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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第五幕 寒乱(さみだれ)の修羅
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#95 佐保姫の泣血(腥風に散る命の灯2)

 両手両足を失い、また体全体を(ひど)く焦げ付けさせた獏顔のヤツは虫の息だ。何より布都御魂ふつのみたま穿(うが)たれた心臓部分は完全に壊死している。例えそれがゾンビ状態だからといって、今のヤツはもうどうする事も出来ない。

 ただそんなヤツの姿を前にしてジュールは思わずドキッとした。ボロボロになったヤツの姿は、より一層醜い化け物の(おぞ)ましさを露呈させていて気味が悪い。しかしその瞳だけは何故か、とても澄んだものに感じられたのだ。

 ヤツの姿にまだ人間だったガウスの姿が重なって見える。でもそんなはずはない。もうガウスは死んでしまったんだ。ここに居るのは死してなお獰猛な牙を剥き出しにする化け物だけ。しかしそう思うジュールの前で、ヤツはその綺麗な瞳から一粒の涙を流しながら告げたのだった。

「やっぱり強ぇな、ジュールさんは。俺にはどう足掻いても敵わないよ――」

 それは紛れもないガウスの声だった。それにその声には少しの温かみまで感じられる。ヤツの体に何が起きたというのか。要領が掴めない不可思議な状況にジュールは戸惑う。ただそれでも彼はヤツに向かい声を掛けたのだった。

「ガウス、お前……。意識が戻っているのか?」

「ずっと意識はあったさ。でもなんつうか、すごく近くで格闘技の試合を観戦してるみたいに、自分が戦っている感覚はなかったよ。すごく、不思議な感覚さ」

「そう……か。でもお前、その体じゃもう」

「分かってますよ。痛みはほとんど感じないけど、俺に残された時間はほとんどないんだってね。でもさ、俺は一度死んでるんだぜ。それがこうしてもう一回ジュールさんと話が出来ているんだ。これって、かなりラッキーですよね」

「フッ。お前、こんなボロボロになってるのに、ずいぶんポジティブなんだな。俺の方は正直辛すぎて泣きそうだよ」

 ジュールはそう言うと、グッと奥歯を噛みしめた。ガウスの声を聞いた彼の目からは、本当に涙が溢れそうになっていたのだ。ただジュールはそれをグッと堪える。泣き顔なんか見せられやしない。死にゆくガウスの為にも強くあらねばいけないんだ。ジュールはそう思ったからこそ、強がりの微笑(ほほえみ)を浮かべたのだった。するとそんな彼に向かいガウスも微笑む。きっとガウスにもジュールの悲痛さが伝わったのだろう。ただガウスは残り僅かな時間に(すが)るよう、ジュールを見つめて口を開いた。

「ジュールさん。本当に、本当に済みませんでした。あんたにこんな辛い思いをさせちまうなんて、俺は大馬鹿野郎です」

「良いんだ、ガウス。もう良いんだよ」

「いや、良くなんかない。俺のせいでジュールさんに迷惑を掛けちまったし、何よりアメリアさんを危険に晒している。後悔してもしきれない。でも、それでも俺にはこうするしかなかったんです……」

 そう告げたガウスの目から再び涙が零れ落ちる。ゾンビ状態であるのに、まだ涙は枯れていないのだろうか。ただガウスにその涙を拭う腕はもうない。だから彼は流れ出た涙をそのままにして、続きを話し始めた。

「お、俺には、女房や子供とは別に、もう一人だけ【家族】って呼べる存在がいるんです。そいつは【ソフィ】っていう名前の女で、俺の妹なんだが……」

 ジュールの脳裏に浮かび上がる一人の女性。それはガウスが自害を謀った際に感じた人影だった。もしかしてこの女性がソフィって名のガウスの妹なのか。

 寂しそうな横顔を見せる若い女性の姿。切れ長の目が特に印象的だ。ただ大人になりきれていなそうな若さを感じる。年齢は二十歳手前と言ったところか。でもなぜだろう。見た目の若さに反し、その女性からは妖艶な魅力を感じる。

 ジュールは脳裏に映るそんな女性の姿に当惑した。だがそこで彼はこうも思った。ガウスの妹にしては顔が似ていない。それに思い返せばガウスに妹がいたなんて聞いた事もないのだ。ジュールは神妙な顔つきでガウスに視線を向ける。するとそんな彼の戸惑いを察したのだろう。ガウスは軽く(うなず)いてから続きを語った。


