#98 佐保姫の泣血(腥風に散る命の灯5)
「ズキューン!」
真上から打ち下ろされたビーム攻撃が黒き獅子の背中を貫く。何だ、どこから攻撃されたと言うのだ。まったく予想し得なかった攻撃に黒き獅子は戸惑いを隠せない。またそれ以上に体へのダメージが深刻なのである。このままでは本当にマズイ事になるぞ。
黒き獅子は堪らずに賽唐猊から距離を取ろうと後退する。いや、もう飛んでいる体力すら残っていないのか、獣神は急降下して地面への着地を試み出した。だがそんな黒き獅子をトウェインは逃がさない。
「地上へ戻って回復するつもりか! でもそうはさせんぞ。我が攻撃に死角はないのだからな!」
トウェインが強く叫ぶ。するとその声に反応し、東西南北から長距離ビーム砲が獣神に向け発射された。
「ズキュズキューン!」
四方から計12本ものビーム攻撃が放たれる。そしてそれらは的確に黒き獅子の体に直撃した。だがそれらのビームは僅かなところで獣神に届かない。黒き獅子は迦具土と呼ばれる透明なバリアを体の周りに形成し、ビームの直撃を避けたのだ。ただその一瞬の隙をトウェインは見逃さなかった。彼は獣神と大地の間に賽唐猊を割り込ませる。それは獣神を地面に辿り着かせない妨害姿勢だった。
「確か【久久能智】と言いましたか。大地の神であるあなたは土に触れさえすれば、ある程度の傷を回復させられる。そんな神秘的な力があるんでしょう。でもそれを私が黙って見過ごすと思いますか? これは殺し合いなんだ。敵の長所を潰し、弱点を徹底的に叩く。それが戦術と言ったものです」
「ハァハァハァ。さ、さすがはアダムズ軍の将軍なだけはある。捻くれてはいても、軍人としては超一流という事か。大したものだな、トウェイン。ハァハァ、それにしてもこのビーム攻撃。どこから打ち込んでいるのだ、余にはまったく予期できぬぞ?」
黒き獅子は苦しそうな呼吸をしながら問い掛ける。獣神にはまったく攻撃の予兆が利かないのだ。神であるはずの自分が、人間ごときの攻撃を避けられないなんて信じられない。悔しくも黒き獅子は身悶えするしかなかった。するとそんな獣神に向かい、トウェインはしたたかに吐き捨てる。ただそれは科学を愛した国王に対する皮肉でもあった。
「意表を突いた攻撃に驚かれた様ですね。でもこれこそが光子相対力学の粋を結集させた産物なのですよ。この賽唐猊の最大の強み。それは高い攻撃力や防御力ではない。それは人工知能【出雲】による電子的統制技術なんです。分かりますよね、国王。賽唐猊は出雲を通じ、世界中に張り巡らされたあらゆる通信網を自在に操れるんです。もちろん、この場所を見下ろす宇宙ですらね」
トウェインは賽唐猊の腕を空に向けながら言い放つ。人工衛星による監視体制を指し示しているのだ。そして彼は得意げに続けた。
「完璧に思われるあなたの予測も、さすがにこの星を越えた場所からの攻撃までは見通せない様ですね。まぁ、この星の輪郭に影響を受けない数多の衛星で監視しているのだから、仕方ないでしょうけど。さぁ、踊って頂きましょうか。軍事衛星からビームの雨を降らせますよ。迦具土のバリアでどこまで耐えられるか。私を驚かせて下さいね!」
「ズキュズキュズキュキューン!」
トウェインの言葉通り、宇宙から黒き獅子に向けて数十本のビーム攻撃が発射される。それは本当に光の雨だ。黒き獅子はバリアで身を守るしなかい。しかし高熱のビームが的確に、それも数十本も浴びせられるのである。凌ぎ続けるのは不可能だ。
獣神は苦悶の表情を浮かべる。だがトウェインはそんな黒き獅子を更なる窮地に追い込んだ。
