♪9 カレーは正義
「やっぱカレーは正義だよなぁ」
2杯目のカレーをぺろりと平らげた湖上が満足げな表情で腹をさする。その腹は胃袋の膨張に合わせて出っ張っていたが、不思議とだらしない印象は受けない。恐らく40過ぎという実年齢に不相応なほどきっちりと鍛えられているからだろう。
「コガさん、カレーだとすげぇ食いますよね」
そう言う章灯の方も既に2杯を食べ終え、3杯目を諦めたところである。悲しいことに、いくら食べても太らない時期はとっくに過ぎてしまっていたのだ。
「なんてったってアキのカレーは最高だからな!」
そう言うと喉を鳴らしてギネスを飲み、盛大にげっぷをしてみせた。
「つってもベルモントカレーですけどね」
呆れたような顔で湖上を見つめる晶に代わって章灯がやや投げやり気味に答える。めんつゆすらも手作りをする晶だが、カレーだけは市販のルゥを使うのである。それは他ならぬ湖上のリクエストなのだった。
「いいじゃねぇか。俺はカレーはベルモントって決めてんだよ」
空になったギネスの瓶を振り、お代わりを要求すると、章灯ははいはい、と言いながら腰を上げた。
「晶さんならスパイスから作る本格的なカレーもぜぇーったい絶対美味しいと思います!」
ねっ、と首を傾げて隣に座る章灯に同意を求めたのは、無理やり食事会への参加資格をもぎ取ったカメラである。
彼女はカレー用のものよりも一回り小さな皿に盛られたカレーをちびりちびりと食べており、美味しいと言う割りに一向に完食の気配がない。
少食アピールなんて、アキ的にはかなりの減点行為だぞ。
章灯はもうすっかり冷めているであろうカメラのカレーを見てため息をついた。
「カメラちゃん、早く食わねぇと乾いちまうぞ」
カメラの皿を覗き込みながら、湖上が言う。それはおどけたような茶化すようなトーンだったが、付き合いの長い章灯にはわかる。彼はとてもイラついている、と。
「あたしぃ、昔から食べるの遅くてぇ~」
スプーンを口元に当て、困ったように眉を潜めながら首を傾げてみせる。湖上を上目遣いで見つめ、みっしりと隙間のない睫毛をアピールするかのように瞬きを数回した。
章灯、俺、限界。
――聞こえた。コガさんの心の声が。
カメラに向かって身を乗り出した姿勢で固まっている湖上を見て、章灯は思った。
あーぁ、これでコガさんもアウトだぞ。全く、市場調査が甘過ぎる!
これ以上彼女の立場が悪くなる前にどうにかしないと、と章灯はミネラルウォーターをごくりと飲んだ。
「あの、カメラちゃ……」
章灯の言葉は、ピリリリリ、という着信音でかき消された。ラグの上に置いていたスマートフォンの画面をちらりと見て、カメラはうんざりしたように大きくため息をつく。「兼定……」
「はい、もしも――……」
通話をタップし、スマホを耳元に当てる。そして次の瞬間、耳を近付けなくともハッキリと聞こえてくるほどの怒声が漏れ聞こえ、彼女はびくりと身体を震わせた。
「こンの馬鹿者がぁっ! いまどこにいるっ!」
「えっ? え――……っと、晶さんの……お家……」
「馬鹿野郎っ! いますぐ帰れぇっ!」
「やぁーだ、兼定ったら、晶さんがあたしに何かすると思ってるの? ……まぁ、あたしは構わないけど」
ピンクのチークを丸く入れた頬をさらに赤らませ、カメラは身をよじらせた。そして、晶に向かってウィンクをする。それを晶が好意的に受け取る――わけはなく、怪訝そうな表情で一瞥しただけである。
「逆だ逆っ! AKIさんに何かしてみろ、お前、この業界では生きていけんぞ! ――もう、いい、代われ。近くにSHOWさんがいるだろ。早く!」
早くっ! と急かされ、カメラはしぶしぶスマートフォンを章灯に手渡した。晶の代わりに電話に出るというこの手のパターンにすっかり慣れっこになっている章灯は、苦笑いをしながらそれを受け取る。
「はい、SHOWです。お電話代わりました」
「申ッし訳ございませんっ! ウチの馬鹿が!」
「いっ、いえいえ、そんな……!」
おいおい自分トコのタレントを馬鹿とか言っちゃうのかよ、という驚きで、思わず「そんなことありませんよ」と彼女をかばいそうになってしまいそうになるのをぐっと堪えた。頭の良し悪し云々はさておくとしても、どうやら彼女が『馬鹿』であることは否定出来ないと思ったからである。
「いますぐに叩き出していただいて構いませんので」
「いや、さすがにそこまでは……」
まぁ、すぐ出てってもらいたいのは本心だけれども。
「ホラ、カメラちゃん、身支度、身支度。タクシー呼んでやるから。な?」
明らかに笑いをかみ殺している湖上に急かされ、カメラは名残惜しそうに身支度を始めた。晶は彼女の皿を持ってすたすたとキッチンへ歩いていく。それを見送って、湖上はスマホを手に取った。
「ええと、いまタクシー呼びましたんで。こちらこそ大事なタレントさんをお借りしてしまって申し訳ございませんでした」
100%本心ではないが仕方がない。これが社会人のやりとりってやつなのだ。
「お手数をお掛けしまして申し訳ございません。後日改めて謝罪に参りますので!」
「いえ、もうほんとに……。あの、カメラさんに代わりますんで」
もう勘弁してくれ。章灯はそう思った。