「妹のソフィとは腹違いでね。あいつは俺のとは違う母親の血を濃く受け継いだんだろう。だから俺とは全然似てないんだ。今は十九、いや、もう二十歳にになったか。俺が言うには何だけど、ソフィは美人なんだよね。出来る事なら、ヘルツの奴に紹介してやりたかったぜ」

「だけどその妹が、どうして俺達を裏切る理由になるんだよ。さっぱり分からない」

「り、理由は単純だよ。トウェイン将軍に、ソフィを人質にされたからさ。ただ、その過程が、結構複雑でね。俺はトウェイン将軍の指示に、し、従うしかなかったんだ――ぐっ」

 ガウスが辛そうに表情を歪める。さすがのゾンビの肉体も限界に達したのだろう。壊死した心臓部分が腐敗し、その範囲が徐々に体全体へと広がって行く。もう数分も持つまい。だからガウスはジュールを見つめ、祈る様に告げたのだった。

「も、もう、トウェイン将軍は終わりだ。あの人は神を甘く見過ぎたんだ。ど、どれだけ最先端の科学技術を用いたとしても、獣神に勝つなんて、ゆ、夢の話しだよ。ジュ、ジュールさんと戦って、俺は分かったんだ。や、やっぱり人が神に挑むのには、む、無理があるんだってね。で、でも、これで良かったんだろう。将軍が死ねば、ソフィは救われるんだから――。た、ただ、あいつは、ソフィは自分自身を憎まずにはいられない性格だから、本当の意味であいつを救えるのは、ジュールさん。あんたしかいないんだよね」

「な、なに言ってるんだよガウス。俺はお前の妹に会った事もないんだぞ」

「無茶を言っているのは、分かってる。で、でも、やっぱりジュールさんにしか頼めないんだよ。だ、だってソフィはジュールさんと同じ【月読(つくよみ)胤裔(いんえい)】なんだから」

「な、なんだって!」

 唐突なガウスの言葉にジュールは驚愕を隠せない。ただそんな彼に向かいガウスは、残り少ない命を絞り出す様にして告げたのだった。

「しょ、将軍は、ジュールさんを倒せば、ソフィを解放すると言った。そ、それに、ジュールさんを殺せば、ソフィは普通の人間に戻れるって言ったんだ。そ、それが本当なのか、お、俺が口車に乗せられただけなのか、それは分からない。で、でも俺には、俺には将軍の指示を受け入れるしかなかったんだよ。だって、俺がソフィから、大事なものを奪ってしまったから、あいつは……。本当に、済まない。ソフィ、俺が憎いだろう」

「ガ、ガウス!」

「俺は、俺ばかりが家族を持って、し、幸せになって……。そ、それなのにお前は、あの怠惰な母親と同じ影に捕らわれてしまった。どうしてこうなっちまったんだよ。ど、どうして俺を、頼らなかったんだ。お前が望むなら、俺は――――グオォォォ!」

 突然ガウスが猛獣の様な唸り声を上げる。ヤツに戻ってしまったのか。腐っていく体がガウスの意識を薄れさせ、そのせいでヤツとしての狂気が再び噴出したのかも知れない。ただギリギリのところで踏み止まったのだろう。ガウスは失われていく意識の中で、それでもジュールに最後の望みを託したのだった。

「グオォッ、くっ、ジュ、ジュールさん。あいつは、ソフィは【バロー】にいるはずだ。だ、だからお願いだよ。あ、あいつの、あいつの力になってくれないか。あんたなら、ジュールさんならきっと、ソフィを救えるはず、だから…………」

 一足先に光を失ってしまったのか。ガウスの瞳にジュールは映っていない。もう彼の命が尽き掛けているのは明らかだ。そんな彼が最後に願った望み。それが何なのかは分からないし、どうすればいいのかも分からない。でもジュールはガウスに向かい、その願いを受け止めたのだった。

「分かったよ、ガウス。お前の妹は俺が責任を持って面倒をみるよ。だからもういい。お前は楽になってくれ」

「あ、ありがとう、ジュールさん。そ、その言葉が聞けて、本当に嬉しいよ。バ、バローに行ったら、【ガルヴァーニ】っていう爺さんを、探してみてくれ。そ、その爺さんが、ソフィの居場所を知っているはずだから」