獣神の真下に移動したトウェインは、賽唐猊の両肩に搭載された大型のガトリング砲で攻撃を開始する。これで黒き獅子は全方位から攻撃を受けている状態になった。みるみると迦具土のバリアが縮んで行く。するとそこでトウェインは次なる攻撃に打って出た。
「フェーズはセミファイナルだ。勝負を掛けさせてもらう!」
賽唐猊の両手両足にそれぞれ装備されていた小型のロケットが火を噴く。そして同時に発射された4発のロケットは、獣神を取り囲む位置で停止した。
「!?」
空中で制止する4発のロケット。それに訝しみながらも黒き獅子は身動きが取れない。でも気がつけば空からのビーム攻撃が止んでいる。何をするつもりだ。――と獣神が思った時だった。黒き獅子を中心としたロケットは、それぞれが電極の支柱となって高圧放電を発したのだ。
「グアァァ!」
黒き獅子が悲鳴を上げる。空中に形成された大型の電子レンジに押し込まれた。そんな状態なのだ。バリアも消え去り、さすがの獣神もこれには耐えられない。
「かつてこの場所で【銀の鷲】相手に実験させてもらいましたからね。この攻撃が有効なのは分かっている。でもね、やっぱりトドメは私の手で直接下すとしましょうか。これもまた、獣神に効果ありだっていうのは分かっていますからね!」
そう言ったトウェインは方天画戟を構える。すでに先端にある天乃尾刃張からは紫色の光が溢れ出ている状態だ。獣神を殺す手立ては揃った。
「銀の鷲もそうだったが、あなたに堪えられるのは二発が限度でしょう。だから私は容赦なく、天乃尾刃張を三発撃ち込ませてもらう。それがフェーズ・ファイナルだ」
「ま、待て、トウェイン。余を殺せば世界は終わってしまうぞ。それでも良いのか、お前は」
「今更命乞いですか、みっともないですよ国王。それに世界が終わる? ハハハッ、私はこの世界を終わらせようとしているんだ。そして私が新しい世界の王となる。迷う余地など何処にも無い」
「お、お前は何も分かっておらん。そ、そうではないのだ。世界が終わると言うのは、つまり――」
「ええい、黙れ! 諦めが悪いぞ! 私にとってあなたが渇望する【祝福】など興味ないのだ。それにあなたの代わりは存在する。少し困った特性を持ってはいるが、それでも【ノーベル】は天才なんだ。全てメモリーカードに保存されていた通りだしな!」
「やめろ、頼むからやめてくれ、トウェイン!」
「死ね、国王!」
背中のスラスタを最大に噴射した賽唐猊が黒き獅子に突っ込む。もちろん方天画戟を突き立てて。だが獣神とて黙ってはいない。危機的状況を打開する為に、黒き獅子は雷撃の塊を頭上に形成した。
「余の最大の攻撃力【武甕雷】で退けてやるわ!」
「引っ掛かりましたね。それを待っていたんですよ!」
「なに!? ――ボガァーン!」
巨大な雷撃の玉に接触した4発のロケットが破裂し、猛烈な炎柱を噴出させる。過電圧が発火の引き金になっていたのだ。4本の火柱が獣神の体を容赦なく包み込む。そしてその炎の塊目掛けてトウェインは方天画戟を振り抜いた。
「ズバッギャーン!」
凄まじい衝撃音が響く。と同時に炎の塊の中から丸焦げになった黒き獅子が弾き飛ばされた。
「グアァァ」
「まだまだ!」
獣神は為す術なく空中を漂う。ビーム攻撃、電磁波攻撃、火柱攻撃に方天画戟による致命的な斬撃。神をも凌駕する連続攻撃に手も足も出ないのだ。
「大地の神であるあなたの弱点は【火】だ。それは銀の鷲との戦いを見れば分かる。だから炎で最後の体力を削ったんですよ。そしてこれこそが神を殺す一撃だ!」
