趣味だという彼女は、毎日のように同期や先輩の女子アナに声をかけては美味しいものを食べに行っている。行先は話題のイタリアンや、洒落たフレンチだけではなく、赤提灯のぶら下がる安い居酒屋ということもある。さすがに赤提灯は1人で行くらしいが。
「良いけど、俺に声かけるなんて珍しいな。他にも誰かいるのか?」
明花が声をかけるのはいつも同性と決まっていて、大人数の飲み会でもなければ男性社員を誘うことなどない。
「いいえ、先輩だけです」
「何だ、女子全員に振られたか」
デスクの上の書類をそろえながら嫌味っぽく笑うと、違いますよーと明花もつられて笑う。
「駅前に焼き鳥が美味しい居酒屋見つけたんですけど、こないだ1人で行ったら酔っぱらったおじさんに絡まれちゃって……」
「成る程、つまり俺にボディガードをしろ、と……」
「お願いしますよ~。先輩だってここ最近飲みに行ってないじゃないですかぁ」
明花は両手を合わせて懇願している。
こいつは何でそんな必死なんだ……。
「どうすっかなぁ……」
もったいぶるように腕を組んで考えている振りをする。
いや、実際に考えてはいる。今日の夕飯何だろう、と。
「あれ? もしかして、先輩彼女出来たんですか? いっつもは飲み会の誘いなんて二つ返事じゃないですか」
顔の前で合わせた両手を傾けて、明花は不思議そうに見つめる。
「いないよ、彼女なんて。――良いよ、行くか。」
「やったぁ!」
明花は満面の笑みで万歳をすると、デスクの上のペンケースやポーチを無造作にバッグの中に放り込むと「さ、行きましょう!」と立ち上がった。
「落ち着けって。俺がまだだから」
興奮気味にバッグを抱えて目を輝かせている明花を両手でなだめると、自分の鞄にペンケースや書類をしまった。
「先輩って、かーなーり几帳面ですよね」明花は章灯を見下ろしながら感心したように言う。
「俺が几帳面っていうか、汀さんが大雑把すぎるだけじゃない?」
「まぁ……、そうとも言うかもしれませんね……。あはは……」
明花は苦笑いをして、頭を掻いた。柔らかそうなウェーブのかかったセミロングの髪が軽く乱れる。
「よし、行こうか。俺、場所わかんないから、ナビはよろしく」
鞄を持って立ち上がると、明花は「お任せください!」と言って右手でピースサインを作った。
つり革を握って、そこそこ混んでいる電車に揺られながら、晶にメールを打つ。
そういえば、アドレスを交換したものの、メールをするのはこれが初めてだ。
晶への連絡は湖上か長田がしていたし、章灯から連絡する時はいつも電話だった。
その上、課題であるデビューシングルの曲が完成するまでは、9時と12時に電話をかけて食事を促していたのだが、完成してからはその必要もなくなり、章灯から連絡することはほぼなくなったのである。
件名:夕飯
本文:局の子と飯食って帰る。1人でもちゃんと食えよ。俺の分は明日の朝食うから。
そういえば、晶との共同生活が始まってから、とんと飲みに行ってないことに気付く。
前までは同期やら後輩やらを誘ってちょくちょく飲みに行ってたもんだが。
だって、アキの飯が美味いんだもんなぁ……。何で俺は男に胃袋つかまれてんだ……。
そっちの方に目覚めたら、どうしよう……。
送信ボタンを押してがっくりと肩を落とす章灯を、明花は訝しげな目で見つめている。
「先輩……どうしたんですか?」
「え? いや、何でもない!」
慌てて取り繕うと、右手で握っていた携帯が振動し、さらに動揺する。「うぉ……! 意外と返信早いな……」ぽつりとつぶやいて、受信ボックスを開いた。
件名:わかりました。
本文:冷蔵庫に入れておきます。
さすがアキ、メールでも素っ気ねぇ。
「やーっぱり彼女じゃないですか!」
154cmの身長で精一杯背伸びをして、章灯の携帯を覗き込んだ明花がにやける。
「ちょっ……、見んなよ!」
慌てて携帯を畳み、胸ポケットにしまった。
「良いんですかぁ? 帰らなくて」
明花は先輩の秘密を握った、とでも言わんばかりの笑みを浮かべている。
「あのなぁ、彼女じゃないんだって。まじで」
「えー? 違うんですかぁ~?」
「男だぞ、晶って名前の」
ユニットのことさえばらさなければ名前出しても良いよな。