「ガ、ガルヴァーニさん!?」

「たぶん驚くと、思うな。だってあの爺さんは、グラム博士に……そっくり……だから……ね」

「おいガウス。もう少し聞かせてくれ。ガルヴァーニさんとお前の妹にどんな関係があるっていうんだよ!」

 不意に告げられたガルヴァーニの名前にジュールは戸惑う。確かにアニェージは言っていた。ガルヴァーニさんはバローを拠点にしていると。でもそれとガウスの妹がどうして繋がっているんだ。ジュールは反射的にガウスに聞き尋ねた。ただそんな彼の声はもうガウスには届かない。ガウスの耳はすでに腐敗してボロボロになっていたのだ。それにガウスの体は急速な乾燥状態に変化しつつある。ミイラ化の現象が起きているのだ。これも布都御魂ふつのみたまの能力の影響なのだろうか。だがそれでもガウスは本当の死が迫る中で言った。ジュールのこれからを誘う様に。

「ア、アカデメイアの……過去を……探るん……だ。じゅ、十七角形の……紋章に……秘められた伝説が……き、きっと……ソフィを、ジュール……さんを…………祝福してくれる…………はずだから…………」

 そう小さく(つぶや)いたガウスの目から、最後の涙が一粒落ちる。しかしその涙はスッと消え失せてしまった。ミイラ化の進行に吸収されてしまったのだろう。ガウスの体はジュールの目の前でみるみると干からびて行く。そしてあれほど屈強だったガウスの体は、あっという間に皮と骨だけになってしまった。

 もうそこにあるのは干からびたヤツの死骸だけだ。ガウスの魂はどこにもない。ただそんな亡骸の横でジュールは再び得体の知れない頭痛に襲われていた。大切な仲間だったガウスを失った悲しみに苦しんでいるわけではない。頭の内側から沸き起こる大音量のオーケストラの様な演奏に耐えられないのだ。

「パパパァーン! ファファーン!」

 何なんだ、この音楽は。どこから聞こえて来るんだ。いい加減にしてくれ。このままじゃ、頭がどうにかなっちまう。悶絶するジュールは頭を抱えながらその場に(うずくま)るしなかい。それに頭だけではなく、右目の奥が熱くて堪らないんだ。クソっ、こんな所で止まっている暇なんか無いっていうのに。

 ここに来た一番の目的はアメリアを救う事。そしてこの先にアメリアはいるんだ。もう手が届くすぐそばにいるんだ。だから俺は行かなくちゃいけないんだよ。そうだろ、ガウス。俺はアメリアを、そしてお前の妹も救ってみせる。だから俺に力を貸してくれ、ガウス!」

 そう意気込んだジュールは激しい頭痛に(むしば)まれながらも懸命に立ち上がる。だがしかし、彼の体力はそこまでだった。足を一歩踏み出そうとしたジュールは、そのまま前のめりに倒れ込んでしまう。そして彼は完全に意識を失ってしまった。

 あれ程の激闘が嘘だったかの様に静まる地下工場。そんな地下工場を真っ二つに切り裂いた谷の反対側で、テスラは気絶して倒れるジュールを複雑な想いで見つめていた。



 アニェージが凄まじい機械音を響かせながら豹顔のヤツに飛び蹴りを叩き込む。義足に内蔵されたジェット機能は最大出力の状態だ。それに彼女はバトルスーツの能力を4倍にまで引き上げている。彼女が豹顔のヤツを殺す事だけに集中している証しだ。

 だがこれはアニェージの体力から考えれば、かなり危険な状況だと言えるだろう。なぜならアダムズ軍きっての精鋭隊士であるトランザムやコルベットですら、スーツの能力は3倍がいいところなのだ。

 体力自慢であり、また神の力をその身に宿すジュールであればこそ、最大能力の8倍まで使用するのは可能である。しかし生身の人間であり、また体格的に不利な女性であるアニェージがスーツの能力を4倍にまで引き上げているのは自殺行為に他ならない。だがそれこそがアニェージの覚悟だった。

 体への負担なんか考えていたらヤツには勝てない。いや、むしろ命を捨てるくらいでヤツに勝てるなら安いものだ。彼女はそう腹を(くく)ってヤツに攻撃を仕掛けたのである。

 目にも止まらぬ速度にまで加速したアニェージの蹴りが豹顔のヤツに向かい一直線に飛ぶ。それはまさに生身を弾丸に変えたロケット砲だ。直撃すれば如何に強靭な肉体を持つヤツであろうと一溜りもあるまい。――がしかし、豹顔のヤツは嘲笑うかの様にしてアニェージの攻撃を容易く(かわ)した。