賽唐猊のスラスタが更に激しく噴射される。そしてトウェインは全力で天乃尾刃張を打ち立てた。体力を削ぎ落された黒き獅子は身動きが取れず、その斬撃を無防備に受け入れるしかない。
「ズバッゴォーン!」
一撃目と同じ胸の部分に斬撃が打ち込まれ、そこに十文字の傷が深く抉られる。すでに致命傷とも言えるダメージを与えたはずだ。でもエクレイデス研究所で銀の鷲は二発の封人剣に耐え忍んだ。まだ安心は出来ない。確実に息の根を止めるんだ。
肩のガトリング砲を打ち散らしながら黒き獅子に迫るトウェイン。真下から弾を撃ち込む事で、獣神を無理やり空中に留めているのだ。そして更にトウェインは追い打ちを掛ける。彼は徹底的に獣神を殺すつもりなのだ。
賽唐猊の大きな一つ目両目が真っ赤に光る。するとその両膝部分が変形し、長い銃口が顔を出した。トウェインはすかさずその銃口を黒き獅子に向ける。そして彼はそこから凄まじい火炎放射を発射した。
灼熱の炎がこれでもかと言うくらい黒き獅子の体を焼く。あまりの高熱で視界がグラグラに歪んで見える程なのだ。当然ながら獣神は虫の息である。いや、もう意識がないのか。だがこの状態こそがトウェインの望んだ神殺しの状勢なのだ。彼がこのチャンスを逃すはずはない。天乃尾刃張がこれ以上ないほど紫色に輝き、それを構えたトウェインは最後の一撃を黒き獅子に向け突き出した。
「さらばだ、王よ!」
強烈な一撃が獣神に打ち込まれる。完全なる勝利。これが神に勝つという事なのか。トウェインの胸の内が歓喜で溢れ返る。――がしかし、渾身の一撃は黒き獅子に届かなかい。
「なっ! ……どうなっている!?」
トウェインは目を疑った。なぜならそこに居るべきはずの黒き獅子がいないのだ。それになぜか周囲はピンク色の霧で靄掛かっている。確実に獣神の息の根を止めたはずなのに、まったく状況が掴めない。クソ、何が起きたんだ。トウェインは奥歯を強く噛みしめた。ただその時である。賽唐猊のセンサーが遥か上空に何かをキャッチした。
トウェインは急ぎ賽唐猊を上昇させる。間違いない、あそこに居るのは黒き獅子だ。でもどうやって移動した? 瀕死の状態だったし、意識だって無かったはず。でもまぁ良い。奴が虫の息なのは変わらないのだ。どこまででも追い駆けて殺してやる。トウェインはそう気持ちを駆り立てて空高く舞い上がった。だがそこで目にした光景に彼は息を飲む。そこには彼が思った通り、ボロボロになった黒き獅子がいた。でもそこにはもう一つの獣神である【紫の竜】までもが存在したのだ。
予想外の状況にトウェインは動揺を隠せない。これはどう見ても紫の竜が黒き獅子を守ったとしか考えられないのだ。まったく訳が分からない。混乱したトウェインは反射的に声を張った。
「どういう事ですか【主】よ。黒き獅子を討てと命じたのは【あなた】じゃないですか!」
「まぁ待て、トウェイン。状況は時間と共に変化しているのだよ。我ら獣神でも読み得ぬほどにな」
「でももう一撃で殺せるんですよ。このチャンスを無駄にするなんて私には認められません。どうか、私に最後の一撃を加えさせて下さい!」
「ならん! 黒き獅子にはもう一働きしてもらわねばならんのだ。だから消耗の激しい【頬那芸】の力まで使用して黒き獅子を瞬間移動させたのだぞ」
「し、しかし」
「ええい、いい加減弁えぬか! 優先順位を良く考えろ。我らが今倒さねばならぬのは銀の鷲なのだ」
「敵の敵は味方っていう理屈ですか。――――分かりました」
トウェインは渋々としながらも紫の竜の指令に従う。でも彼がその命令に納得出来ていないのは明らかだ。あと一撃で黒き獅子を倒せたのだから、その悔しさも一入だろう。しかしトウェインにとって紫の竜は主と呼ぶほどの存在らしい。彼は不本意ながらも受け入れるしかなかった。