「男の……人……。先輩って……そっちの……?」
「いや、だから! そういうんでもないんだって! 俺に男の友人がいたらダメなのかよ!」
「お友達……」
「そ、友達だよ。すげぇ料理が上手いやつでさ、ちょくちょく作ってくれるんだ」
これは間違っていない。
ただ、一緒に住んでいるとは口が裂けても言えない。
「なーるほど。最近は料理が得意な男の人って多いですもんね。『WAKE!』でも好評ですよね、『ササっとごはん!』」
明花の話題が『WAKE!』の料理コーナーに移り、ホッと胸をなで下ろす。
『ササっとごはん!』は『WAKE!』内で2年前から始まった料理コーナーで、『平成の名脇役』との呼び声も高い個性派俳優・笹川隆之が、冷蔵庫の残り物や、めんつゆやすき焼きのたれなどを大胆に使って手際よく料理を作るという内容だ。簡単で美味しいと評判が良く、レシピ本も売れ行きも好調である。
「笹川さんのなら俺でも作れそうな気がするんだよなぁ……。結局、気のせいで終わるんだけど」
痴漢冤罪防止にと、鞄を肘に掛けて両手でつり革を持ち、吊り広告に視線を合わせながら呟く。
「先輩は料理苦手なんですか?」
「最後に包丁握ったの何年前かな……。中学の調理実習かな……」
ちょっと大げさに言ってみる。さすがに1人暮らしが長いと必要に駆られて包丁くらいは握るのだが。
「そんなレベルですか……」
明花が目を見開いて絶句する。
「汀さんは得意なの? 食べるのが趣味だって言うくらいだし」
「いや、私は食べる専門で……。出来ないわけじゃないんですけど……」
「あれ? 意外だな」
「第一、得意だったら、こんなに外食ばかりしないですよ!」
「それは確かに」
そう言うと、明花は照れくさそうに笑った。
明花が案内した店は、お世辞にも綺麗とは言えないタイプの居酒屋だった。
そりゃ、こんな店に小奇麗なOLが1人で乗り込んだら絡まれるだろ、そう思ってため息をつく。
「汀さん、確かに料理も酒もすげぇ美味いし、俺も個人的には好きなタイプのお店なんだけどさ」
カウンター席に並んで座ってハツを食べながら章灯が切り出す。
「ね。美味しいですよね? 大将! ネギま下さい! 先輩も食べますか? ――じゃ、2本! 塩で!」
尋ねたものの、彼の返事を待たずに元気よく手を挙げ、焼き場にいる大将に注文する。
「いや、あのさ。こういう店に1人で行くのはあんまりお勧めしないよ、俺は」
「え? 何でですか? 前回はたまたまですよ、きっと」
右手にはぼんじり、左手にはビールの中ジョッキを持って、明花はご機嫌だ。
「はぁ。前回はそりゃたまたまかもしれないけどさ。一応女子アナなんだし、イメージっていうか……」
「あいよ、ネギま!」
身を乗り出した大将が章灯と明花の間にネギまを置く。
「ありがとうございます! 美味しそう! さ、先輩もどうぞ!」
「ちょ、聞いてる? 俺の話……」
「聞いてます、聞いてます。イメージですよね? 確かにそうなんですけど、毎日洒落たお店っていうのも疲れるんですよねぇ」
口の周りを肉の油まみれにして串にそのままかぶりつく。
普通、こういう小奇麗な子って、ちまちまと串から外して食うんじゃねぇの……? そりゃそっちの方が良いけどさ、俺は。
「とりあえずさ、気を付けなよ、いろいろとさ。嫁入り前の女の子なんだし」
「先輩って、ほんっと、テレビのままですよね」
ジョッキのビールをごくごくと飲んだ後で、明花が感心したように言う。
「――え?」
「THE好青年ていうか……。真面目ですね、ほんとに」
「それは、嫌味? それとも褒めてる?」
「えー……っと、どっちも……ですかね。あははー」
「どっちもかよ。言うねぇ、汀さん」
「そういうところもですよ!」
明花はびしっと章灯を指差す。
「――は?」
「いつまでも『さん付け』なんですから! 春から一緒に仕事するんですよ? 席も隣なのに!」
「そんなこと言われても……」
「私のこと『さん付け』してるのなんて、もう局では先輩だけですからね!」
明花は口をとがらせて頬を膨らませた。
「そうだっけ……?」
「あーあーもう、先輩は意外性がないんですよねぇ~」