 彼女の体はそのままコンクリートの壁にブチ当たる。すると激しい衝撃が波及し、コンクリートの壁は粉々に砕け散った。白い煙が立ち込める。ミクロ状になったコンクリート片が拡散しているのだ。だがその煙を突き破ってアニェージが飛び出して来る。彼女は直撃した壁を踏み込んで、再びヤツに向かって蹴りを浴びせたのだ。

 アニェージはこの攻撃を繰り返す。すでに無数の蹴りが直撃した事によって、四方の壁は滅茶苦茶な状態だ。でもそれは彼女の攻撃がヤツに当たっていないのも意味している。最も自信のある攻撃が(かす)りもしない。それも命を削ってまで繰り出している攻撃なのだ。ここまで力の差があるっていうのか。

 蹴りが(かわ)される度にアニェージは心の折れる思いがした。でも攻撃の手を緩めるわけにはいかない。3分間ヤツは手を出さないと言ったんだ。ヤツがその余裕を見せている間に一撃でも喰らわせられれば勝機はあるはず。彼女はそう自らを奮い立たせて連続攻撃を繰り出した。

 しかし豹顔のヤツは完全にアニェージを見下している。これをゲームだとしか考えていないのだろう。命懸けの攻撃を仕掛け続けるアニェージとは対照的だ。ただそんなヤツもその状況下で少しの違和感を覚えていた。

 イメージに比べて攻撃を避ける反射速度が遅い。もしかしてこれは天体観測所で受けた戦いのダメージが響いているからなのか。自らの体の重さにヤツは(わず)かな苛立(いらだ)ちを感じ舌打ちする。するとその時だった。完全に見切ったはずのアニェージの蹴りが、ヤツのアゴを(わず)かに(かす)める。

「うおっ」

 豹顔のヤツがビビりながら体を()け反らせる。予想外に速かったアニェージの攻撃にヤツは冷やっとしたのだ。

「あっぶねぇな」

 ヤツはペロリと舌を出しながら卑しく呟く。これくらいのスリルがなくては逆につまらない。ヤツはそう思いながら口元を不敵に緩めた。だがそんなヤツの腰がガクリと落ちる。

「何だ?」

 ヤツは力の抜けた自分の体に驚きを隠せない。もしかして、さっき掠った蹴りの影響なのか。でもそれは当然の結果だった。なぜならアニェージの蹴りは迫撃砲並みの威力を有しているのである。そんな蹴りが僅かとはいえアゴを掠めたのだ。その衝撃によって脳が揺さぶられ、体から力が抜けたのは明白であろう。

 そしてその僅か隙をアニェージは見逃さない。彼女はコンクリートの壁を強く蹴り込むと、その反動を利用してヤツに向かい突っ込んだ。

「キイィィィーン!」

 義足から響く機械音が更に大きく高鳴る。まるでジェットエンジンが火を噴いているかの様だ。いくら特殊な義足の性能とはいえ、これではとてもアニェージの身が持たない。だが彼女自身はそんなリスクなどお構いなしに蹴りを繰り出す。そしてその一撃はヤツの顔面を確実に蹴り上げ、猛烈な勢いでヤツを吹き飛ばした。

「ズガン!」

 ヤツの巨体が激しくスピンしながら宙を舞う。そしてその体は錐揉(きりも)みしながら落下し床に激突した。

「やったぞ、ザマァないね」

 アニェージはコンクリートの壁に垂直な姿勢で着地しヤツを睨む。

「人を舐めきっているからこうなるんだ。傲慢の代償は高くついたな!」

 そう心の中で叫んだアニェージは再び壁を強く踏み込む。もう一撃、ヤツに全力の蹴りを叩き込むんだ! アニェージは満身創痍の体に鞭を打って、ヤツに(とど)めを刺すべく力の限り飛んだ。

 ジェットエンジンを思わせる高音が響き渡る。これでヤツを殺せるなら、もう動けなくなってもいい。アニェージはそう決心したからこそ、限界を超えた体で攻撃に打って出たのだ。

 加速したアニェージの体が音速の領域に入る。とんでもないスピードだ。でもこのスピードに乗った蹴りの威力であれば、確実にヤツを殺せるはず。アニェーニの視界には床に伏せるヤツしか映らない。