「ふむ。聞き分けが良くて助かるぞ、トウェイン。それにしても黒き獅子よ、こっ酷くやられたものだな。しかし寝るにはまだ早いぞ。さぁ、目覚めよ大地の神よ!」
紫の竜はそう言うと、自身の長い尾を振り回す。するとその回転に促される様にして、巨大な竜巻が発生した。
「大地の鏡が手元にない以上、お前の傷を回復させるには地上に降ろさねばなるまい。一気に急降下させるぞ、黒き獅子よ。そして目を覚ませ、我が【下僕】よ!」
「ズヒューン」
竜巻に吸い込まれた黒き獅子の巨体が猛スピードで急降下して行く。いや、竜巻の吸引力で地面に向かい引き下げられているのだ。そして黒き獅子の体はあっという間に地表まで降下し、猛烈なスピードを保ったまま地面に叩きつけられた。
「ドガーン!」
土埃が高く舞い上がる。だが竜巻の風によってそれはすぐに吹き飛ばされた。巨大なクレーターが姿を見せる。黒き獅子が地面に落ちて出来た痕跡だ。ただその中心からヨロヨロと這い上がって来たのは他でもない、瀕死の状態であったはずの黒き獅子だった。
「ゼェハァ、ゼェハァ。ま、まさか【風木津別之忍尾】で地面に叩きつけられるとは思わなかった。まったく、扱いが酷くて敵わぬな。ゼェハァ。で、でも命拾いしたのは確かだ。トウェインめ、やってくれるわ。ゼェハァ、ゼェハァ……」
満身創痍であるのは変わらない。しかし黒き獅子は大地に触れる事で傷を回復させたのだ。目を見張る回復力である。さすがは神と言ったところか。ただそんな獣神の頭上に紫の竜と賽唐猊が舞い降りて来る。そして紫の竜は復活した黒き獅子に向かい言ったのだった。
「危ないところだったな、黒き獅子よ。そなたは人間を甘く見過ぎだ。これは忠告であるぞ」
「ま、まさか、あなたが余を救うとは考えもしませんでした。でもどうしてです? トウェインに下知したのはあなたなのではないのですか?」
「状況が変わっているのだよ。そなたの目の前にいる存在をよく見てみるのだ」
理由はよく分からないが、黒き獅子は紫の竜が促す場所に視線を向ける。ただそこで獣神はハッと驚いた。そこに居たのは地面に伸びた銀の鷲の姿だったのだ。
銀の鷲は誰が見ても瀕死の状態である。瞳の輝き具合から意識はまだ保っているのだろう。しかしこの体ではもう動けはしないはずだ。びしょ濡れになった全身からか細い水蒸気の煙が立ち上っているだけで、反撃して来る気配はない。だがそこで黒き獅子は思った。ここまで弱っているのなら、銀の鷲にトドメを刺すなど容易なはず。それなのに紫の竜はあえて自分を復活させた。そこにどんな理由があるというのだ。
恐らくそれは賽唐猊に乗るトウェインも同じ思いだっただろう。ただ紫の竜の命令は絶対なのである。それに紫の竜は状況が変化したと言っていた。それは一体何を意味しているのか。
黒き獅子とトウェインは訝しみながらも状況を見守っている。彼らには経緯を観察するしかないのだ。すると紫の竜はそれらを横目にしながら、瀕死の状態の銀の鷲に問い掛け始めた。
「そろそろ楽になりたくはないか、銀の鷲よ。いや、ラヴォアジエと呼んだ方が良いのかな。さぁ、教えよ。我が命の源である【海の鏡】の在り処はどこなのだ? この廃工場跡地にあるのは分かっているのだぞ」
紫の竜の瞳が薄緑色に輝く。口調は穏やかながらも、その奥には猛烈な怒気が潜んでいるのは明らかだ。海の鏡を早く取り戻したいのだろう。ただそんな獣神に向かい、銀の鷲は含み笑いを浮かべながら言った。