明花はぐいっとビールを呷り、空になったジョッキを高々と上げると「大将! ビール!」と叫んだ。
「意外性か……」
春から俺がロックユニットでヴォーカルやるなんて知ったら、びっくりするだろうな、この子……。
2時間ほど飲み食いし、店を出る。
結構な量を飲んだはずなのに、明花の足取りはしっかりしている。酒は強い方らしい。
「家、どの辺だ?」
章灯が問いかけると、明花はにこにこと笑っている。
「家、近いですよ。すぐそこです。歩いて帰れますから、ご心配なく」
そう言って、敬礼をしてみせた。
「歩いて帰れる距離なら送るよ。危ないだろ」
「キャー、先輩、紳士~」両手を頬に当てて大げさに喜ぶ。
「良いから、そういうの。ほら、行くぞ。どっち?」
「はいはい、こちらですよぅ~だ」
まっすぐは歩けるものの、言動はいろいろとおかしい。
「先輩、クリスマスってどうするんですか? 局内で飲み会する人もいるみたいですけど」
「クリスマスったって、仕事だよ。ド平日なんだし」
「明日はお休みじゃないですか。何かしないんですか? まさか晶君と2人っきりで過ごすんですかぁ~?」
「野郎2人のクリスマスか……。きっついなぁ」
料理こそそれっぽいのは出てくるのだろうが、陽気なクリスマスにならないことだけは想像出来る。
それならいっそコガさんとオッさんも呼んで……。
野郎の人数が増えるだけだが、これなら少しは『陽気なクリスマス』になりそうだ。
「いやもう、いっそ思い切って男4人でやるわ、クリスマス。逆に吹っ切れて良いかも」
そう言って苦笑すると、明花は呆れたような顔をした。
「女っ気ないなぁ、先輩は」
「女かぁ……」
ぽつりとつぶやくと、郁の顔が浮かんだ。
「声かけてみるかな……」
「――え?」
「いや、知り合いの女の子に声かけてみるかなって思って」
「何だ、いるんじゃないですか!」
「さすがに女の知り合い0ってことはないよ」
そうだよ、マネージャーの白石さんもいるし……。
……って、俺、それ関係しかいないじゃん! マジかよ!
しかも、よくよく考えてみれば郁さんって、男じゃねぇか!
「先輩?」
しばし愕然としていると、心配そうに明花が顔を覗き込んでくる。
「いや、何でもない。何でもない」
「まぁ、でも、当てがあるなら良いです。何もないなら私がお相手しようかと思ったんですけど」
「へ? 汀さんが?」
「ほら、また『さん』をつける!」
「いや、いきなりはさ……」
「もし、その女の子に振られたら、声かけてくださいよ。野郎4人でも溶け込んで見せますから!」
「女の子が『野郎』なんて言わないの」
「もぅ、ほんとに先輩は! そういうとこ! ……って、着きました。ここです」
マンションの玄関の前でぴたりと止まる。
「お? ここか。んじゃ、お疲れ」
そう言って、Uターンしようとすると、「上がって行きますか?」と声をかけられる。
「いや? 帰るよ」
笑いながらそう言うと、明花は「だと思いました」と笑った。
「ありがとうございました。また飲みに行きましょうね」
丁寧に頭を下げると、その場で姿勢よく立っている。章灯が見えなくなるまでここにいる気なのだろう。
「寒いから、入んな。そういうのは俺よりもっと偉い人にやれば良いから」
そう言って、手を振る。
「でも……」
「せっかく良いこと言ったんだから、俺の顔を立ててよ。ほら、入った入った」
困った表情で両手をぷらぷらと振ると、明花も観念したのか、ぺこりと頭を下げて玄関のドアを開けた。
ドアが閉まったのを確認して、Uターンし、駅までの道を歩く。
そこでふと気付く。
あれ? 俺誘われてたんじゃね?
うっわぁ~、鈍すぎねぇ?
い、いや、でも、後輩に手を出すと後々面倒な事になるしな。
そう自分自信を納得させてみる。
……もったいないことした、ってやつか?
運良く空いていた席に座り、思い出してはうな垂れる。
うな垂れるのは、もったいないことをしたという後悔ではなく、まして自分の鈍さにでもなかった。いま振り返ってみてもさして残念だとも思わない、という事実に、である。
俺ってここまで淡泊だったか?
もっとがっついてた時期もあったろ。
もしかして、俺、枯れてきた……?
章灯は電車を降りてとぼとぼと家路についた。