「死ね、これで終わりだ!」

 彼女はそう叫びながらヤツに最大最強の蹴りを捻じ込んだ。――がしかし、その直前にヤツはうつ伏せのまま真上に飛び上がってアニェージの蹴りを(かわ)した。


「ズッドガァァーン!」

 アニェージの一撃はそれまでヤツがいた床を粉々にしながら突き進む。そして彼女の体はコンクリートの壁に直撃してようやくその動きを制止させた。

 目を見張る攻撃力だ。硬い床を数十メートルも(えぐ)り、そこに深い溝を刻み込んだのである。人間業(にんげんわざ)を完全に超えた一撃だ。しかしどれだけ強力な一撃であろうとも、それが当たらなければ意味は無い。

 アニェージは悔しさで唇を噛みしめている。彼女は口元を摩っているヤツの姿を見て察したのだ。ヤツはほぼ無傷だ。ダメージなんか受けていない。錐揉みの様に飛んだのは、衝撃を緩和させる為に自分で飛んだんだ。

 アニェージの顔からみるみると血の気が引いて行く。ヤツは天体観測所で(シャチ)顔のヤツになったソーニャから相当のダメージを受けていたはず。それのなに手も足も出ない。こんなにも力の差があったなんて……。

 絶望感ひしめく状況にアニェージの心は折れる寸前だ。こんな化け物に勝てるわけがない。でも、それでも諦められるか! 彼女は懸命に自分自身を奮い立たせる。ただそんな彼女に対して無情にもヤツは言ったのだった。

「残念だけど3分経ったぜ。それなりに楽しかったけど、こいつはルールだからな。ここからは本気を出させてもらう」

「そ、そんな事言わないで、もう少し私に付き合いなよ。こんな良い女が相手をしてやってるんだ。こんなに早く切り上げるなんて、もったいないだろ」

「ヘッ、確かにそれは言えてるな。でもな、トウェイン将軍が獣神に負けた場合、あの【王子様】が生きていると困るんだよね。都合が悪いんだよ」

「ん、どういう意味だ? お前、トーマス王子に何かしたのか!」

「俺がしたわけじゃねぇよ。ただ、なんつうか、あれだ。俺にしてみれば、色々と面倒なだけ――――。こんな無駄話してる場合じゃねぇな。とりあえず、お前はもう死ねよ」

 そう言った豹顔のヤツから凄まじい殺気が放出される。これまで遊んでいたヤツがスイッチを切り替えた証拠だ。こいつはマジでヤバいぞ。

 アニェージはヤツから感じる凄味に背中を粟立てる。すでに全力という全力は出し尽くした。これ以上自分に出来る攻撃はないし、そもそも立っているだけで精一杯なんだ。骨の何本かは折れているだろうし、内蔵だってとても正常だとは考えられない。

 こんな絶望感、今まで経験した事があっただろうか。いっそ死んでしまった方が楽なんじゃないのか。彼女は正直にそう思い、心から負けを認めたい気持ちになる。だがそれでも彼女は姿勢を整え始めた。そして少し腰を落とした体勢で構えた彼女は、苦笑いを浮かべながら吐き捨てた。

「ホント、化け物を相手にするのは疲れるな。こんなの、人間のやる仕事じゃないよ。でもさ、私にだって意地はあるんだ。この心臓が動いている限り足掻(あが)いてみせる!」

 決して投げやりになったわけじゃない。たとえ勝てない相手だとしても、みんなを逃がす時間稼ぎくらいは出来るはずなんだ。諦めるな。あいつと約束したじゃないか。あいつに、ジュールに恰好悪いところなんて、見せられるわけないだろ!

「ガチン」

 アニェージの膝下(ひざした)から複数の銃口が顔を出す。そして彼女は躊躇(ちゅうちょ)する事なく、そこから強力なビーム攻撃を乱射させた。

 高熱を帯びたビームの拡散が周囲を燃焼させる。まさに逃げ場所の無い無差別攻撃だ。常識的に考えれば、この攻撃を(かわ)すなんて不可能としか考えられない。だが信じられない事に、ヤツはその攻撃すら抜群の反射神経で(かわ)した。

「まだだっ、逃がしはしないっ!」

 アニェージは苦痛で表情を(ゆが)めながらも攻撃の手を緩めない。これが私に残された最後の奥の手なんだ。これまで無傷で(かわ)されて(たま)るか!