「フフッ。やはりあなた程の神だとて、鏡が無いと不安になるものなのか。し、しかし残念ですな、紫の竜よ。海の鏡を秘し隠したのは王立協会の科学者であった【ウォラストン】だ。私の知る所ではありませんよ」
「そちとグラム博士が【天光の矢】の発動を画策していたのは事実だろうに、この期に及んでまだ白を切るか? そちらが展覧会から海の鏡を奪取したのは全て知れた事実。それにそちにも分かるはずだ。私は海の鏡の所持者。どれだけ離れていたとしても、その場所は大凡見当がつくものよ。ほれ、早く教えるのだ」
「絶対的な力を誇るあなたも歳には勝てませんか、【ラザフォード総主教】。あなたは自分がどんな見当違いを言っているのか、お気づきにならないのですか?」
「何だと? はっきり申せ、ラヴォアジエ。私がどんな筋違いを申しているというのだ!」
「怒ってらっしゃいますね。それとも焦っているのですか? ならば私の方から一つ質問させて下さい。あなたほどの方が、どうして易々と海の鏡を持ち出されたのですか? そもそも国立美術館で開催された展覧会に出展など、普通に考えれば有り得ませんよね。それとも神であるがゆえの余裕ですか? いいや違う。あなたはただ、持ち出された事に気付かなかっただけなんだ!」
「何を血迷っている。そんなバカげた話があるものか。私は海の神だぞ。そちらをおびき寄せる為に、ワザと鏡を展示したに決まっておるだろう」
「同じ獣神である黒き獅子はフェイクを用意していた。例え神であっても、やっぱり命の源である天照の鏡だけは手放せないはずですからね。もちろん私だって同じです。それなのにあなたは何の手立ても講じず【本物】の海の鏡を展示した。トウェイン将軍が気を利かせて警備していなければ、それこそ他愛もないほど簡単に持ち出されていたはずですよ。ラザフォード総主教、あなたは一日にどれだけ正気を保っていられるのです?」
「た、戯けた事をホザクな! 私が正気を保っていないだと。冗談だとしても笑えんぞ、ラヴォアジエ!」
紫の竜ことルーゼニア教総主教ラザフォードは激しく怒る。だがそんな獣神に向かい、ラヴォアジエは血みどろの体を引き起こしながら言った。
「ハァハァ、その取り乱し方こそが証拠ですよ。だってあなたは自分でも気づいているはずなんだ。記憶障害が起きているんだとね。あなたは長く生き過ぎた。その代償がボケの始まりなんですよ」
「もう良いわ。貴様など死んでしまえ。海の鏡がこの廃工場跡地のどこかにあるのは分かっているし、大地の神である黒き獅子の力があれば、探し出すのは取るに足らない。だから貴様はもう用済みだ。死ね!」
紫の竜はそう吐き捨てると、自らの頭上に大量の水蒸気を発生させる。するとその水蒸気はあっという間に巨大な【水の塊】になった。
まるで空に浮かぶ【湖】そのものだ。それも瞬間的にこれほどの水の塊を空中に作り上げたのである。それだけで紫の竜の力がどれだけ凄まじいものなのか理解できるだろう。
「我が水の力の破壊力、貴様は嫌というほど分かっているはずだ。ただでさえ満身創痍なのに、そもそも水に対して炎は相性が悪い。貴様は私に勝てないのだよ、どう足掻いたとしてもな!」
紫の竜の瞳が輝く。ラヴォアジエにトドメの一撃を喰らわせるつもりなのだ。ただその時、口を開いたのは意外にも黒き獅子だった。
「主よ、それはやり過ぎですぞ。【大綿津海】の力を使えば、この廃工場一帯は大津波で全て押し流されてしまう。そうなってしまったら、ご要望の海の鏡を見つけられませんぞ」
「ええい、構うな! 私を愚弄したこやつは絶対に許せん。塵も残らぬほどに消滅させてやるわ!」