 義足に仕込まれたビーム砲のエネルギーがみるみると消費されていく。このままビームを撃ち続ければ、アニェージの義足は間違いなく動かなくなってしまうだろう。そもそも彼女はこれまでもフルパワーで戦っていたのだ。それに天体観測所でもノーベル相手にビーム攻撃を使っている。これほど義足に負担を掛けた経験はない。いや、むしろまだ義足が動いているのが奇跡と言えよう。

 それにアニェージ自身の体への負担もかなりのものだ。音速の攻撃を幾度も繰り返した衝撃は、彼女の体を内側からボロボロにしていたのである。立ち上がる事すら困難にするほどに。そして何より大きな負担となっているのが、本日二度目のビーム攻撃なのだ。

 この攻撃による体へのフィードバックは凄まじい。一度発射しただけでも、普通であればその後一週間は真面(まとも)に歩けなくなる代物なのである。だが彼女はそれをお構いなしに発射した。もう彼女には先の事を考える余裕がないのだ。

 ただ乱射していたビームの数が徐々に減少していく。エネルギーが底を尽き掛けているのだろう。このままではマズい。アニェージは焦りを感じながら奥歯を噛みしめる。でもその時だった。突如として発生した電撃がヤツの体を駆け抜けた。

「ビギャーン!」

「ぐおっ」

 ヤツの動きが(わず)かに鈍る。今しかない! ヤツの動きを確認したアニェージは、最後の力だとばかりにビームを拡散させた。すると今度はヤツの足元が爆発する。それも一発ではない。何発もの爆弾と電撃がヤツの周囲を覆い尽くしたのだ。

「ドガン、ドガーン! ビギャーン!」

 凄まじい爆発と電撃が立て続けに発生し、その衝撃がヤツを襲う。そう、アニェージはヤツに向けて飛び蹴りを加えながら、その隙にヤツの足元に玉型兵器を散りばめていたのだ。そしてそれをビームの乱射によって打ち砕いたのである。するとさすがのヤツもこれには堪えたのだろう。全身を黒く焦げ付かせたヤツは、爆発に巻き込まれながらも強引にその場から退避を試み始めた。だがアニェージはそんなヤツを逃がさない。

「いい加減に死ねよ、化け物が!」

 アニェージはビームを一点に集中させる。狙いはもちろんヤツだ。そしてその攻撃は彼女の想いを詰め込みながら、ヤツの右肩を(つらぬ)いた。

「ギャッ」

 ヤツが悲鳴を漏らす。いくらヤツが強靭な肉体を持っていたとしても、高熱のビームが直撃したなら無事ではいられない。肩を射抜かれたヤツの膝がガクリと折れ曲がる。玉型兵器の衝撃も相まって、ヤツには相当のダメージが刻み込まれたはずだ。

「死んじまえよ! 頼むから死んでくれ!」

 アニェージは一旦ビームを止めて力を溜める。だが即座に彼女は自らの命を絞り出す様にして、ヤツを狙いビームを発射した。一気にケリをつけるつもりだ。

「くたばれーっ!」

 全身全霊を掛けたビームが一本に集約され発射される。この一撃にアニェージが全てを懸けたのは言うまでもない。そしてその全精力の一撃はヤツの心臓目掛けて一直線に飛び、それを一気に貫いた――――かの様に思われた。が次の瞬間、アニェージは意味が分からないまま吹き飛ばされた。


「ぐほっ……」

 床に転がったアニェージは悶絶し(うずくま)っている。一体何が起きたっていうんだ。訳の分からない状況に彼女は戸惑う事しか出来ない。しかしアニェージはそれ以上に強く伝わる腹部の強烈な痛みに表情を(しか)めた。

 右のわき腹が深く(えぐ)られている。鋭い爪で削り取られた傷跡だ。肋骨が顔を出す程の重傷であり、当然ながら出血も多い。この状態では戦うどころか、立ち上がる事さえ不可能だろう。

 アニェージは愕然と肩を落とす。気持ちが完全に折れてしまったのだ。でもそれは致命傷を負ってしまった自分に対してではなく、絶対の自信を持って放った攻撃が(かわ)されてしまった無念さから来る感情だった。

「ま、まさか、あのビームを(かわ)して私にカウンターを仕掛けたっていうのか」

 アニェージは悔しさを露わにして落胆する。まるで見えなかった。でも豹顔のヤツがビーム攻撃を(かわ)し、その後一瞬で自分の懐に飛び込み、そこにあった腹を抉り取ったのは事実なのだ。

 信じられない。何だって言うんだ、この異常な強さは。こんな化け物に勝てるわけないじゃないか。それにしてもズルい。ズル過ぎる。私にもあんな強さが有れば、みんなを守れたはずなのに。どうして悪い奴ばかりが強さをもつんだよ。

 アニェージは嘆息するしかなかった。もう戦う(すべ)は何一つ残っていない。いや、そもそも絶対的な力の差があるのだ。この戦いでその差を思い知らされた。屈辱でしかないが、アニェージは敗北を認める。するとそんな意気消沈した彼女に向かいヤツは言った。

「最後のビームを拡散にしとけば、俺を()れたかも知れないな。ビームは直線だからよ。いくら早くたって、軌道さえ予測出来れば避けるのはそんなに難しくはないんだ。まぁ、そうする為にあえて心臓を狙わせたのは、俺だけどな」

 右肩を押さえながらヤツは言う。その表情からは余裕の様なものは感じられない。アニェージの攻撃にヤツも追い詰められた状況だったのだ。そしてそれを決定付ける様にしてヤツは続けた。

「まったくよう、恐ろしい女だな、お前。ゲームのつもりがマジで本気出しちまったじゃねぇかよ。まさかこんなにも手を焼くとは思わなかったぜ。それにこの肩、痛くて(たま)んねぇよ。さすがにこれは厄介だな」

 ビームで打ち抜かれた肩が相当に痛むのだろう。ヤツは眉間にシワを寄せながら痛みを(こら)えている。やはりビーム攻撃はヤツに大きな深手を与えていたのだ。ただそこでヤツは(おもむろ)に小銃を取り出して言ったのだった。

「こんなマネするのは俺の主義に反するんだが、もう疲れたんでな。これで終わりにさせてもらうぜ」

「ア、アカデメイアにいるヤツってのは、みんなお前みたいに強いのか? でも何故だろうな。私には貴様の強さだけが突出したものなんじゃないのかって思えてならないよ」

「へぇ、そいつは嬉しいね。でも確かにお前の言う通りだよ。組織にいるヤツで俺よりも強い奴はいない。もしいたとすれば、俺が殺しているからな」

 豹顔のヤツは口元を緩めながら言った。アニェージの感想を素直に嬉しく思ったのだろう。だがヤツは冷酷にも銃を彼女に向ける。

 その銃は少し変わった形をしていた。銃口のある先端部分が異様に大きい。それに銃の上部には、手の平ほどの大きさをした鏡の様なものが飛び出している。本物の銃なのか? アニェージは(かす)み始めた意識の中でそう思い首を傾げた。

「変な形をした銃だな、それ。それで私が殺せるのか? 悪いがオモチャにしか見えないよ」

「死に際に何をホザくかと思えば、そんな事か。こいつはウチの天才科学者が開発した秘密兵器の銃でな。こいつで撃たれた奴は、そりゃ酷ぇ死に方するんだってよ。まぁ、俺も使うのは初めてだから良く分かんねぇけどよ、ノーベルの奴は本物の天才だからな。この銃もマジでスゲェんだろうぜ」

「ノ、ノーベルだと。あ、あの腐れ外道が。あの下衆野郎さえいなければ、ソーニャやラウラは悲しい想いをしなくて済んだのに。あいつだけは、あいつだけは私の手で殺したかった……」

 アニェージの目に涙が溢れる。救われない死を迎えた二人のアスリートを思い出しているのだろう。でも今の自分にはどうする事も出来ない。無念だ。彼女はそう心の中で(つぶや)きながら目をきつく(つぶ)った。だがそんなアニェージに向かいヤツが告げる。それは屈辱以外のなにものでもない、彼女を嘲笑(あざわら)った言葉であった。

「お前がノーベルを憎む気持ちは何となく分かるよ。でもよ、あいつを殺したって、何も変わらないぜ。だってノーベル以外にもアカデメイアに科学者は沢山いるし、それにアスリートを拉致するのは【俺】の仕事なんだ。あれは稼げる美味しい仕事なんだよね。ちょっとばかり運動神経良い奴を連れて来るだけで、ガッポリ貰えるんだぜ。やめらんねぇだろ」