「う、海の鏡まで消えてしまいますぞ!」
「うるさい黙れっ! 邪魔するならお前も共に葬ってやるぞ!」
「くっ」
黒き獅子は思う。マズいぞ。紫の竜は怒りで我を忘れている。このまま黙って紫の竜の暴走を止めなかったら、首都ルヴェリエは崩壊し兼ねない。でもどうすればいいのだ。今の自分には紫の竜を制止させるだけの力は残っていないのだぞ。
黒き獅子は肝を冷やす。そして賽唐猊に乗るトウェインもまた、その思いは同じだった。
瀕死の銀の鷲を殺す為だけに、ここまで大きな力を使う必要があるのだろうか。しかし主に逆らうなんて出来るはずもない。忸怩たるもトウェインは成り行きを見守るしかなかった。
空の色が急激に暗くなっていく。巨大な水の塊が太陽からの光を遮っているのだ。それはまるでこの世の終わりの様にも見える。そして紫の竜は臨界点を迎えた水の塊をラヴォアジエに向け打ち落とすべく、体全体に力を込めた。
大綿津海は巨大な津波を発生させる驚異的な力である。例えそれがルヴェリエの様な内陸地であったとしてもだ。力が発動すれば、誰もその津波は止められない。恐らくそれは絶望と呼ぶに相応しい現象と成り得よう。だがそんな絶体絶命の状況の中でラヴォアジエは驚くべき行動に出た。
何を思ったのか、彼は大量に出血している胸の傷に自身の口ばしを突き刺す。そしてその胸の傷から一つの【鏡】を抜き出した。
「ブシャー」
鏡を取り出した事で胸の傷跡が更に拡大し血が吹き出す。もともとその傷はエクレイデス研究所での戦闘で、テスラによって刻まれた大傷である。でもラヴォアジエはその傷の中に鏡を隠し持っていたのだ。
「ほぅ、そんな所に隠しておったか。通りで見つけられぬわけだ。しかし今更取り出したからとて許しはせんぞ。鏡は当然返してもらうが、貴様は津波に消えてしまえ! ――――ん?」
紫の竜は大綿津海の力を発動させようとするも、頭上に違和感を覚えて動きを止めた。そして何かに誘われるよう空を見上げたラザフォードは目を丸くする。バカな、どうしてこの時間にこんな事が起きるのだ。
紫の竜は愕然としながら狼狽える。いや、紫の竜だけではない。黒き獅子とトウェインもまた、予想外な天体の織り成す現象に息を飲んだ。
彼らが見上げた空の先。そこに見える太陽はもう半分以上が欠けた状態でおり、またその欠けた部分は更に拡大し続けていた。
皆既日蝕である。それはまるで太陽が闇に飲み込まれているかの様だ。少し前からはニュース等で取り上げられていた現象であり、天体観測所では日蝕についてのイベントまで開催されていた。でもまさか、今日のこの時間に日蝕が始まるなんて考えもしなかった。
特に紫の竜の驚きは一入だ。周囲が暗くなったのは、自分が作り上げた水の塊で日光を遮った為だ思い込んでいたのだから当然だろう。しかし現実は違った。急速に広がる影に身が竦み出す。なぜなら紫の竜は気付いてしまったのだ。ラヴォアジエが胸から抜き出した鏡が、海の鏡ではないのだという事を。
「ラ、ラヴォアジエ。貴様、これを狙っていたのか」
「諦めなくて良かった。あなたの言う通り、炎と水では相性が悪いですからね。真面に戦っては、どうやってもあなたには勝てないでしょう。だから少々手の込んだ奇策を使ったんです。もうお分かりですよね? そう、これは海の鏡じゃない。これは【死の鏡】だ!」
「ふ、ふざけるなっ」
「体への負担は尋常じゃなく大きかったけど、それでもやる価値はあった。これであなただけではなく、黒き獅子とトウェイン将軍までも倒せるのだから」