「な、なんだと貴様!」

「俺は暴力と金が大好きなんでね。悪いが組織から依頼があれば、これからもアスリートを(さら)って来るつもりだよ、ハハハッ。――死ね」

 豹顔のヤツが銃の引き金を絞る。何の躊躇もない非情な行為だ。そしてその瞬間にアニェージは目から悔し涙が一粒流れた。

 家族の仇も討てず、ソーニャとラウラの無念も晴らせなかった。本当に口惜しくて堪らない。でも少しくらいは時間が稼げたんじゃないのだろうか。願わくは、マイヤー達が無事にこの施設から逃げ出し、ジュールと合流してほしい。それだけが、今の私にとっての望みだ。

 奇妙な形をした銃から発射されたのは弾丸ではなく、強烈な青白いレーザー光線であった。そして無音で照射されたレーザー光線がアニェージの体に直撃する。すると雷に撃たれたかの様にして、彼女の体が(しび)れ上がった。

「キィヤャァァァー!」

 アニェージは聞くに堪えない悲鳴を上げる。体が内側から引き裂かれていく様な、尋常でない痛みに襲われたのだ。それに首の後ろ側が猛烈に熱い。溶けるくらいに熱せられた鉄を押し付けられているみたいだ。

 アニェージは言葉では表せない常軌を逸した苦痛に(さいな)まれる。これが死というものなのか。死とはこんなにも痛くて辛いものなのか。耐えきれない苦痛に彼女は激しく身悶える。しかしその状況下で彼女は感じた。湧き上がって来る超絶な【怒り】を。

 もうどうなってもいい。体が引き裂かれても結構だ。ヤツを殺せるなら。そう、こいつを殺せるなら、私は悪魔になったって構わない!

 首の後ろから憎悪が溢れ出してくる。禍々しくてドス黒い力が。でもどうしてこんな力が湧き出して来る? 私は死ぬんじゃないのか。私に一体何が起きているっていうんだ。

 錯綜する意識の中でアニェージは思う。待てよ、そう言えば天体観測所でノーベルが言っていた。私に力を授けると。もしかしたらこれがそうなのかも知れない。でもこれは絶対に手を出してはならない禁断の力。

 分かっている。これに手を出してしまったら、私はもう戻れない。だけどこの力ならヤツに勝てるはずだ。そうなんだ。私が望んでいたのはこの力なんだ!

 アニェージは湧き上がる怒りに身を(ゆだ)ねる。どう足掻(あが)いたところで、どうせ死ぬ運命だったんだ。ならば、たとえ取り返しがつかなくなろうとも構わない。今はただヤツを憎み、恨み、そして殺す。その憤怒だけが私の心臓を動かし、気持ちを駆り立てているんだから。だから絶対にヤツの息の根を止めるんだ! 父と母の仇を、ソーニャとラウラの恨みを晴らす為に。

 アニェージの体から途轍もない殺気が放出される。いや、それは単なる殺気などではない。凄まじい怨念が込められた呪の様な禍々しい覇気だ。そしてその覇気はグングンと増幅されていく。彼女自身の【体】を変化させながら。

「おいおい。何の冗談だよ、コイツは」

 豹顔のヤツが苦笑いを浮かべながら変化するアニェージを見つめる。これにはさすがのヤツも舌を巻く思いがしたのだろう。ヤツの方も観測所からの連戦で疲労が溜まっているのだ。でもその目の前で考えもしなかった現象が発生している。それもヤツからしてみれば悪い方に。

 みるみると膨れ上がるアニェージの体。もうその体格に彼女の面影は感じられない。(えぐ)られたはずの腹の傷は完全に(ふさ)がれ、そこを真っ黒な毛が覆う。そしてその体は豹顔のヤツとほぼ同じ体格にまで変化した。

「グロロロロ――」

 縦に開かれた鋭い瞳孔が豹顔のヤツを(にら)みつける。獰猛な肉食獣が持つ戦闘的な眼光だ。でもそれは当然であろう。なぜならアニェージは【腐った猫】の顔をしたヤツに変化を遂げていたのだ。そしてヤツになった彼女は怒りを込めて口を開く。それは豹顔のヤツを絶対に殺すという執念の現れだった。

「覚悟しろよ、クズ野郎。ズタズタに引き裂いてやる!」

「お、面白れぇじゃねぇかよ。化け猫女になったくらいで生意気になるんじゃねぇ!」

 猫顔のヤツと豹顔のヤツの殺気が激しくぶつかり合う。そして二体のヤツは、壮絶な殺し合いを開始した。

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