そう話しを進めている間にも地上はどんどん影に飲み込まれていく。太陽の形はもう9割にも満たない。夕方を通り越し、黄昏時と言った暗さだ。そしてラヴォアジエは覚悟を決めた視線をラザフォードに向けて言った。
『日の光の届く昼の時間にその光届かぬ時、鏡に封印されし神は目覚める』
「あなた達なら分かるはずだ。天照の鏡の封印を解く方法を。もうあなた達は逃げられない。ここで仲良く皆死んでくれ」
「貴様とて対象の例外ではないぞ、銀の鷲よ! 貴様はそれで良いのか!」
「愚問ですね。あなた達を倒せるなら、私の命なんかいくらでもくれてやりますよ! ――さぁ、出でよ【蒼き蛭】。そして神々どもの命を吸い尽くせ!」
そうラヴォアジエが叫んだのと同時だった。月が太陽を完全に覆い光を遮断する。まだ正午を過ぎて間もないというのに、周囲は驚くほど真っ暗闇だ。ただその中で小さな水色の光が一際眩しく輝く。それはラヴォアジエが抱える死の鏡が発した光であり、その光は突如として分裂し、数えきれない程の【蛭】に形を変えた。
「どばばばばっ」
湧き出した蛭の群れがグングン増殖していく。そして象ほどの大きさをした蛭が、あっと言う間に廃工場跡地を埋め尽くしてしまった。身の毛も弥立つ光景である。まるで死が溢れ返っている様にしか見えないのだ。だがそんな大量の蛭に対し、紫の竜は先手を打った。
「神の命すら吸い取る蒼き蛭とは言えども、私にしてみれば所詮虫けら。もう準備は整っているのだ。我が大綿津海の力で消滅させてやるわ!」
頭上にあった巨大な水の塊が地上に叩きつけられる。それは大型のダムが同時に100基決壊したくらいの破壊力だ。そしてその濁流は全てを壊滅させる大津波となって廃工場を飲み込んだ。
深海に迷い込んでしまったかの様に辺りは真っ暗であり、また密度の濃い水圧で押し潰されている。地上にあった廃工場の建物などは、一瞬でその形を失ってしまっただろう。ただ大綿津海の力はここからが本番なのである。紫の竜の意志によって水は中心に凝縮されていく。すると瞬時にして超高圧になった影響なのか、押し固められた水は高熱を帯び始めた。そして、
「ググググググ、…………バン!」
凄まじい轟音を鳴動させ、水蒸気爆発が巻き起こる。規模としては核爆発と同レベルのものだ。高温の爆風が首都全体に波及して行く。更には熱湯の雨までもを大量に降らせ始めた。
「ゼェゼェ。あ、ありったけの力を叩き込んだのだ。虫けらは全部死んだだろう、――――なっ」
「ボトボト!」
紫の竜は愕然として表情を引きつらせる。なんと空から数匹の蛭が落ちて来たのだ。いや、数匹などではない。見上げた頭上からは、雨の様に蛭が降り落ちて来ていた。
馬顔のヤツと化したトーマス王子の暴挙が止まらない。いや、その身を支配する苦痛から逃れようと暴れている。そんな痛ましい姿にも見えなくはない。
スコープ越しにマイヤーはそう思い口惜しむ。それでも彼は決して狙いを逸らさなかった。もうこうなっては手遅れなのだ。ならば確実に息の根を止め、脅威を払拭するしかない。
覚悟を決めたマイヤーは躊躇せずにライフルの引き金を引く。王子の苦痛を取り除く為にも殺すしかない。彼はそう決意したのだ。――だがしかし、ライフルから発射された弾丸は馬顔のヤツに当たらない。
「くそっ、動きが早過ぎる。それにライフルじゃ小回りが利かない。これじゃ弾を当てられないぞ」
ライフルが不利だと感じたマイヤーは素早く小銃を抜いて構える。そして彼は狙いを定めて小銃を連発で発射した。
「パンパンパン!」
銃声が鳴るたびに馬顔のヤツの体が跳ねる。熟練したマイヤーの狙撃術が確実にヤツの体を捕らえたのだ。でも小銃の威力では到底ヤツを仕留められない。やはり殺傷能力の高いライフルで攻撃しなくてはダメなんだ。
マイヤーはライフルに炸裂弾を装填させて構える。この弾は厚さ5ミリの鉄板を撃ち抜けるものだ。例えヤツでも、この弾をまともに受ければダメージは深刻なはず。しかし問題はそれをどうやってヤツに打ち込むかだ。どうにかしてヤツの動きを止めないと。
マイヤーの額から大量の汗が流れ落ちる。今はまだヤツは自分とティニの周りを高速で移動しているだけだ。でもいつ攻撃に転じてもおかしくはない。それにヤツ化した王子がやたらに暴れ回ったせいで、当初あったベルトコンベアー等の生産設備は全て叩き潰されている。これでは盾として使えそうな障害物が存在しない。
馬顔のヤツがじりじりと間合いを詰め始める。マズイぞ、このままじゃジリ貧だ。後方支援が専門のマイヤーにとって、この状況は極めて厳しいものに違いなかった。ただそんな彼に向かい、尻込みしていたはずのティニが力強く声を上げる。
「隊長! あたしが王子の足を止めますから、その隙を狙って下さい!」
「無茶だ。お前じゃ返り討ちに遭うだけだ。そこにジッとしていろ」
「いいえ、行きます。このままじゃ二人とも殺られるだけですから」
「待てティニ!」
マイヤーの制止を聞かずティニが飛び出す。そして彼女は両手に素早く銃を構えた。
馬顔のヤツの駆けるスピードは恐ろしく早い。でもそこでティニが見せた身のこなしは脱帽に値する早さだった。
ティニは驚異的な瞬発力でヤツの懐に飛び込む。そして彼女は両手に構えた小銃を同時に発射し、ヤツの左右の太ももを撃ち抜いてみせたのだ。
「パパン!」
堪らずにヤツが体勢を崩す。するとそれを見たティニは一歩だけ後方に飛び退きながら再び銃を発射した。
「パンパン!」
銃弾がヤツの足の甲に撃ち込まれる。彼女の狙いはヤツの動きを止める事だけなのだ。そしてティニが決死に作り出したチャンスをマイヤーは逃さない。彼は即座にライフルの照準を合わせると、一気に引き金を引いた。
「ズガンッ!」
とてもライフルとは思えない銃声が響く。強烈な炸裂弾が発射されたのだ。そしてその凶弾は確実に馬顔のヤツに命中する。だがしかし、それはヤツの硬い背中で弾かれてしまった。
「バキーン!」
火花が飛び散ると共に、耳障りな金属のこすれ合う音が高鳴る。炸裂弾がヤツの背中で防がれた証拠だ。ヤツの背中はどれだけ硬いんだ。マイヤーは戦慄を覚え息を飲む。だがそこでティニが彼を奮い立たせた。
「まだです隊長、もう一撃です! 炸裂弾は弾かれたけど、でもヤツは無傷じゃない。炸裂弾の衝撃は確実にヤツを弱らせているはずですから、もう一発撃って!」
ティニの言う通りだ。ヤツは炸裂弾を受け流しただけで、ダメージを受けなかったわけじゃない。それはフラフラと立ち上がるヤツの姿を見れば分かるじゃないか。
マイヤーは新しい炸裂弾をライフルに装填すると、それを素早く構え直す。この状況なら絶対に外しはしない。今度こそ確実に仕留めてみせるぞ。マイヤーは迷いなく引き金に掛けた指先に力を込めた。――だがその時だった。
「ズドドドドーン!」
頭上より強烈な衝撃が伝わる。とても立っていられない振動だ。地震なのかか? でも衝撃は上から伝わって来たぞ。しかしそうマイヤーが思うよりも先に、頭上から大量の水が押し流れて来る。そしてその水はあっという間に激流となり、それは地下施設の天井を瓦礫に変えた。
「うわっ」
「きゃっ」
マイヤーとティニの悲鳴が響く。そして彼らはどうする事も出来ず、馬顔のヤツ諸共崩れて来る瓦礫に埋もれてしまった。